canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

幸福について本気を出しすぎて考えたら、マズローの自己実現理論を更新して世界平和を希望していた話。

この1年間、気づけば「幸福について考える」というのが、自分の大きなテーマだったように思います。
最初は「どうすれば幸福になれるのか?」という問いを立てていたのですが、漠然としすぎて考えが深まらなかったので、具体的には下記2つの問いを考え続けていました。

■幸福とは何か?
■どうして人は幸福になりたいと思うのか?

考えていたら道は開けるもので、少し前に、この2つの問いに自分なりの答えが出せたので、それをまとめることで2015年の総決算としたいと思います。
いつも以上に長いかもしれませんが、年末のお供に、よかったら読んでみてください。
※以下に「幸せ」という言葉も登場しますが、幸福と同義だとお考えください。

 

■幸福とは何か?

幸福については、過去様々な人が独自の定義を打ち出していますが、どれもイマイチだなと思っていました。
wikipediaの「幸福論」をご覧になるとわかるとおり、キリスト教的な神との関連が強すぎて馴染めなかったり、幸福になるための方法論だけで「幸福な状態そのもの」に関しては何もわからなかったりするためです。

幸福論 - Wikipedia

 

他にも、Amazonのランキング大賞に選ばれた『嫌われる勇気』。きっと読まれた方も多いかと思いますが、そこで紹介される「アドラー心理学」では、幸福の要因として3つの原則が挙げられています。

 

1.自分が好き

2.他人を信頼できる

3.社会や世の中に役立っているという貢献感がある

 

3つの原則については納得しますが、これも「幸福とは何か?」という問いに答えてくれるものではありません。幸福が何か分からなければ、それを追い求めることもできません。

さて。前置きが長くなりましたが、ここでまず結論をお伝えします。

 

幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」です。
あっけない定義ではありますが、これが必要十分で、全てです。

 

たとえば、幸福について考えている中で、こんな問いにぶつかることがありました。

・どうして客観的には幸せそうに見えるのに、幸せでない人がいるのか?
・何も考えていない人は幸せそうだ。考えないことが幸せの秘訣なのか?

こうした問いに、上記の定義は簡単に答えを出してくれます。

客観的には幸せな環境(例えば、人やお金や幸運に恵まれている)でも、それを維持したりうまく活用したりする方法がわからず、ましてや悪事の果てに得た環境であれば、思い悩むことは尽きません。結果として、どんなに恵まれた環境にいても、思い悩む理由を排除できる自分にならない限り、幸福にはなれません。
莫大な資産を受け継いだ2代目が幸福になりづらいとするなら、その要因はここにあります。

一方で、思い悩まない=考えないことは一見幸福に見えますが、外部環境が伴わなければ、いずれ辛い現実に直面する日がやってきます。つまり、幸福と「現実逃避」や「思考停止」や「隷属」は、非常に近い関係にあると言えるのです。
ある男女が共依存関係にあるとして、本人たちはこの上なく幸せだと思っている状況は、ここから生まれます。

もちろん、この定義からもわかる通り、幸福とは徹底的に主観的・相対的なものです。
自分が「満たされている。悩みなど何もない。」と思えばどれだけ貧しく厳しい暮らしをしていても幸福でしょう。
しかし、根本的に人は他人と比較しないと自分を把握することができません。そして、SNSがこれだけ浸透した現代において、他人の状況は嫌でも流れ込んできて、比較対象としての他人をアップデートし続けます。

もし現代が幸福になりづらいとするなら、「他人の環境が分かりすぎる結果、自分の環境が実は満たされていないことが分かったり、なぜ他人よりも劣っているのかと思い悩んだりしやすい状況になっているから」だと言えるでしょう。

さて、ここに来て、最初の問いである「どうすれば幸福になれるのか?」という問題がより切実になってきました。けれども実は、幸福を定義したことで、この問いにもすでに答えは出ています。幸福になるためには下記のような問いを立てて検討すればよいのです。

・今の自分は何に満たされている/いないのか?
・本来、自分はどんな時に満たされている/いないと感じるのか?
・今の自分は何を思い悩んでいるのか?
・将来的にそれは解決可能か?可能ならどうやって解決するか?不可能であればどうしたら思い悩まないか?

もちろん、この問いに答えることは簡単ではありません。ですが、まったく手探りで進むよりは、これらの問いを道しるべに進んでいく方が、充実した日々を過ごせるはずです。

さて、困ったことに、元々の問いに早くも答えが出てしまいました。しかし、本気で考えた成果は、ここから発揮されていきます。

 

■どうして人は幸福になりたいと思うのか?

