canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

【後編】ベーシックインカムというフィルターを通して見た5つの世界。そこには何が映るのか。

前回はベーシックインカム(BI)について、「国家、会社と市場、家族、個人、国際社会」の5つの観点から考えることを提示した。

 

【前編】ベーシックインカムというフィルターを通して見た5つの世界。そこには何が映るのか。 - canno-shiのすこしみらいを考える

 

今回は後ろの3つについて書いていくが、その前になぜこの5つについて考えようと思ったのか、簡単に補足したい。

 

まず、この2つの記事でやりたいことは「現状とBIを導入した社会を対比させ、現在を相対化し、未来を考えるきっかけを作ること」だ。
BIは非常に広範囲かつ抜本的な施策であり、最大限うまく機能すれば「誰もが幸福を掴める社会」というユートピアを実現できる可能性もある。
一方でその実現には、財源や運用方法はもちろん「誰もが働かずとも食べていける社会に対する受け入れにくさ」など、人々の心理的抵抗といった大きなハードルもある。

 

このハードルに対して、5つのレイヤーごとにBIの効果や課題点を挙げることで、現在の社会をより掴みやすくしようというのが、今回の試みである。
もちろん、ここでは扱い切れない問題や詳細まで立ち入れない課題もあるため、非常に拙い内容になってしまうことは避けられない。
ただ、ブレグマンも本文中で書いてある通り「ユートピアは、将来の展望よりも、それが想像されていた時代について多くを語る」。
ともすれば将来の見通しが立たない悲観論に囚われそうになる今の時代で、未来に何を求め得るのか。
BIという軸を立てることで、このことを深く考えていきたいと思っている。

 

では、さっそく残り3つについても見ていこう。

 

▼家族(生活を共にする最小単位)

家族の問題は、5つの中でも非常に難しいと思っている。
なぜなら、その在り方や人々の捉え方が変化しつつあるものだからだ。
様々な観点が考えられるが、その中でもここでは「子供を産む人数」と「他人との共同生活」の2つについて考えてみよう。

 

・子供を産む人数

まず、男女が結婚して子供を産むことを想像する。
BIが実現した場合、子供が生まれるたびに世帯収入が増えることになる。
1人8万円の支給額の場合、夫婦に子供が3人いれば月額40万円の収入(しかも非課税!)であるから、児童手当等がなくても生活はできそうである。

 

ここで自然に生じる疑問は「子供をどんどん産むようになって、しかもその子供は将来的に働かない可能性があるのだから、制度自体が破綻するのではないか?」というものだ。
産めば産むほど世帯収入が増えるなら、埋めるだけ産んだ方が得、という考え方である。

 

これについては「そうする人もいるだろうが、それ自体で制度が崩壊することはない」というのが、現実的な回答だと思う。
まず、数百人規模でBIを試した場合、子供の出生数が極端に増えることはなく、むしろ1人1人の教育の質を向上させる方向にお金を使うようになった、という結果がある。「働かなくても生きていける」とは言え、働いて収入をプラスすることでより良い生活ができるのだから、労働に対するモチベーションは0にはならない。
かつ、不必要な労働は無くなっていくのだから、よりその子供が得意とし、より多く稼げる仕事に就かせようというインセンティブが働く。
その結果、親が自分の子供のことをよりよく理解し、その子供が行うに値する仕事に就けるように支援するという流れが生じるだろう。
(もちろん、親にそのように子育てを行うリテラシーが必要にはなるが、親が自由に使える時間も増えているので夢物語ではないはずだ。)

 

また、人口が増えれば市場のパイが広がり、財源となる税収も増えていく。
あるいは「○人目以降は支給額が少しずつ減る」という制度を考えても良い。
「金持ちでなければ望むだけの子供は産めないということか!」という反論もありそうだが、収入に応じた暮らし向きになることは今でも同じなのだから、制度の不用意な濫用を避けるための措置としては問題がないはずだ。

 

・他人との共同生活

先ほど「男女が結婚して子供を産むことを考える」と書いた。
今後は、そうではない形の家族(生活の最小単位)が増えていくと考えられる。
例えば、いまシェアハウスにいる若者たちはあくまでも住環境の共有が主だが、BIが実現すればベースの収入を共有し、より共同体としての性格を強めることができる。
自分にやりたいことがある場合、1人で生きるよりも複数人で8万円のBIを共有しプールして管理していけば、それ自体が怪我や病気の際の保険にもなり、やりたいことに自由に打ち込める可能性が高くなる。

 

こうなった場合、「結婚や子育て」が個人の生活に対して、もはや割に合わなくなる可能性すら出てくる。
もちろん、割に合うから結婚しているわけではないだろうが、もし「結婚しなくても好きな人たちと自由に好きなことをして生きている人」が増えてくれば、結婚の重要性は薄れてしまうだろう。*1

 

