canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

どうすれば「アニメ市場に新しいユーザが入りやすくなるか」という問い。

 

自分はいわゆるオタクと呼ばれる人間*1ですが、ご多聞にもれずアニメもそれなりに見ます。

 

例えば、7〜9月のシーズンで見ているアニメを挙げるとこんな感じ。
メイドインアビス
プリンセス・プリンシパル
・NEW GAME!!
地獄少女 宵伽
賭ケグルイ
ボールルームへようこそ
異世界食堂
FateApocrypha
魔法陣グルグル (2017)
将国のアルタイル
バチカン奇跡調査官
・DIVE!!
僕のヒーローアカデミア

 

感覚的には、そのシーズンで見ているアニメが5本以内だと「今期は不作だなぁ」と思い、8本くらいだと「いい感じに楽しめてるな」、10本超えると「お、今期は豊作だな」という感じです。なので、今期は今のところ豊作です。

さて、先月の記事ですがサイバーエージェントとCygameseが大規模なアニメファンドを作ったというニュースが出ていました。

30億円規模のアニメファンドをサイバーエージェントとCygamesが組成。AbemaTVオリジナルも - AV Watch

 

深夜アニメの市場規模(消費者の支払い総額)が約2兆円*2という中で30億円というと少なくも見えます。
ただ、アニメ制作という観点だと深夜アニメを1作品作るのに約3億円かかると言われていますので、10作品に投資できる規模感です。
実際の制作環境や、サイバーエージェントが自社の宣伝・放送網を使えることを考えると、もっと多くの作品に投資できるでしょう。
10作品のうち1作品でも大ヒットすれば、そのIP(知的財産)を使ってゲームやグッズ、舞台やカフェなど様々なチャネルで収益化でき、投資額を超えるリターンが期待できるというわけです。

 

他にも色々な会社がアニメ・キャラクター業界に投資をしており、次の収益のタネとして育てているわけです。
それはアニメ市場がある程度魅力的だからなわけですが、ではその市場はきちんと育っているのか?というとまだまだ限定的だなと思っています。

 

実際、アニメやキャラクターの裾野の広がりは大きなものがあります。
君の名は。」のようなアニメ映画が興行収入約250億円を達成して社会現象となり、スマホゲーム市場が広がることで、カジュアルにゲームをする人も増えています。
また、LINEスタンプなども、キャラクターの新しい市場として確立されてきています。

 

ただし、そこからアニメをTVやオンデマンドで視聴したり、BDやDVDを買ったり、そのアニメキャラクターのグッズを購入したりとなると、一気にハードルが上がります。
なぜなら、大多数の人にとってアニメやキャラクターへの消費は圧倒的に「非必要不可欠」なので、消費の習慣がない人が超えるべき壁が高いからです。*3

 

そうした中で、企業としてもより一般性の高いジャンル(アパレルや日用品)にキャラクターを提供したり、広告宣伝に使ってもらったりと色々な工夫をしているわけです。
まさにキャラクターを活用した付加価値の付与ですが、それ自体はアニメ市場に人を増やしているわけではなく、すでに好きな人が消費できるモノを増やしているだけにすぎません。

 

間口を広げるだけでなく、いかにその扉をくぐりやすくするか。
例えばウォークマンが音楽を持ち運べるようにして抜群に音楽が日常に溶け込んだように、アニメを見るという行為を日常化させることができるか。
こうしたことを考えていかないと、どれだけアニメを作ったり、そこからのキャラクター展開を広げたりしても、「オタクというほど深くもなく、メインというほど広まってもいない中途半端なカルチャー」という状況になってしまうのではないか。
録りだめているアニメを見ながら、そんなことを思ったのでした。

 

 

*1:「オタク」という言葉の定義が広すぎるのと、それに対する自分なりの捉え方も様々なので、こうした非常に曖昧な表現になるのです

*2:産業統計の調査・発表 | 日本動画協会。ただし、アニメ制作に関わる会社の売上総額は2,000億円程度にとどまるとも言われている

*3:一方で「ご飯を1食減らし安い家にすんででも好きなキャラクターの商品を買い続ける」という人もいるので、人間というのは面白いなと思います。

東京に出てきて「あ、いま少し心が死んだ」と思った瞬間の話。

久々に終電まで飲んだ金曜夜、満員の京浜東北線に乗ったところで思い出したので書きます。
これは、それなりの田舎で18年間暮らしたのち関西のそこそこ都会の大学に通い、東京という彼の地元の70倍の人口密度を誇る大都会で仕事を始めた男の子の話です。

 

彼の地元は、当然のように車文化でした。
駅というのは県外に出るために行く場所であり、それ以外の移動はもっぱら車によって行われていました。
大学では自転車が主要な移動手段となり、同じく電車に乗るのはアルバイトか、競馬場に行くときくらいのものでした。


彼が初めて関西で電車に乗ったとき、不幸にも時間通りに目的地に着けませんでした。
なぜなら「普通」と「準急」と「急行」と「特急」の違いがわからず、とりあえず「普通なら間違いなかろう」と思って乗った結果、全然進まなかったからです。
おかげでアルバイト先に遅刻してこっぴどく怒られることとなるのですが、一体何が悪かったのか、当時の彼には分からなかったのです。

 

さて、話は東京にまで移ります。
4年間、そこそこの都会で過ごし電車にも慣れていた彼は、自分に自信を持っていました。
「もう俺も電車に乗れない田舎者じゃないぞ。普通と急行の違いだって分かっている」と、意気揚々と通勤電車に乗り込むのです。
いえ、この言葉には少しだけ嘘が混じっています。
人が多すぎて乗れる気がせず、彼は電車を見送ってしまうのです。