ここまででも十分、色々な悩みは解決できるのですが、そもそもどうして人は幸福を求めるのでしょうか?足るを知り、現状に満足してしまえばそれで良いのに、自分も含めて多くの人があてもなく幸福を探して彷徨い、つらく苦しい思いをしているのはなぜなのでしょうか?
つまり、「幸福なんか求めなければ、それが1番幸福」なのではないでしょうか。

これも、結論からお伝えしましょう。

 

人が「幸福になりたい」と思うのは、それが「根本的な欲求の1つ」だからです。
「お腹がすいた」「認められたい」と同じように、人は「幸福になりたい」と思ってしまうのです。

 

おそらく、「幸福を求めることが欲求」と言われてもよくわからないと思います。ここで、幸福という現象をもう少し別の言葉で言い換えてみましょう。
先ほど、幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」と定義しました。これを分かりやすく、かつ時間軸を加えて説明すると「衣食住が満たされ、自分の尊厳や価値も感じられ、他者に対しても同様の気持ちを持っており、これからも持ち続けることが確信できている」という状態に他なりません。
一言で言えば「思い通りに生きるために必要なものは全部持っているし、今後も持ち続けられる」ということです。

つまり「幸福を求める」ということは「自分の思い通りに生きるのに必要だと思うものを全部揃えていく」という過程であり、最終的には「他者や外部環境も巻き込み、自分の望む通りの世界を形作ること」だと言えるのです。
なぜなら、物質的なものであれ思想的なものであれ、自分が「こうだ!」と思うものを他人も大事にし、ましてや社会も尊重し続けているならば、それは自分にとって非常に好ましく、生きていきやすい世界だと言えるからです。
(ここに、以前書いた「価値観型社会」の片鱗が立ち現れてきます。)

 

それはさておき、仮にこの「自分の望む通りの世界を形作る」という欲求を「世界実現欲求」としたとき、実はマズロー自己実現理論と重ね合わせて、説明を行うことが可能です。
ご存知の方も多いと思いますが、マズローは人間の基本的欲求を5段階にわけ、生理的欲求~自己実現の欲求まで、ある程度の段階を経て人は欲求を満たしていくという理論を唱えました。

自己実現理論 - Wikipedia

 

この理論には様々な批判もありますが、感覚的にわかりやすく、かつ話を形式化しやすいという点で、実用的な理論だと思います。
ここまでは多くの方が知っていると思いますが、マズローが晩年に、自己実現の欲求の上位にある6段階目の欲求を提唱していたことは、あまり知られていません。
その欲求を、彼は「自己超越欲求」と名づけています。

背景としては、「自己実現」までだと個人と社会とのつながりが説明できず、奉仕の精神や隣人愛といった概念が扱えなかったために、こうした新しい段階が生まれたようです。
これは仏教や禅の思想にも通じていて、自己超越の段階になると「何ができるか」ではなく「どう在るか」とか「全体とはなにか」といったレベルで生活ができるのだそうです。

 

この「自己超越欲求」について、個人が確立された後に、望ましいあり方で社会と関わっていくという流れに関しては、特に異論はありません。
ただ、この「自己超越」という言葉は、非常に西洋的で日本人にはなじまないと思っています。ここで暗黙的に想定されているのは「近代以降の合理的個人が、その合理性を高めることで神=絶対的な存在に近づく」という流れであり、理想として目指すべき存在が想定されていると感じられます。
ですが、本当に「理想とすべき存在」は1つだけなのでしょうか?人種も生活環境も違う個々人が、すべて同じ理想を求めて生きているなど、現実としてあり得るのでしょうか?

残念ながら、私はそうは思いません。ここでの問題は、この「自己超越」という言葉では6段階目の欲求を示すのに不適切で、適用範囲が狭いことなのです。
(だから日本で広まってないのだと、個人的には思っています。)

 

ではここで「世界実現欲求」という言葉を考えてみましょう。
「自己超越」とは、「どう在るか?」といった概念的なレベルで世界と関わっていく姿勢でした。つまり、その人の何らかの思想や経験、個人的素養を踏まえた結果「自分や他人、そして世界はかくあるべし」という世界観を形にすることだと捉えられます。

一方で、そんな小難しいことは考えずとも「とにかく人が互いにやさしい世界になればいい」と友人との付き合いを経て、コミュニティを作りそこに加わっている人が楽しそうにしているという「自分なりの幸福な世界」を作っている人もいっぱいいます。
そこには「自己を超越する」というニュアンスはありませんが、自分ができることを精一杯行い、自分が望む「世界を実現する」という行為は、十分に達成されています。

 

つまり、本来「自己実現」を達成した個人が向かうべき欲求は「自己超越」ではなく「世界実現」であり、その規模の大小や善悪に関わらず、それこそが「幸福を求めるという一人の人間としての根本欲求である」ということなのです。

この「世界実現欲求」の重要な部分は、それ自体では道徳的・倫理的な判断ができないという部分です。もし「世界は憎しみに満ち溢れるべき」といった、昔のRPGゲームのラスボスみたいな人がいても、その欲求を否定することはできません。
また、駆け出しのバンドマンやクリエイターのように「俺は世界を変えるぜ!」といったところで、それだけの説得力や実力がなければ現実は何も変わらず、「この世界は間違っている」といった逃避につながってしまうこともあります。

ちょっとふざけて書きましたが、結局は「適切に愛情や承認欲求を満たし、自己実現をの過程で自分ができることを見極められなければ、人が幸福な世界をつくるハードルは非常に高いままである」ということです。

 

さあ、だいぶ幸福についての検討が進んできました。
ここで、今一度これまでの話を整理してみましょう。

 

・幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」である。
・幸福であり続けるには「満たされた環境」を他者や社会も巻き込んで実現し続けていくのが手っ取り早い。
・この「自分が望む環境=世界を実現したい」というのは人間の根本的な欲求であり、人が幸福を求めてしまう要因でもある。

 