▼個人

BIが個人に与える影響は、果てしなく大きいものになる。
なぜなら、これまでの生き方に対する常識や価値観を一変させる可能性があるからだ。
まったく働かない場合に生活レベルは下がるとしても、半分の労働時間でも今と同じ生活ができる可能性は十分にある。
この時、あなたは何をするだろうか。
あなたの大事な人は、どんな生き方を選択するだろうか。
世の中では何が売買され、人気となり、何にお金と時間を使っているだろうか。

 

その問いの詳細は暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)に譲るとして、1つだけ書きたいことは「世の中の変化は気がついたら起きている」ということである。
明治維新にせよシンギュラリティにせよ、大きな流れが生まれれば、個人としてそれに抗うのは難しい。
現時点でBIは「大きな流れ」とまでは言えないが、今後世界中で実験が行われる中でその有効性が証明されれば、一気に舵が切られる可能性もある。

 

人類は途方も無い年月をかけて集団生活を進歩させてきたが、その最先端の成果として「対価を払わずとも飢えない社会」を実現できる可能性が生まれている。
これを望むか望まないかを考えること自体が、自分の将来や在り方を整理することに繋がるのではないだろうか。

 

▼国際社会

ここで扱うのは、主に国内外の出入りの話である。
まず、国内に来る話としてはBI目当ての入国が考えられる。
例えば日本の国籍を持つ人だけにBIを給付するとしても、偽装結婚やBIを目的にした出産などが行われる可能性がある。
また、就業ビザなどで滞在する外国人への給料・社会保障制度・住環境などなどの扱い方については、日本人を基準に考えることができないため、非常に難しくなるだろう。

 

一方で、国外に出る話としては、企業や富裕層が考えられる。
BIの財源を確保する場合、法人税の向上や累進課税による富裕層からの徴税が増す可能性が高い。
この場合、日本よりも税金が安い国に移転・移住する選択肢は十分にありえるだろう。
(法人の場合は個人に支払う給料も減るはずなのでそこまで影響はない可能性もあるが、資産家などにとっては過ごしづらい国になる可能性がある。)

 

駆け足で書いてしまったため、かなり荒い論調になってしまった。
ただ、BIとそれに対する影響の概観はある程度整理できたのではないかと思う。
ここから世の中をどのように捉え、いかに対応していくかは個々人の決断となる。

 

近いうちに、こうした世界観をもとに自分がどのように世の中に対応しようとしているのかも書いてみたい。
それは今の自分の働き方や様々な動き方にも影響を与えているため、自分の取扱説明書のようになるだろう。
これを明文化することで、自分をより自分らしく扱う手助けになる気がしている。

 

最後に、ニーチェの言葉の中で好きなものを1つ引用して終わろうと思う。
超然とした生き方が良いとは思わないが、個人としては、彼の思想に含まれる高潔さの1%でも見習って生きていきたいものである。

 

世間にありながら、世間を超えて生きよ。
世のなかを超えて生きるとは、まずは、自分の心や情のその都度の動きによって自分があちらこちらへと動かないということだ。
情動に振り回されない、自分が自分の情動という馬をうまく乗りこなすということだともいえる。
これができるようになると、世間や時代のその都度の流れや変化に惑わされないようになる。そして、確固たる自分を持ち、強く生きることが出来るようになるのだ。

 

*1:個人的には、他人と非常に深く向き合うという替えの効かない経験ができるので、恋愛〜結婚に至る流れには価値があると思っている。

【前編】ベーシックインカムというフィルターを通して見た5つの世界。そこには何が映るのか。

ブレグマンの『隷属なき道』を読み、ベーシックインカム(BI)についてどの観点から書くべきか、この2日間ずっと考えていた。

 

本を読んだりネット上にある色々な方の寄稿文やブログ、twitterのやり取りを読んだりしていると、数年間にわたりBIが検討の対象になり、物議を醸していることが分かる。
中には「BI賛成者は算数もできない、単純化した話に惑わされるバカだ」といった意見もあった。
さすがにその意見はどうかと思うが「世の中の複雑さを考慮せず単純な話に飛びつこうとしている」という指摘は一理あるようにも思う。
なぜなら、BIの考え方が驚くほど単純だからである。

 

簡単に説明しておくと、BIとは「区別も選別もなく、一律に生活に必要な最低限のお金を直接受益者に給付しよう」という施策である。
区別も選別もないので、生活保護と異なり自分の収入を証明する必要もないし、働いても金額が減ることはない。
一律のため、年金と違って未納により給付金が下がるという概念もない。
お金が直接受益者に渡されるため、その用途も特に制限もされない。

 

一言でいえば「働かずとも食べていける金額のお金を対象者(地域住民や選ばれた人、国民など)に与えよう」というものである。
これだけ単純すぎると、BIへの反対意見も様々な角度から出すことができる。

 

例えば、日本で全国民に年120万円を支給するとなると約150兆円のお金が必要になるが、その財源はどう確保するのか。(実はそこまで不可能な話でもないという試算もある。詳細は脚注*1を参照)

