canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

「我思う、ゆえに我在り」に、少しだけ含まれている嘘。

近頃、自分がブックマークしているブログで続けて「スーパーメタ社会」とか「自分の思考について思考える」というテーマが取り上げられており、
具体と抽象の行き来がより激しく、かつ重要になってきているなということを、改めて実感します。

 

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 「スーパーメタ社会」を生きるビジネスパーソンに必要な3つの能力とは何か?

ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド: DESIGN IT! w/LOVE

 

ただし、この辺の重要感が気軽に共有できるかというと、そうではないなとも感じます。
なぜなら、「自分が××のように考えているのは実は△△が原因だ」という思考は普通に生きている中でする必要が無いですし、
そもそもこのように考えること自体、自分が自分でなくなるような不安感につながってしまうからです。

一方で、もし多くの人が「なぜ自分はこのように考えるのか?」という問いを立てることができれば、より複雑で意見が分かれてしまう問題
(例えば自衛隊の扱いや同性愛に関する意見の食い違いなど)
にもっと建設的で、互いに歩み寄れる立場の人が増えるのではないかと思っています。

私自身、こうした問題に思うところはありますが、有名人でもない限りとかく「声が大きい人が勝つ」「極端なことを言ったほうが注目される」ネットの世界で、
これらについて発言する気は起こりません。
ただ、より多くの人が、ある物事に対して自分が感じる違和感や気持ち悪さ、
怒りや戸惑いの根っこに何があるのか?を考えられることが、
ネット上の議論を意義のあるものにする1つの手段だろうと考えています。

 

前置きが長くなりましたが、ここからがやっと本題です。
ちょっと大げさすぎる取り組みではありますが、タイトルにある「我思う、ゆえに我在り」という言葉を通じて、
自分の思考について考えるということの意味を考えてみようというのが、今回の趣旨です。
誰もが知っている格言のような言葉の裏に、まだ疑問を感じるべき部分があるということを見ていきましょう。
(以下、哲学・歴史の説明に関してはだいぶざっくりと書いています。
詳しくご存知の方からすると首をかしげる部分もあるかもしれませんが、今回の主題を分かりやすくするためという意図を汲んでいただき、どうぞご容赦ください。)

さて、この言葉がデカルトのものであるということは、あまりにも有名だと思います。
ただ、その意図するところとして「自分が考えてるんだから自分はいるでしょ」ということにとどまらず、
「あらゆるものを疑った結果、疑い得ないものとして、疑っている自分というものは絶対に残る」という「絶対的なものを探す」という取り組みがあります。

そこから「その疑い得ない自分をもとにして、論理的に矛盾無く証明できたことは真実である」との考えから、
「神の存在証明」までデカルトは成し遂げています。

さて、疑い得ない自分がいるということで基本的にはめでたしめでたし、
なのですが、ここで1つの疑問を思い浮かべることができます。
それは「なぜデカルトはすべてを疑って、絶対的なものを探さなければならなかったのか?」という疑問です。

世界史を勉強した方ならご存知と思うのですが、デカルトが生きた16世紀~17世紀は、宗教改革宗教戦争が激化した時代でした。
それまでもキリスト教の世俗化や権威の弱化は続いていましたが、ルターが1517年に95か条の誓文を出し、プロテスタントが広がり、
1618年から始まった三十年戦争により、カトリックプロテスタントの対立が決定的になります。

この三十年戦争には、デカルト自身も参加していました。
この時代、芸術や学問においても「大衆化」という現象が起きていますが、
それはつまり「キリスト教の神の領域にあったものが人の領域に広がった」ということに他なりません。

それまで神の領域にあったものとしては、こうした「美」や「知識」だけでなく、
もちろん「真実」や「絶対性」も含まれていました。
つまり、キリスト教が保証していた「真実絶対のもの」が揺らぎ、あらゆるものごとの前提が崩れていたのが、この時代だったわけです。

ここで、先ほどあげた「なぜデカルトはすべてを疑って、絶対的なものを探さなければならなかったのか?」という問いの答えが見えてきます。
それは、彼個人の特性というだけでなく、あらゆるものの存在の根底が揺らいでいたという時代背景があったのです。

おそらく、彼はこうした自分の思考に自覚的だったでしょう。
ただ、「我思う、ゆえに我在り」という言葉だけからは、こうした背景は伝わってきません。
そして「我思う」の前に、そう思うための「『時代』の中に我が在った」ことは、すっかりかき消されてしまっているのです。
だから、「我思う、ゆえに我在り」という言葉は、少しだけ嘘なのです。

現代において、こうした「時代」に該当するものはどこにでも見出せます。
例えば、各種メディアや広告、技術という分かりやすいものだけでなく、
教育や文字、デザインやコミュニケーション術などなど、
およそ「型」のあるもの全てが、私たちの思考に影響していると言えます。
それは「常識」よりも無自覚的に、私たちとともにあります。

「正しいと思っていることを疑う」というのは、すでに使い古された言葉です。
しかし、「なぜ正しいと思われていることを疑わねばならないのか」という疑問に答えられる人は、ほとんどいないでしょう。
でも、この問いが立てられないと、「正しいことを疑わなければならなくなってしまった理由」について、考えることができないのです。
それはつまり、「自分がやろうとしていることの本当の理由」を知らないことと、まったく同じなのです。

関連して、最後に1つだけ。
多くの人が死の間際に後悔することとして「もっと自分に素直になればよかった」ということを挙げるそうです。
「自分に素直になる」という言葉はいまいちよく分からないのですが、
「ふと浮かんだ考えを疑ったあとで、新しく出てきた考えを認めてあげる」ということであれば、具体的に誰にでもできそうな気がします。