ここまで来れば、「どうして組織では権力が発生するのか?(自分が満たされている環境を実現したいから)」「宗教で人は救われるのか?(望む世界を外から取り込める場合には救われる)」「自己実現を求めても幸せになれないのはなぜか?(幸せはその先の欲求から生まれるから)」というように、いろいろな問いに答えることが可能です。

そう考えると、結局この世は、思うとおりに生きたいという個人が、望む世界を実現するために戦う仮想的な陣取りゲームのようなものだと言えるかもしれません。

ですが、それを否定する気も、悲観する理由もありません。
前提として「人がこの世に生まれた理由はないが、楽しく生きる権利はあり、その理由を追い求める自由もある」と思っているので、むしろ「絶対的な幸せはこれこれである」という世の中の方がおかしいと思っています。

そして、この幸福の定義であれば、それぞれの人が自分の望ましい世界に向けて、思いっきり頑張ることが肯定できます。「世界平和を望む人が偉い」とか「自分の身の回りのことしか考えない奴はダメだ」とか、そんな区別は一切ありません。
どちらも、自分にとっての幸福を追い求めているだけだからです。その方が、現実的な考え方だと言えるのではないでしょうか。

 

ただし、現実的であることを重視するなら、1つだけ気をつけなければならないことがあります。
それは、世の中には「満たされた環境」を望むことすらできないほど悲惨な状況におり、「思い悩む」だけの知識や経験も持つことができず、日々生きるだけで精一杯だという人が、大勢いるのが現実だということです。
それは遠い国の話ではなく、日本国内にだってそうかもしれません。

とするならば、まずは誰もがこの欲求に自由に従い、幸福を求めることができる世界になることを望むことは、それほど間違いではない「次の時代の世界平和」の形だと言えるのではないでしょうか。

 

このように考えてくると、昨今言われている「『顧客』ではなく『個客』」とか「人工知能によって人のやることがなくなる」といったビジネスや生き方についての言説も、幾分理解がしやすくなると思います。
もし「自分にもこの考え方が役に立った!」などという方がおられましたら、ぜひどんな場面で役立ったかをお教えいただけたら、とても嬉しく思います。

 

【追記】
2年経って、改めて幸せに関する記事を書きました。
よろしければこちらも併せてご覧ください。

幸せになるための3ステップと9+1の問いかけ - canno-shiのすこしみらいを考える

「資本・価値観主義社会」の到来

ここ数ヶ月、暇を見つけては「将来の社会はどうなるのか?」ということを考えていました。
情報センサーの低価格化、IoTの進展、データの収集・分析力の向上、それら全てにより「人間の生活を全て把握できてしまう」という状況の中で、いったい人々は何を大切にし、重要に思い生きていくのだろうか、という疑問があったからです。

そうした中で、少し前からイメージとしては持っていたのですが、色々な記事や下記の本を読んで「今後間違いなく、個人の『価値観』が最重要になる社会がやってくる」と確信をした次第です。

それは、資本主義の次のステージである「資本・価値観主義社会」と言ってもいいものだと、個人的には考えています。

 

■シンギュラリティ大学が教える飛躍する方法
http://www.amazon.co.jp/dp/4822251039

 

ここで言う「個人の価値観が重要になる」という言葉には、下記3つの意味が含まれています。

①働き方:法人や団体も価値観を持つようになっており、その構成員もスキルや技能に加えて適切な価値観も求められている。
②対人関係:個人への信頼の基礎が、その人の価値観に置かれるようになる。
③自身の幸福:個人としての価値観を持たなければ、個人としての幸福を得づらくなる。

それでは早速、それぞれについて見ていきましょう。


①働き方:法人や団体も価値観を持つようになっており、その構成員もスキルや技能に加えて適切な価値観も求められている。

現在の日本の採用市場においても、その人が「社風」に合うか?というのは大きな判断基準になり得ます。

特に、その人のポテンシャルを見るしかない新卒採用では、「人物面でのマッチング」がより重要になります。学生側の内定承諾の基準も、最終的には「人で決めた」という回答が最も多いのです。

しかし、中途採用においては、いまだに「スキルでのマッチング」が主体です。
社内で拡大したい、あるいは人が足りない事業や業務に対して、それが担当レベルで回せるかどうか?が重要視され、多少面接時に人物面で難があったとしても、それを根掘り葉掘り確認することはそれほど多くないでしょう。

ところが、今後の就業環境においては、その「人物面でのマッチング」こそがより重要になる予兆が、色々なところで出ています。
それは「先進企業だけがそうしている」ということではなく、「企業として自身が世界に提供する価値や姿勢を明確にしなければ、今後市場で選んでもらえない」という時代が、明確に迫ってきているということです。

みずからを、「靴を売ることになった顧客サービス企業」と称すザッポスは、その分かりやすい企業の形でしょう。東洋経済の記事にこうあります。

ザッポスの企業文化さえしっかりしたものにすれば、広告などにおカネをかけなくても、ブランドや売り上げは後からついてくると考えた。社員をハッピーにし、ハッピーな社員が顧客にサービスを尽くすことで顧客もハッピーになるという、よい循環を起こすのだ。

そのために、新たに雇用する社員はこのコアの価値に合うかどうか、合わせる気持ちがあるかどうかで厳しく選抜し、雇った後も合わないとわかればすぐに解雇する。解雇するのに報酬を与えるというのも、有名な話だ。報酬は、在籍した年数に合わせて2000〜5000ドルだ。
http://toyokeizai.net/articles/-/45650?page=2