または、働かなくても良い社会では、労働力が減少し現在の市場規模や成長率を維持できず、制度自体が破綻するという指摘。(これも、実際はそれほど労働者は減らないという話が『隷属なき道』で紹介されている)

 

このように、もっともらしい指摘→克服できる、あるいはそこまで問題ではないという反論→実証されていないから議論にならない、という平行線が起きているのがBIの話である。
それゆえにフィンランドでBIが実施されていることは、社会実験(言葉が気に入らなければ先進的な事例)として非常に注目されているのだ。

 

さて、自分が感じているBI周辺の話を書いたわけだが、今回書きたいのはBIそのもののことではない。
タイトルにあるように「BIが実現した世界に映るもの」である。
これを整理しなければ、BIの議論は本質的な深まりが得られない。
なぜなら、実現した時のイメージが多くの人に共有されていない限り、ある人は希望的観測により過度に楽観的に肯定し、またある人は現状維持の観点から極度に悲観的に否定するからである。

 

さらに、BIはその単純さゆえに、現在の常識や価値観からすると受け入れがたい面もある。
実際、ブレグマン氏も奴隷制や女性の参政権の話を引き合いに出して「ある時は明らかにおかしいと思われていたことが、その後当たり前になることがある」ことを示している。
BIについて言えば「働かずとも食べていける」を、何の思考もなく「いいね!」と言える人はそこまで多くないはずだ。
だが、感情的に「それはおかしい」と思っているだけでは、議論は前に進まない。
なぜ当時は常識だった奴隷制が廃止されたかを考えるのと同じように、なぜ「働かないという自由を積極的に選べないのか」を考えるべきだ。

 

以下、自分が「BIを通して見た世界」を国家、企業と市場、家族(生活を共にする最小単位)、個人、国際社会の5段階に分けて記載していく。
穴のある部分や思考が及ばない部分も多いだろうが、それはぜひ指摘いただいて、この5つレイヤーで起こることをより精緻化していきたい。
それこそが、BIにまつわる議論の混乱を少しでも減らす役に立つのではないかと思う。*2

 

▼国家

いうまでもなく、国家はBIを実施する主体の最有力候補である。
地方自治体が特区を作るという可能性も0ではないが、少なくとも日本で考える限り、BIを実施するのは国だろう。

 

国家がBIを導入するメリットとしては、マクロ的に見た際の各種コストの削減がある。
『隷属なき道』でも、犯罪率や医療費の低下、教育環境の改善による将来的な社会へのリターンなど、実例を元に様々な財政的メリットがあることを示している。

 

膨大な調整や審議、選挙などを経て(ここが1番難しいのだが)BIが実現されたとして、国家が担うべき役割は大きく3つだと考えられる。
それは「財源の継続的な維持」と「制度の運用」と「施策の効果検証」だ。

 

まず、財源の維持についてはここでは深く立ち入らない。
BIはその性質上、社会保障費の簡素化(年金や生活保護、児童手当を一本化できる)も兼ねるため、現在の費用をうまく充て、いくらかの税金を上乗せすることで実現できるという試算もある。(詳細は脚注1のリンクを参照のこと)
ただし、そもそも「月いくらが妥当か?」という議論も未成熟なままで数字の辻褄だけを合わせても仕方がない。
ここでは「BIを通して世界を見る」ことが目的なので、BIは継続的に実現しうると仮定して進めさせていただく。

 

次に制度の運用である。
実は、ここに1番のコスト的なメリットがあると考える人もいる。
なぜなら、年金・生活保護・児童手当・失業給付などなど、各種支援施策を行うにはそれぞれ異なる団体や仕組みが必要だが、これらを全てBIに一本化できれば担当する組織は1つのみでよくなる。
また、BIは対象者を選別しないし条件もないから、書類による審査や定期的なチェックも必要なく、その運用は実にシンプルだ。
これならBIの運用に関わる人の数は限定的でよく、非常にスマートに運用ができる施策となる。


ただし、波頭亮氏が2011年時点で指摘しているように、こうした簡素化は官僚制と非常に相性が悪い。
そのためにBIが導入されないとは思わないが、反対意見が噴出するのは避けられないだろう。

 

最後に、施策の効果検証について。
これは統計の話になるが、統計は恣意性が高いものでもある。
『隷属なき道』のニクソン大統領の例でも出ていたように、もしBIに反対する者がその統計を担った場合、あるいは政権が変わり100兆円近いBIの財源を他の施策に使いたいと思った場合、「BIには効果がなかった」という報告書が出てくる可能性は避けられない。
そういう意味では、この検証は国ではなく第三者機関が行うべきかもしれないが、そこまで大規模な調査を国以外が行うことは現実的ではないだろう。

 

