canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

東京に足りないのは人間味というよりも人情味だと思う。

肩が触れ合うほど密着するのに、心の距離は遠ざかるばかりです。


はてさて、私は岩手で生まれて、大学時代は京都で過ごしたのですが、

間違いなく岩手や京都にいたときの方が、今よりも感受性が豊かだったように思います。


昔は天文部として毎日空を見上げていたのに、今や満月の夜くらいしか星を見ませんし、

草木や鳥のような自然をたまに見かけると、あまりに自分が意識を向けていなかったその事実に驚きます。

大学生の頃は、スズメとお昼ご飯食べてたのにねぇ。


ところで、冒頭の言葉はもちろん、満員電車を経験しての話です。

東京に越してきた当初は、見知らぬ人と肩が触れ合うのにかなりの気恥ずかしさや申し訳なさがありました。

だって、見知らぬ誰かと密着することなんて、普通はないじゃないですか。


それなのに、いつの間にか何も感じなくなり、近頃では誰かにぶつかっても相手を見ることすらしなくなってしまいました。

まさしく、その人は私にとって「誰か」以外の何者でもありません。

心が少しずつ死んでいく気がするのは、あまりにも感傷が過ぎますでしょうか。


とはいえ、これが東京の途方もない良さの裏返しであることは、よくよく理解しています。

人工物に囲まれているからこそ、夏冬も快適ですし遊びに行く場も選び放題です。

人があまりにも多いからこそ、この3年間で本当にたくさんの素敵な人たちに出会ったり、交流を深められたりしました。

あと、何だかんだ言って意外とあったかいんですよね。東京も。


けれども、これらの良さは「自分の感受性」という代償を払って得たのだと思うと、若干寂しい気もします。

というよりも、今の私には、その「感受性」がとても重要なので、こんなことを書きたくなったのだと思います。


人間味と人情味を辞書で引くと、

前者は「温かみ」が強調されるのに対して、

後者は「情の深さ」を意味します。

東京は色んな人を受け入れる温かさはある気がするけど、自分の腹の底を見せる情の深さは感じません。

腹に一物抱えた油断ならない相手、というのが、丸3年住んで掴んだ東京との距離感です。

3年も一緒にいたのに、あんまり近づいてないですね。


街と人との関係は、今後もっと複雑化していくでしょう。

地縁も解体されつつあるなかで、人の移動がもっと速く安くなれば、

色んな土地で生きる選択肢が生まれてくるはずです。


そして、その時にはやっと、東京も胸襟を開いて向き合ってくれるようになる気がするのです。

たぶん、2020年以降くらいには。