差別化の経済が勢いを弱め、個別化の経済が強くなっている昨今、顧客をハッピーにできない企業=顧客に我慢を強いて売上を上げている企業は、どんどん競争力を失うでしょう。

なぜなら、テクノロジーの進化により、不便を便利にする力学が、今後より強まるからです。宿泊先がなかなか見つからないホテルに不満を持つ人は、Airbnbの恩恵を今後より強く感じることでしょう。

さらに、最近「アライアンス」という企業と個人のフラットな契約の形が注目を浴びているように、終身雇用が前提とならない社会では、「我慢して働く」ことのインセンティブが下がります。我慢の先に報酬や地位といった見返りが約束されているわけではないからです。

こうした様々な理由により、企業も従業員も、その「価値観」を土台とした交渉や契約を行うようになるでしょう。それが経済的にも合理的であり、時代の流れに沿っている以上、この動きは長期にわたって続くと思われます。

 

②対人関係:個人への信頼の基礎が、その人の価値観に置かれるようになる。

近頃、環境の変化が速いと言われます。その渦中にいると実感は湧きませんが、下記のような話を聞くと、その変化が少し感じられるのではないでしょうか。

 現在の世界のデータの90%はここ2年間に生み出されたもので占められているという。

 世界のデータ量は毎年40%、そして2020年までには50倍にまで増加すると予想されている。

(いずれもhttp://thebridge.jp/2015/01/worlds-data-volume-to-grow-40-per-year-50-times-by-2020-aureus-20150115-2

 仮に、現時点の全世界のデータを100とすると、ここ2年で生まれたものが90であり、過去数千年の蓄積は10にすぎない。さらに、5年後にはデータの総量がなんと5,000にも達するというのです。
(もちろんデータの増加=環境の変化ではないですが、「人が処理できないほどのデータが生まれている」という事実は感じられると思います。)

こうした状況により、対人関係にも変化が生じると考えています。もっとも、これは今でもそうでしょうが、人は一貫性のあるもの、安定しているものを生来的に好みます。
そうした中で、ある人が技術や地位(=変わりやすいもの)によって信頼を得られる期間はどんどん短くなり、代わりに趣味嗜好や価値観(=変わりにくいもの)が重視されるようになるでしょう。

そして、「磨かれた価値観」や「向上し続ける価値観」というものを持つ人が尊敬・信頼され、「同じ価値観をもつ人」を集めることが様々な場所で起きるはずです。
こうした集まりが「企業」になることも、当然今後増えるであろう事象の1つです。
①により企業が価値観を持ち始めると同時に、そもそも同じ価値観を持つ人が企業や団体を作るということが、より一般的になるでしょう。

 

③自身の幸福:個人としての価値観を持たなければ、個人としての幸福を得づらくなる。

①と②により起こることは、数え切れない影響を個人に及ぼします。
突き詰めて考えれば、ある価値観を持っていないことが理由で、ある経済活動に参加できなかったり、あるサービスを受け取ることができなくなったりするかもしれません。なぜなら、企業や団体は同じ価値観を持つ人を仲間にし、特定の価値観を持って自社の商品やサービスを展開するからです。

しかし、実はこのことは、大きな問題ではありません。なぜなら、自分の価値観と大きく異なる商品やサービスを利用できないからといって、個人にとっては特に困ったことにはならないからです。

例えば、ザッポスのように「社員や顧客をハッピーに」という価値観を良いと思う顧客であれば、社員が劣悪な環境で働かされている企業の靴は、どれだけ品質が良かったとしても、おそらく欲しいと思えないでしょう。
一方で、「安ければよいのだ」という価値観を企業と顧客が持ち、従業員も「過酷だが高給」などといったモチベーションがあるのであれば、安い靴が流通する経済も、一定の水準で続いていくでしょう。

このように、「資本・価値観主義経済」では、市場が富裕層・一般層といった資本力だけではなく、価値観によっても区別され、かつそれぞれが互いに重なり合うという状況が発生してくるはずです。

ここで、価値観が重視される世界の、個人にとっての大きな問題が発生します。
それはつまり、「自分の価値観が分からなければ、どの市場に参加してよいかが分からなくなる」ということです。
もっと言えば「生きているだけで自分の価値観が強烈に問われる世界になりうる」ということなのです。

しかし実はこれすらも、実は深刻な問題ではありません。
なぜなら、「今の日本では価値観を問われることが非常に少なく、結果として自分の価値観をきちんと把握し磨いている人も少ない」ものの、価値観は大人になってからでも努力次第で変えることが可能であり、子どもであればなおさら教育の問題で解決できるからです。
ただし、これからも「周囲と協調するのが一番よい」などと言いながら、自分で自分の優先順位を決められないような人が育てられ続けるのであれば、将来は悲劇で溢れるといわざるを得ないでしょう。
自分で価値観を選択できない人の集団が起こしたのがバブル経済であり、今後の世界は、お金よりもダイレクトに自分の心に働きかける価値観が、あらゆる商品やサービスを通じて届く世界なのです。その際、自分自身の選択基準を持たない個人は、市場の奴隷になるしかないのです。

さらに、もしもこの「資本・価値観主義社会」という考え方が非常に強く進むのであれば、それは企業や市場だけではなく、地域や国家の姿も変えていくでしょう。例えば、「この町に住む人は、競争よりも調和が大事だと思っている必要がある」というように。