▼企業と市場

企業によって、BIに対する反応は様々なはずだ。
まず、BIによって人々は会社を辞めやすくなり、企業もまた従業員を解雇しやすくなる。
これにより労働市場は活性化するが、そこで求められる仕事は「自分が行うに値する仕事」だけになる。
最低限の生活が現金で保証される以上、人々はやる意義が感じられない、不当に勤労条件が悪い仕事を選ばなくなる。
結果として、過労死やストレスによる体調不良(保険料の増加)の問題が解決に向かい、世の中には「意義のある仕事や会社」だけが残る可能性がある。

 

一方で「社会的に重要だがきつい仕事」の扱いが難しくなる。
例えば公共性の高い仕事(ごみ収集・処分、遺体処理、清掃など)や労働環境が厳しい仕事(介護、教師など)である。
この場合、これらの仕事の給料を上げるか、意欲のある個人に期待するしか、BI実施下でその職務を全うしてもらうことはできない、

 

だが、例えばニューヨーク市でごみ収集の担当者が誇りを持ち、かつ高給で働いているように、本来的には社会の存続や成長に繋がる仕事に高い給料が払われるべきだ。
ある意味では、BIの実現によって仕事と給料のバランスが適正になる可能性だってあるのだ。

 

あるいは、ある産業に人が集まらないことでAI・ロボット化が一気に進むことも考えられる。
「AIが仕事を奪う」という話もあるが、BIが実現していれば何も困ることはない。
機械が作る安い製品を、毎月支給されるお金で買って生活し、空いた時間で少し小遣い稼ぎをして、あとは好きなことをして過ごす。
そうした世界がより早く実現するという循環すら、BIの実施により起こりうるのだ。

 

また、市場という観点で言うと、BIには消費を促す力がある。
毎月定期的に入ってくるお金は、生活費や娯楽費や教育費など、あらゆる場面で使用される。
BIの財源は税金だから、富の再分配の効果が高く期待できる。
結果、少子化が進み消費が冷え込んでいるというトレンドにおいても、一定量内需を確保し続けることができる。
企業がいくら生産をしサービスを提供しても、購入する消費者が市場にいなければ全てが無駄である。
BIは、良質な消費者を安定的に市場に供給するという意味でも、前向きな効果を発揮するだろう。

 

さて、残る3つは「家族、個人、国際社会」だが、今日のところは一度ここで切ろうと思う。
おそらく、この3つについて語るにはこれまでと同じだけの文量が必要だ。
書く方も読む方も、それは少し辛いというものだ。

 

ここまでで、BIやそれを取り巻く世界について少しでも視野が広がってくれていると嬉しい。
そして、そこから現在の自分や社会を見たときに、何に手を加えるべきで何は残すべきなのか。
そういったことを考えるきっかけになるよう、後編も書き散らしていきたいと思う。

 

*1:ベーシック・インカム(その2)

*2:専門家でもない一個人のブログなので、そこまで役に立つとも思えないが、整理して悪いこともないと信じて書く。

隷属への道と隷属なき道

前者はハイエクであり、後者がブレグマン。

解説で「ハイエク本歌取りした」とあるが、原題の『Utopia for realists(現実主義者のための理想郷)』の方が当然ながら内容に即している。

ちなみに、ベーシックインカムの話は筆者の主張の軸ではあるものの一部で語られるだけで、AIに至ってはほとんど話として出てこない。

それでも、この本は間違いなく今年に入って読んだ中で1番面白い本だった。


ベーシックインカムというか、この本を中心としてきちんと書くのは明日にしようと思う。

読んだ後、他の色んな本を参照したくなり、ネットでも様々調べていた結果、考えをまとめるどころの話ではなくなってしまった。

この本自体は物凄く有益とは言えないが、社会保障や働き方など様々な領域に誘うポイントが散りばめられている。

不思議な本だと思う。


さしあたって今日、インプットをした直後として書き残しておきたいのは「人が自分の考えを改めたり点検したりするのはとても難しい」ということだ。


何かを批判するためには、その対象とは異なる意見や価値観が必要になる。

例えそれが「私はそう思わない」でも最悪構わない(時と場合による)が、いわゆる常識というものは、この「異なる意見」が存在しないことが問題となる。


「常識を疑え」というのが常識となりつつあるる中で、何かを疑うだけではもはや価値がない。

自分なりに何かをしたいと思う人にとって重要なのは「自分なりのアイデアを出せ」であり「そのアイデアを磨き続けろ」であり「それを実現すべく従って行動せよ」である。

やっている人はやっているし、やっていない人はやっていない。ただそれだけのことである。


では、なぜある人はやっていて別の人はやっていないかといえば、たまたま機会に恵まれたり、近くにそれを実際にやっていたり後押ししてくれる人がいたりするからであって、個々人の能力は二の次のように思う。

つまり、たまたま見知ったことで人はできていると言える。


ベーシックインカムという概念も、現時点では世界の常識ではない。

フィンランドではすでに実現しているが、それはアメリカで銃が合法だというのと変わらない。

ただ、自分がそれについて書くことで、たまたまベーシックインカムやそれにまつわる事象を知って、自分の中にない考えに触れたり、すでにあるものを再検討してもらえるのなら、それはとても嬉しいことだと思う。