これは言いすぎかもしれません。が、今よりも世界的に貧富の差が解消され、交通の利便性(モビリティ)向上が行われれば、世界がこのような形に向かう可能性も十分にあると考えています。
なぜなら、魅力的な価値観は人をひきつけ、団結させる力を持つからです。各種の宗教やキング牧師の例を引くまでもなく、価値観とそれに基づくビジョンは、人を動かす力を持ち続けています。

 

ここまで偉そうに書いてきましたが、1つ告白すると、私はまだ「自分の価値観」というものがよく分かっていません。
だからこそ、価値観を作るために必要なものが分かります。
それは「意味のある現実との間に『インプットー処理・解釈ーアウトプット』を作り続けること」です。

非常に不明瞭かつ、自分自身噛み砕けていないことですので、詳細の説明は割愛いたします。
ただし、「価値観」という一見ふわふわとした不確かそうに見えるものが、必ず「意味のある現実」と結びついていなければならず、その間には「神経系による情報のやり取り」が行われているという仮設は、色々な示唆を与えてくれると思うのです。

本日書いたことは、ともすると「当たり前」のことかもしれません。「その人の価値観が大事」というのは、誰も疑いようがないことだろうからです。

ただし、その「大事」という言葉意味が「経済活動に参加できないこと」「人から一切信頼されなくなること」「市場の奴隷になること」とまで拡大できるということは、あまり考えないことではないでしょうか。

ちなみに、「価値観」をここまで中核に据えたのは、過去の偉人や支配者、経営者の生き方を調べる中で「自分の価値観を現実世界に反映させることが幸福につながるのではないか?」という仮説が生まれたからです。このことについては、より詳しく考えていきたいと思っています。

「我思う、ゆえに我在り」に、少しだけ含まれている嘘。

近頃、自分がブックマークしているブログで続けて「スーパーメタ社会」とか「自分の思考について思考える」というテーマが取り上げられており、
具体と抽象の行き来がより激しく、かつ重要になってきているなということを、改めて実感します。

 

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 「スーパーメタ社会」を生きるビジネスパーソンに必要な3つの能力とは何か?

ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド: DESIGN IT! w/LOVE

 

ただし、この辺の重要感が気軽に共有できるかというと、そうではないなとも感じます。
なぜなら、「自分が××のように考えているのは実は△△が原因だ」という思考は普通に生きている中でする必要が無いですし、
そもそもこのように考えること自体、自分が自分でなくなるような不安感につながってしまうからです。

一方で、もし多くの人が「なぜ自分はこのように考えるのか?」という問いを立てることができれば、より複雑で意見が分かれてしまう問題
(例えば自衛隊の扱いや同性愛に関する意見の食い違いなど)
にもっと建設的で、互いに歩み寄れる立場の人が増えるのではないかと思っています。

私自身、こうした問題に思うところはありますが、有名人でもない限りとかく「声が大きい人が勝つ」「極端なことを言ったほうが注目される」ネットの世界で、
これらについて発言する気は起こりません。
ただ、より多くの人が、ある物事に対して自分が感じる違和感や気持ち悪さ、
怒りや戸惑いの根っこに何があるのか?を考えられることが、
ネット上の議論を意義のあるものにする1つの手段だろうと考えています。

 

前置きが長くなりましたが、ここからがやっと本題です。
ちょっと大げさすぎる取り組みではありますが、タイトルにある「我思う、ゆえに我在り」という言葉を通じて、
自分の思考について考えるということの意味を考えてみようというのが、今回の趣旨です。
誰もが知っている格言のような言葉の裏に、まだ疑問を感じるべき部分があるということを見ていきましょう。
(以下、哲学・歴史の説明に関してはだいぶざっくりと書いています。
詳しくご存知の方からすると首をかしげる部分もあるかもしれませんが、今回の主題を分かりやすくするためという意図を汲んでいただき、どうぞご容赦ください。)

さて、この言葉がデカルトのものであるということは、あまりにも有名だと思います。
ただ、その意図するところとして「自分が考えてるんだから自分はいるでしょ」ということにとどまらず、
「あらゆるものを疑った結果、疑い得ないものとして、疑っている自分というものは絶対に残る」という「絶対的なものを探す」という取り組みがあります。

そこから「その疑い得ない自分をもとにして、論理的に矛盾無く証明できたことは真実である」との考えから、
「神の存在証明」までデカルトは成し遂げています。

さて、疑い得ない自分がいるということで基本的にはめでたしめでたし、
なのですが、ここで1つの疑問を思い浮かべることができます。
それは「なぜデカルトはすべてを疑って、絶対的なものを探さなければならなかったのか?」という疑問です。

世界史を勉強した方ならご存知と思うのですが、デカルトが生きた16世紀~17世紀は、宗教改革宗教戦争が激化した時代でした。
それまでもキリスト教の世俗化や権威の弱化は続いていましたが、ルターが1517年に95か条の誓文を出し、プロテスタントが広がり、
1618年から始まった三十年戦争により、カトリックプロテスタントの対立が決定的になります。

この三十年戦争には、デカルト自身も参加していました。
この時代、芸術や学問においても「大衆化」という現象が起きていますが、
それはつまり「キリスト教の神の領域にあったものが人の領域に広がった」ということに他なりません。

それまで神の領域にあったものとしては、こうした「美」や「知識」だけでなく、
もちろん「真実」や「絶対性」も含まれていました。
つまり、キリスト教が保証していた「真実絶対のもの」が揺らぎ、あらゆるものごとの前提が崩れていたのが、この時代だったわけです。

ここで、先ほどあげた「なぜデカルトはすべてを疑って、絶対的なものを探さなければならなかったのか?」という問いの答えが見えてきます。
それは、彼個人の特性というだけでなく、あらゆるものの存在の根底が揺らいでいたという時代背景があったのです。

おそらく、彼はこうした自分の思考に自覚的だったでしょう。
ただ、「我思う、ゆえに我在り」という言葉だけからは、こうした背景は伝わってきません。
そして「我思う」の前に、そう思うための「『時代』の中に我が在った」ことは、すっかりかき消されてしまっているのです。
だから、「我思う、ゆえに我在り」という言葉は、少しだけ嘘なのです。

現代において、こうした「時代」に該当するものはどこにでも見出せます。
例えば、各種メディアや広告、技術という分かりやすいものだけでなく、
教育や文字、デザインやコミュニケーション術などなど、
およそ「型」のあるもの全てが、私たちの思考に影響していると言えます。
それは「常識」よりも無自覚的に、私たちとともにあります。

「正しいと思っていることを疑う」というのは、すでに使い古された言葉です。
しかし、「なぜ正しいと思われていることを疑わねばならないのか」という疑問に答えられる人は、ほとんどいないでしょう。
でも、この問いが立てられないと、「正しいことを疑わなければならなくなってしまった理由」について、考えることができないのです。
それはつまり、「自分がやろうとしていることの本当の理由」を知らないことと、まったく同じなのです。

関連して、最後に1つだけ。
多くの人が死の間際に後悔することとして「もっと自分に素直になればよかった」ということを挙げるそうです。
「自分に素直になる」という言葉はいまいちよく分からないのですが、
「ふと浮かんだ考えを疑ったあとで、新しく出てきた考えを認めてあげる」ということであれば、具体的に誰にでもできそうな気がします。

9枚の写真で辿るイタリア旅行の巻

一週間ほど、ヴェネツィアフィレンツェ〜ローマを旅してきました。

せっかくなので、普段とは趣向を変えて、
いっぱい撮った写真たちのなかから、
各地3枚ずつ供養したいと思います。
どっかで公開しないと、陽の目を見ることないからね。




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間違いなく、今回一番いい場所だったらサンマルコ広場
観光客の投げるパンに群れる開放的な鳩を見て
「あー、ここの鳩になりたい……」って呟いた直後、
カモメに襲われて1匹お亡くなりになりました。
自然の厳しさを痛感した一幕。


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リアル養老天命反転住宅の色彩を為す、ブラーノ島
隣の家と近い色彩にならないよう、気をつけてるんですって。
平日なのに島民と思われるおっちゃんおばちゃんらがのんびり過ごしてて、
ここはリタイアした人達が集う楽園か?と思いました。
だって、生計たてるようなお店もあんまなかったんだもの。不思議。


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30℃の気温の中、なぜかいた白鳥。
子どもが小さいから渡れなかったのか……。
無事に生き延びててくれたらよいのですが。



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ドゥオーモ、と言うらしい。建物。
街中に突如出現するし、遠近感おかしくて周囲から浮いてるしで、
現実感のなさがハンパなかったです。


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ドゥオーモのてっぺんから見た街並み。
めちゃくちゃ綺麗でしたが、ここに上がるまで400段くらい?の階段を
上がる必要があって、翌日以降の旅に差し支えました。


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突然の錦市場
フィレンツェ中央市場にいったら、
たまたまこの日のこの時間、セレモニーをやってたんですって。
日本酒の旨味を噛み締めた、貴重なひとときでした。


☆ローマ編

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あんまり期待してなかったけど、とてもいいところだったフォロロマーナ。
歩き回るのなんて絶対無理!と思ってたのに、
気づいたら高台にも登ってたし2時間近くうろついてました。


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期待ほどではなかったコロッセオ
物凄い行列は、フォロロマーナで買った共通券でスルーできたので不満は小さかったです。
でも、歴史の重みを感じられるという意味では、
とても貴重だし行けてよかったところ。


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期待もしてなかったしその通りだった、真実の口。
口に手を入れるポーズがどうしてもやりたくなくて、
苦悩したうえで取った謎ポーズ。
「俺らと、一緒に来いよ!」感が出ていて、個人的には満足。