結局、世の中を面白くするのは新しいアイデアが提示されたとき、それに変な人たちが群がって形にしていく、その動きそのものだ。

とするなら、自分が一度でもいいから、生きているうちにそのアイデアを提示していきたいと願うのも、また道理ではなかろうか。


ベーシックインカムについて、ここらでちゃんと考えるぞ!という宣言。

ここ1年間くらいベーシックインカムの可能性についてアレコレ考えているのですが、本日も大変興味深い記事に出会いました。

 

オランダの歴史学者兼ジャーナリストという、ルドガー氏の講演要約とのこと。
bunshun.jp


この人がどんな人か分からないし、1番気になる「本当に全国民にベーシックインカムを付与した場合の財源」に関する観点には触れられていなかったので、まずは本を読まねばと思っています。

 

以下のような発言から考えると、ベーシックインカムの課題は財源というよりもその適用範囲と関連する分野の広さにあるのだなと思います。
教育、医療、労働、年金などなど、幅広い領域をまたいだ問題解決につながる可能性がありますが、それゆえに誰がどうやって推進していいか分からないという非常に残念な状況なのではないか、と。

 

「費用対効果という見方も必要だと思います。医療費の増大や犯罪率の上昇、子供のドロップアウトの増加など、貧困のコストは安くありません。」

「1人当たり8000ドルから9000ドルの給付に対し、生活状況の改善で節約できた公共支出の額は1人当たり1万ドルを超えていました。」

 

なぜ自分がベーシックインカムについて考えているかというと、この制度は人類の生き方や価値観をガラッと変えるものだと思っているからです。
「いかに明日の食料を得るか?」でも「いかに働くか?」でもなく「いかに生きるか?その手段として何を選ぶか?」が当たり前の問いになる時代が、間も無くやってくるかもしれないのです。
それは人類が目指してきた、誰もが最低限の生活と信頼を維持できる世の中であり、誰もが想像しなかった、個々人の趣味や狂気こそが価値を持つ狂乱豊かな世の中なのだと思うのです。

とりあえずこの方の本と、この辺の記事を参考にしてまたブログを書こうと思います。
久々に深掘りしたいテーマを見つけて、楽しくなってきましたよ。

 

ベーシックインカム、フィンランドが試験導入。国家レベルで初 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

フィンランドのベーシックインカム実験、開始4カ月後の変化 | BUSINESS INSIDER JAPAN

労働ゼロ、毎月600米ドルの「ベーシックインカム」を受け取るフィンランド人男性 | BUSINESS INSIDER JAPAN

ベーシックインカムの導入実験を行う8カ国 —— 社会保障の新しい仕組みを模索 | BUSINESS INSIDER JAPAN

 

自分を幸せにする手段を選んで表現する、ということ。

一緒にブログ企画をやっているYSさんが、昨日以下の記事をアップされていました。

 

「好き」を語ることは人を幸せにするのか否かserayumi.wordpress.com

 

タイトルを見て本文を読んだ瞬間に「あ!視点が自分と全然違う!」と驚いてしまいました。
なぜなら、語る主体としての自分(しかも「自分の好きなこと」を!)の幸せではなく、聞く相手の幸せを気にしているという視点自体が新鮮なものだったからです。

 

だって、素朴に考えたら、自分の好きなことくらい好き勝手に話してもいいじゃないですか。
それなのに、その行為が相手の幸せに影響するかを考えるという……しかもそれが、自然に表現されている。
これって凄いことだと思いますし、逆に自分は無意識的に「語る人(書く人)と聞く人(読む人)の幸せは別にある」と思っていたことに気づかされました。

 

さて、最終的には「書いたらいいと思う。それで自分が幸せになるなら。」という結論に落ち着きますが、元々「人と人の相互作用」という感覚に疎かった自分を整理するためにも、もう少し書き進めてみましょう。

 

さて、自分はどんな立場なのかと言えば、好きなことを語るのも聞くのも好きです。
ただし、いつでも好きというわけにはいきません。
これから少し細かくしてみます。

 

まず、語る方から。
これには、話す人や話題によって大きく2つのパターンがあると思っています。
それは「好きなことを好き勝手に気持ちよく話せること自体が幸せ」と「好きなことを通じて共感・理解しあい深められることが幸せ」というものです。

 

前者の場合、話し手がフォーカスするのは「いかに気持ちよくしゃべれるか」です。
この場合、話題としては恋愛や友人関係など、身近な出来事が選ばれがちです。
聞き手としては「いかに気持ちよく喋らせるか」が重要ですから、ここで必要なスキルは「傾聴」です。
しっかりと頷いたり相手の話を遮らないことで、話し手の舞台を整えてあげること。
それが理想的な関係だと言えるでしょう。*1

 