もっとアクシデントはあったけれど、だいたいこんな感じの旅でした。
嘘です。ほんとは大事なものが抜けていますが、
それはまた別途ということで、ひとつ。

一度旅に出ると、また行きたくなりますね。
次はどこに行こうかな。行きたいなぁ。

終わり。

東京に足りないのは人間味というよりも人情味だと思う。

肩が触れ合うほど密着するのに、心の距離は遠ざかるばかりです。


はてさて、私は岩手で生まれて、大学時代は京都で過ごしたのですが、

間違いなく岩手や京都にいたときの方が、今よりも感受性が豊かだったように思います。


昔は天文部として毎日空を見上げていたのに、今や満月の夜くらいしか星を見ませんし、

草木や鳥のような自然をたまに見かけると、あまりに自分が意識を向けていなかったその事実に驚きます。

大学生の頃は、スズメとお昼ご飯食べてたのにねぇ。


ところで、冒頭の言葉はもちろん、満員電車を経験しての話です。

東京に越してきた当初は、見知らぬ人と肩が触れ合うのにかなりの気恥ずかしさや申し訳なさがありました。

だって、見知らぬ誰かと密着することなんて、普通はないじゃないですか。


それなのに、いつの間にか何も感じなくなり、近頃では誰かにぶつかっても相手を見ることすらしなくなってしまいました。

まさしく、その人は私にとって「誰か」以外の何者でもありません。

心が少しずつ死んでいく気がするのは、あまりにも感傷が過ぎますでしょうか。


とはいえ、これが東京の途方もない良さの裏返しであることは、よくよく理解しています。

人工物に囲まれているからこそ、夏冬も快適ですし遊びに行く場も選び放題です。

人があまりにも多いからこそ、この3年間で本当にたくさんの素敵な人たちに出会ったり、交流を深められたりしました。

あと、何だかんだ言って意外とあったかいんですよね。東京も。


けれども、これらの良さは「自分の感受性」という代償を払って得たのだと思うと、若干寂しい気もします。

というよりも、今の私には、その「感受性」がとても重要なので、こんなことを書きたくなったのだと思います。


人間味と人情味を辞書で引くと、

前者は「温かみ」が強調されるのに対して、

後者は「情の深さ」を意味します。

東京は色んな人を受け入れる温かさはある気がするけど、自分の腹の底を見せる情の深さは感じません。

腹に一物抱えた油断ならない相手、というのが、丸3年住んで掴んだ東京との距離感です。

3年も一緒にいたのに、あんまり近づいてないですね。


街と人との関係は、今後もっと複雑化していくでしょう。

地縁も解体されつつあるなかで、人の移動がもっと速く安くなれば、

色んな土地で生きる選択肢が生まれてくるはずです。


そして、その時にはやっと、東京も胸襟を開いて向き合ってくれるようになる気がするのです。

たぶん、2020年以降くらいには。

「ブラック企業」の入社研修周りで考える、産業の構造とそこに入社していく人々の変化のお話

ブラック企業」という言葉があちこちで聞かれるようになって早数年。
こうした企業の入社研修が非人道的、宗教的にみえることについては、様々なところでその例を見ることができます。
(たとえばNaverまとめなど。http://matome.naver.jp/odai/2137182942411312301

ただ、昔から厳しい研修は行われてきており(ガムテープで受話器を右手に固定されるなど)、
近年になってブラック企業が急増したわけではないと思います。

それどころか、いきなり辞めたりしないように、非常に優しい研修を組んでいる会社も多いと聞きます。

というわけで、本日はこれまでは当然だったことが「ブラック」と呼ばれ、
話題になる理由について、「産業構造の変化」と「個人の自己認識の変化」という2つのテーマから考えてみました。
4月となり環境が変わる方も多いと思いますので、少しでも自分の周囲を見つめなおすきっかけになればと思います。

1.産業構造の変化
みなさんが日常的に感じられていることだと思うのですが、バブル崩壊以降、
「安くモノを作れば売れる」時代から「差別化されたモノやサービスが売れる」時代に変化しました。

前者では、「安い値段」と「標準を満たす品質」が絶対的な価値を持つので、生産工程はより合理的、管理的になります。
予測の精度を上げ、不良品を減らすことがこの時代の勝ちパターンであり、これは労働集約的な営業会社も同様です。

ここでは「企業戦士」、もっと言えば「社畜」という言葉に示されるように、
社員は考えたり、趣味嗜好を持ったりする「ヒト」ではなく、健康で、指示通りに動ける「モノ」としての側面が重視されることとなります。

後者については、各種ブランド品やアップル、グーグルの名前を出せば足りるぐらいになってきてしまいました。
もはや「安い値段と標準品質」が差別化要因にならなくなった時代です。

「私たちだけがあなたのことを分かり、真摯に考え、上質な人生を約束します」や
「あなたのことは知らないが、私たちの創る世界を一緒に見たいと思わないか」といった
いろんなタイプのメッセージが出てくるようになったのも、すべては差別化のためといえるでしょう。

こうした時代に求められるのは、世の中に「ちがい」を創り出していく能力です。
そこで求められるのは、試行錯誤やアイデアの源泉となりうる「ヒト」としての価値が高い人間であり、
決して倒れるまで動き回れる「モノ」としての側面ではありません。

最近、理想的な組織を考える際に「失敗を許容する」とか「常識外れの意見も尊重する」といったような意見を耳にしますが、
それは全て「利潤を生む差別化を行うため」の方法論に過ぎず、「安くて標準」を求める企業には馴染まないでしょう。

逆に言うと、アップルやグーグルの社員が快適な環境で自由に振る舞っているように見えるのは、
決してこうした会社が人道的で社員に優しいからではなく、そうした方が利益が生まれやすいという、極めて合理的な理由による、と言えます。

とすれば、「なんで自分の会社はアップルやグーグルのように自由にならないのか」と思っている人は、
まずは自分の会社がどちらの時代かを見つめなおす必要があるということです。

2.個人の自己認識の変化
次に、人々の変化についての話に移りましょう。
個別の話をすると非常にややこしくなってしまうため、おおまかな話のみとなりますが、
私は、今の20代以下の日本人に大きな影響を与えているのは「資本主義の生活への浸透」と「学校の権威の低下」だと考えています。

まず、資本主義が生活に浸透したことで、家族が個人に分解されました。
もちろん、様々な理由があってのことだとは思うのですが、とても単純に考えた場合、
「1家族に1台固定電話を売るより、1人1台携帯電話を売った方が利益になるよね」
という力が働いたことが、20代以下の日本人に大きな影響を与えたと考えています。
そしてそこには当然、「お金があれば誰でも売買できる」という下地があったことも重要です。

さらに、学校の権威の低下により、子ども時代に個人が誰かの下に所属する、ということがなくなりました。
このことにより、自分の外にある規律や価値観を取り込んでいくという成長過程が、著しく損なわれたと考えています。
自分探しの背後に隠れている「自分は自分」ということが素朴に信じられるようになったのは、ここ数十年のことでしかありません。

つまり、お金という手段を出せば、ある程度自由にモノを所有できるようになったことと、
自分が誰か他の人の所有物ではないという考えが広まったことにより、
自分=所有するもの、外部=所有されるもの、という図式を、20代以下の日本人は他の世代に比べて、無意識的に持ちやすいと考えられます。
(恋愛に興味がなくなるとか、欲望がなくなったといわれる一方で、
ソシャゲのカード収集にはお金を使うのも、近い考え方で説明できると思います。)

以上2つのテーマから、「ブラック企業」が研修で行おうとしていることは、

・「ヒトとしての人間の価値」が優位となる時代において、何とか「モノとしての人間の価値」をつくり出すために、
・「他者から所有される」という考えが希薄な若者を所有しようとすることである

と言うことができます。
このように考えれば、「男は黙って会社のために働くこと」という考えがあった時代に比べ、
現代が彼らにとってどれだけやりづらい時代かは、一目瞭然です。

外部から見てどんなに非合理的だとか、疑問に思える内容であったとしても、
彼らは彼らなりに、時代の流れの中で事業を存続させることに必死なのだと言えるでしょう。

だからと言ってブラック的な会社を擁護する気はまったくありません。
時代に応じて変化していくことは必要不可欠ですし、淘汰されることも自然です。
とはいえ、すべての個人が「差別化の時代」に適応していくこともまた難しく、
全部の会社が「脱ブラック化」したら、それはそれで大変な社会になるな……という思いも、
一定数以上の方と共感できるのではないかと信じています。

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今回の記事の構想は、岩井克人氏と「資本主義から市民主義へ」で述べられている「商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義への変化」や
「人間はヒトとモノの両方の性質を持つ」といった内容を参考にしています。
非常に面白い本でしたので、興味がおありの方はぜひ読んでみてください。

「絶対に◯◯するための3つの方法」みたいなタイトルにとっくに飽きてる人たちと話してみたいこと

あなたと、あなたの周りの人たちの想像力は健全に保たれていますか?という話。

情報がこれだけ溢れて、個人の目に映る時間がどんどん短くなるWeb上で、キャッチーなタイトルやコピーが増えるのは当然のことだと思います。
ましてや、それを作る人たちはユーザーの「思い」をなんとか掴もうと努力したり、それをコンセプトやプロトタイプに落とし込んで実現したりするために、様々な努力や学習を重ねています。
自分が担当する記事や広告を、多くの人に見てもらいたい。それは当然の仕事であり、欲求でもあります。

問題は、そのようにユーザーフレンドリーなタイトルや商品が世の中に溢れれば溢れるほど、多数のユーザーの想像力が使用される機会は減り、結果的にますます「自分たちが欲しいものを考えられなくなる」ということです。

つまり、優秀な人々がよりユーザーのためを思ってが仕事をし、会社が利益を上げ、革新的な商品やサービスが出回ると、享受する側の想像力がどんどん弱くなっていくというスパイラルに陥るのです。
なぜなら、自分たちが一番欲しいものは、市場によっていつの間にか与えられてしまうからです。

表題に掲げたようなタイトルが流行っているとするならば、流行に乗るとは最先端を行くことではなく、「みんながやっている(見ている)」という免罪符を得て自分の行動に外部の保証を付け加えようとする行為になってしまいます。
外部の保証で行動するということは、個人的な思考力や想像力を捨て去ることと同じです。

そこに残るのは、孤立は怖い=みんなと一緒なら安心、という周囲の目を気にした感情だけです。

想像力を高めるということは、辛い現実に直面することでもあります。
高い希望を持てば、絶望する回数が増えるのと同じことです。
自分で扱える範囲の希望を大切にして、幸せに生きることは何ら批難されるべきことではありません。

ただし、世の中は確実に変化していきます。
そしてそれは、ほぼ間違いなく、今の安定を願う人にとって脅威となる形で起こります。
そうした世の中を、自分なりに想像すること。
その中で自分がどんな風に、誰と関わって、何をしたながら生きているかを想像すること。
その力は、何気なくfacebookTwitterをスクロールしているまさにその時に、強まったり弱まったりするのです。

情報を鵜呑みにしないだけでなく、目で追うだけで終わらせないこと。
引っかかったことがあれば、1日に数回、そのことについて考えてみること。
こうした行動の積み重ねが、健全な想像力を育む糧となるのです。

あなたと、あなたの周りの人たちの想像力は、健全ですか?