一方で後者の場合、話し手は「いかに深く理解しあえると感じられるか」にフォーカスします。
この場合の話題としては、趣味や学問など、少し込み入ったテーマとなるでしょう。
ここで聞き手が「傾聴」のスキルだけを使っていては、話し手としては不満です。
自分の話をどれだけ聞いてもらったところで、相手の反応がないと「理解しあえた」という感覚に至らないからです。

 

ここはやはり「見識や常識」といったスキルを発揮してもらって、宇宙の話であれば「そう言えばイーロン・マスクが太陽系に植民地を作るって言ってるけどどう思う?(最新事情についての理解)」とか、魚釣りの話であれば「この前○○川に釣りに行ったけどあそこはいいよ(釣り好きは次に行く場所を探しているはずという予測)」などと返してほしいものです。
いわゆる、エスプリの効いたトークと呼べるものがこちらかもしれません。

 

次に聞く方。
こちらには「楽しい・面白い話を聞いているのが幸せ」と「楽しそうに話している人と一緒にいるのが幸せ」の2つがあると思っています。
もちろん両方重なるのが一番ですが、上記のうちどちらを選ぶかは結構人によってわかれるのではないでしょうか。

 

さて、冒頭で私は「語るのも聞くのも好き」と言いました。
もう少し詳しく言うと、語る場合は後者の「深く理解し合う」ことを求めます。
身近にあった話などはあまり興味がなく、お互いに関心がある事項について深め合えているとき、とても楽しい気持ちになります。

 

聞く方に関しては「楽しそうに話している人と一緒にいるのが幸せ」です。*2
自分語りであれ小難しい話であれ、「自分が相手の幸せに一役買っている」というのは悪い気はしませんし、「自分の問いかけにより相手の思考が深まっている」というのも、非常に喜ばしいことです。

 

逆に言えば、どれだけこちらが反応しても「好きは好きだけど不満や愚痴も多い話」は聞いていて面倒くさくなりますし、「レベルが違いすぎて反応のしようがない」場合には、聞き手として申し訳なくなります。

 

一般の会話だとそこまで語り手・聞き手がはっきり分かれることはないかもしれません。
ただ、個人的には「好きなことを語ることで幸せになれるのなら、どんどん語ったらいいじゃない」と思います。
「そんな風に振舞っているあなたを見ると、こちらも幸せになってくるんですよ」と。

 

ましてや書き物であれば、読むも読まないも、反応するもしないも自由ですから、余計に書き手のエゴを出したらいいと思うのです。
より多くの人に読んでもらうとか、ネガティヴな反応がこないとかは、好きなことを書くこととはまったく別の次元の話です。

 

書き手は読者を想定すべきというのはその通りですが、その想定した結果が100万人の大衆なのか、どこかにいるかもしれない、たった一人の同じエゴを持つ相手なのかを選ぶ自由はあるはずです。

 

個人的な反省として、好きなことだけ書いていても共感してくれる人は現れないという現実があるため、伝え方は非常に重要だと思っています。
しかし、だからと言ってそれが書き手のエゴを否定する根拠にはなりません。
書くことと伝えることは、まったく別の行為だからです。

 

ここまで書いてくると、私は結局文章を書くことが好きだし、それを通じて誰かが少しでも「面白いなぁ」とか「なんかいいなぁ」とか思ってくれていれば、趣味のブログとしては十分に幸せです。
ただ、書くことがそれほど好きでなかったり、苦手な人にとっては、また別の捉え方があるのだと思います。
それこそ「何のために語るのか」や、「何を求めて聞くのか」と同じように。

 

もしそうであれば、好きなことを語るのにあえて「書く」という手段を取らなくてもいいのかもしれません。
絵を描いてもいいし、独白を録音してもいいし、詩を作ったっていい。
そうして、自分がしっくりとくる方法で好きなことを表現できるのなら、それが一番「幸せ」なのではないかと思うのです。
その領域においては、絵の上手い下手だとか、音声は聞きづらいとか、そういった指摘は野暮ってものです。

 

自分がもっとも幸せになれる表現の手段を持っているということ。
それを通じて、幸せになってくれる人がいるということ。
それって何だか、とても素敵なことだと思いませんか。

*1:アドバイスはいらないからとにかく黙って聞いて共感だけしてね、というのがこちらの典型です。

*2:もちろん時間的な限度や、相手との関係性というのはあります。

「健康」から考える、言葉を自分なりに捉えるということ。

仕事を始めて約5年半になりますが、昨日初めて体調不良で会社を休みました。
立っても座っても横になっていても腹痛が酷く、病院に行ったら急性腸炎と診断されました。

 

どうやら「小腸に普通は溜まらないガスが溜まっている」とのことで「いっそ腹をかっさばいてガスを出したら楽になるんじゃないか」とか思ってました。猟奇的ですね。
今日はだいぶ落ち着いて、こうしてブログも書けるようになりました。
昨日からプリンと水分しかとっていないので、とても痩せそうな気がします。
すでに今年に入ってから、5kgも体重が減っているというのにね。

 

さて、まったくの偶然ではありますが、実は近日中に「健康」をテーマにブログを書こうとしていたのでした。
きっかけは、先日とてもお世話になった元上司と飲みに行った際、以下のような話を聞いていたためです。

 

曰く
・普通の人は、健康を「病気ではない状態」だと思っている。
・仕事をきちんとする人(一流の人)は、「自分のパフォーマンスを最大限に発揮できる状態」だと思っている。
・この認識の違いが、その人の仕事ぶりや普段の生活の違いになる。

 

実際、WHOでは健康を以下のように定義しています。

 

健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。

| 健康の定義について | 社団法人 日本WHO協会

 

WHOの定義は難易度高すぎるのでは……?と思うのですが、元上司の話と合わせて考えると、次のようなことが言えそうです。
つまり、健康とは「身体的な好調・不調」ではなく「最大限自分の力が発揮できる環境にあるかどうか」の話をしているということです。
もしかしたら「そんなの当然だよ」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、自分にとっては新しい言葉の解釈でした。

 

確かに、最近本屋に行くと「最強の睡眠法」や「シリコンバレーの食事法」なんてタイトルの本が並んでいます。
同じようなタイトルの本が並んでいるということは、それなりに売れているのでしょう。
ただ身体の調子を整えるだけでなく、より高いパフォーマンスを安定的に出すために、日常生活を改善する。
これが、一流のビジネスマンにとって重要なことなのでしょう。

 

ただ……というか、ここからは雑談として読んでいただきたいのですが、果たして「より高いパフォーマンスを出すために日常生活を仕事に最適化する」という選択をすべき人って、世の中にどれぐらいいるんでしょうか。
「日本人の9割に英語はいらない」ではないですが、この考え方もまた、1割ぐらいの人に該当するものではないかと。
ただし、その残り1割が面白い仕事を見つける可能性が高いのも、また事実だと言えそうですが。

 

「健康」であれ「成果」であれ「仕事」であれ、言葉の捉え方の違いがそのまま、その対象に対する取り組み方の違いになります。
成果を「言われたことをやること」とするか「自分なりに101%を実現すること」とするかでも違います。
仕事はより多くの捉え方がありますが「時間をお金に変換すること」とするか「能力をお金に変換すること」とするか「能力を使って望みを実現する手段」とするかによって、向き合い方がまったく変わってきます。

 

自分は、今回の急病もあって健康に対する意識が変わりましたから、より「健康的な」生活を送るようになるでしょう。
ただ、他にも気づいていない「捉えきれていない言葉」が、まだまだたくさんあります。
それらを1つ1つ学びつつ、その上で何を自分の血肉としていくか。

 

そんなことを思うと、もっと多くの言葉に出会いたいと、そう感じるのです。

「自分の強みを知る」ことは「人生の中での仕事の位置付けを決める」ための必須科目だと思う。

仕事をする中で「自分の強みを活かす」という発想と出会うことがあります。
実は私、この言葉があまり好きではありませんでした。
おそらく、学校での試験の経験が尾を引いているのだと思います。

試験では、どんなに得意な教科でも満点は100点や200点です。
苦手な教科が足を引っ張れば、合計得点の順位はすぐに下がりますから、全部を満点に近づけることが「正解」です。
このような中で「苦手をなくす」思考法が、ぐんぐんと育まれていたのでした。

そんな自分ですが、最近では「自分の強みを活かす」という発想は現在において必須のスキルだと思うようになりました。
なぜなら、それがないと「今よりも自由な・望ましい人生」が生み出しづらくなっているからです。

ここで言う「強み」とは、その人の資質であり習慣です。
ざっくり言えば「それをやり続けるのが当然であること。他の人から見たら不思議なのに、その人にとっては普通のこと」です。
文章を1日に12時間書き続けても平気な人は、その強みを活かして作家やライターになる道を選ぶことがあるでしょう。
そしてそれは、辛くともそれなりに自由で望ましい人生のはずです。

一方で。
作家になりたい人がいた場合、戦うべき相手は上のような人たちです。
類まれな表現のセンスや独自の経験を持っていたとしても、一定量の文章を書くという行為において勝つのは難しそうです。
これは他のことでも同じで、あなたが努力して苦しい思いで事務作業をしている間に、隣の人は「淡々と作業を進める強み」を活かし、楽しくスイスイと作業を進めているかもしれません。
そんな状況で、隣の人よりもよい業績をあげることは、なかなか大変なことでしょう。

ここまでの話で「自分の強みを活かす」ことの重要性は、少しご理解いただけたと思います。
このあと、普通であれば「あなたの強みの見つけ方は」とか「強みを活かすための心構えは」とか続くのでしょうが、そこはストレングスファインダーや他のブログに譲ります。

自分が興味があるのは「なぜ強みを活かさないと生きづらい世の中になったのか」であり「そのためにどんな精神構造の変化が必要なのか」なのです。
なぜなら「強みを活かした方がよい」ことを正しく理解するには、この2点を納得する必要があると思うからです。

さて、いよいよここからが本題です。
上記2つの問いに関して、少しずつ掘り下げていきましょう。

●なぜ強みを活かさないと生きづらい世の中になったのか
結論から言うと「知識労働の時代になったから」と言えそうです。
もう少し言うと、付加価値や生産性の高さがないと、仕事として評価されない時代になったからです。
苦手なこと、弱みに属することをやっても、良いものはできないし、疲れて時間もかかります。
得意なこと、強みに属することであれば、改善方法も思いつくし、取り組んでいても楽しくすぐにできるでしょう。

逆に言えば、先ほどの作家の話と同様、そうした強みを活かしている人と戦っているうちは非常に不利のため、自分も早く強みを活かせる領域を見つけることが必要です。
これは仕事以外の話も同様で、「強み」と「それを活かす領域」はセットで考えなければなりません。
「働くのは苦手だが家庭のことは何やっていても楽しい」と、バリバリ働くのが幸せ!という相手と結婚して専業主夫になる道を選んだ男性は、きっと素敵な人生を送るでしょう。


●そのためにどんな精神構造の変化が必要なのか
2つ目の質問は少しやっかいです。
周囲を見渡すと「たいした強みとか持ってないし」や「そんなこと考えたくないし」といった人がいます。
というか、自分がそうでした。「強みを活かした方がよい人生が送れそうだぞ」と薄々感じていたにも関わらずです。

では、なぜ多くの人が「自分には強みがない」と思ってしまうのか。
それが必要だと分かったとしても「とはいえ面倒だし」と思ってしまうのか。
その鍵は、強みを活かすために必要な2つのステップにありました。

・ステップ1:自分の人生には自分で責任を持たなければいけないという確信(諦め)
人によっては当たり前のことです。
自分の人生は、他の誰によっても肩代わりしてもらえません。
ですが、実生活ではそうでもないのですよね。

困ったら誰かが助けてくれます。
お金を払えば嫌なことでも誰かがやってくれます。
難しい問題も、ネットで調べればある程度答えが出てきます。
そんな世の中で「人生に関しては自分で責任を持つのだよ」と言われても、なかなかピンときません。

それ以上に困難なのは、「自分の人生は自分で責任を持つほど重要なものなのか?」という問いです。
「生まれたからには命を大事にしなさい、この世に一人だけのあなたなんですよ」と言われたところで「何言ってんだこの人」と思う人も大勢いると思います。
望んで生まれてきたわけでもない、そもそも生きているのが辛い、未来にも希望がない。
いっそ死んでしまいたいが、それもできずに生きている。

そのような人にとって、「自分の人生に責任を持て」というのはまったく響かない言葉です。
では、なぜ同じ言葉が響く人と響かない人がいるのでしょうか?
それが、ステップ2の話です。

・ステップ2:自分を大切にできる、自己肯定感がある
自分の人生に自分で責任を持てるかどうか。
それは、自分を大切に思い、自己という存在を肯定できているかにかかっています。
自分が大事なら、自分の人生も大事なはず。
そうしたら、それをコントロールすることにも責任が生じますよね。
少なくとも、他の誰かに自分の人生の手綱を渡すことはないはずです。

そして、自分を大切にできるかは、信頼できる他者がいるかどうかにかかっています。
大切な人に大切にされたからこそ自分を大事にできますし、信頼できる人がいるからこそ、自分の存在も肯定するに値する価値を持つのですね。

しかしこれは、実は非常に難しい問題です。
なぜなら、信頼や愛着の問題は幼少期の親との関係性によって大きく左右されますし、一度信頼を築けなかった場合、大きくなって自分から他者と信頼関係を作るのは、非常に困難を伴うからです。

ここまで見てくると「自分の強みを活かす」ことがなぜある人にとっては難しく、別の人にとっては簡単かが分かります。
その人が自分の人生に責任を持っているか。自分を肯定し、他者と信頼に基づく関係を構築しようとしているかどうか。
この前提や覚悟の有無が、強みに向き合うために必要な要素だと言えるでしょう。

この問いを通じて、自分の中では「健全な自己肯定感こそが現代をよく生きるうえでの重要な概念だ」ということをより確信しました。
一方で「現代は健全な自己肯定感を持ちづらい時代だ」ということも、同じくらい確信しています。
先にあげた「他人は信頼できない。自己肯定感もない。自分の人生に責任なんて持ちたくない。いっそ死んでしまいたいが、それもできずに生きている」というのは、わりと今でも普通に思います。
周囲にも同じように考えている人が(どこまで本気かはわかりませんが)結構います。

自分も含めた彼ら・彼女らはどうしたらその精神構造から脱却できるのか。
これから大人になる人たちが自分みたいな思考に陥らないためには、世の中にどんな役割が不足しているのか。
答えは一定見えていますが、それを実現する術がまったく見えていません。
それを少しずつ明らかにしていくことが、これからの自分の1つの方向性になりそうです。