 

彼は思いました。
「きっと今の電車が混んでいただけだ。1本待てば空いた電車がやってくるに違いない」
しかしその後、待てど暮らせど一向に空いた電車はやってこないのです。
それどころか、その乗れる気がしない電車に、多くの人が身を投げ入れるではありませんか。
これが都会か……と彼が実感するには、一往復の通勤で十分でした。

 

さて、ここまででもだいぶ心にダメージを受けていましたが、「死ぬ」という言葉を使うまでではありませんでした。
彼の心が死ぬのはまさにこの後。
実際に電車に乗った時に起こるのです。

 

話を分かりやすくしていきましょう。
彼の心が少し死ぬのは「不特定多数の人と触れ合って移動していること」が原因になっていたのです。
満員電車は言うまでもなく、普通に座っていて隣の人と肩が触れ合うのも、彼にとっては驚きでした。
「なんでゼロ距離で見知らぬ他人と過ごさねばならんのだ」と、気恥ずかしいやら気まずいやら、彼の心はかき乱されていったのです。
自分の肩や背中にいる人の顔をそれとなく見てみると、全員が一様に諦めたような表情で、何も感じていない様子だったのが、さらに彼の心に傷をつけました。

 

「なるほど。ここでは『見知らぬ人と身体が触れ合う』というのは特別なことではないのだ。だから相手は遠慮なく体重をかけてくるし、自分が掴んでいるつり革を平気で掴んでくるのだ」と、彼は一人納得したのです。
そうして数ヶ月が過ぎた後、彼もまた「誰かと密着していても何も感じない心」を手に入れました。
その時にこう思ったのです。「あぁ、俺の心は今、少しだけ死んだのだ」と。

 

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もしも「都会の人は冷たい」という話ができるなら、その一端は満員電車にあるのではないかと、少しだけ本気で思っています。
周りへのチャンネルが開いている人には耐えられない空間が、周囲への鈍感さを増す要因になっている。
そうして鈍感になった個人は、見知らぬ他人への興味を無くしていく。
その結果、無関心で冷たい個人が出来上がる。

 

とはいえ、今日も道端で倒れたご老人を周囲の人がさっと助ける場面に遭遇しましたし、「都会の人は冷たい!」というのも正しいとは思いません。
ただ、細かな変化に気づいたり、自分の感覚を研ぎ澄まし大事にしている人というのは、そんなにいないのではとも思います。

 

このブログは深夜2時の川辺で書いていますが、風の音や虫の声、流れる水の匂いなど、様々な刺激を受けています。
仕事中のオフィスでそういった音や匂いを意識することは、ほとんどありません。
こうした状況を打破し、五感を大事にして日々を過ごすこと。
これもまた、最近大事にしていることだったりするのです。

気軽にシェアできない体験を作るということ

最近「フォトジェニック」然り「バズる」然り、個人・企業問わずSNSでのシェア(とそれに付随する「いいね!」)を最大化することを目的に沢山の施策が行われています。
 
それはそれで大事なことで、誰にも知られずに終わるくらいなら、多くの人に知ってもらうためにSNSを活用するのは当然だと思います。
(だからといって、炎上や虚言を意図的にやるのは道徳的に良くないと思いますが……。)
 
一方で、最近強く思うのは「本当に素晴らしい体験をしたのなら、それは気軽にシェアしたくないと思うのでは?」ということです。
「1番のオススメのお店は教えたくない」という心理が近いでしょうか。
 
気軽にシェアできる話題というのは、誰もが共感できる一般性の高いものです。
一方で、本当に自分にとって大事な経験をした場合、その物事自体を公にシェアするかと言えば、そうではないと思うのです。
なぜならその経験は、その人個人に深く紐付いた独自性の高いものであり、他人と共感したり分かち合ったりするのが難しいものだと分かってしまっているからです。
 
ただし、個人で楽しむばかりで客層が広がらないと、人気や利益が出ずに続かなくなるというジレンマもあります。
そのジレンマを乗り越えて「特別な経験を提供しつつ、確実に客層を広げて、しかも質は落ちない」ために何ができるのか。
それを実現しうるとしたら、それは一体どんな施策なのか。
そんなことを、最近はよく考えています。
 
1つ考えているのは、これまで書いてきたことと反する部分もあるのですが「特別な経験を何とかして届けようとすること」がその答えの一部なのでは、ということです。
 
分かり合えないものを分かち合おうとすること。
自分の中にある、とても大事だけれど表現できないものを、なんとか言葉やイラストや、その他の表現に乗せて伝えようとすること。
そうした行為の積み重ねが、深いところでの共感を生み出しうると思うのです。
 
ここまで考えてみると、つまるところ重要なのは「いかに自分なりの深い体験をするか」だと言えそうです。
この点については「五感の重要さ」というテーマで後日また深掘りしますので、どうぞお楽しみに。

半休半労のススメ

今日は奥さんの誕生日だったので、せっかくなら一緒にいれる時間を作ろう!ということで午後からは家で仕事をしていました。
先週から業務を調整して、ミーティングがなければ家でできる仕事がほとんどなのは、とても良いことだなぁと思っています。

 

そして、家に帰ってからもすぐに仕事をするわけでなく、まずは10分昼寝して、起きたら妻と世間話をして買ってきたケーキを食べて、「あー仕事やるの面倒くさいなー」とか言って、そこからガッツリ仕事を進めるわけです。

 

設備がある場所で行う仕事はなかなか上記のようにはいかないでしょうし、人によっては「そんないい加減な形で働くんじゃない!」と言われそうでもあります。
ただ、生涯働き続ける可能性がある時代に、仕事に全てのリソースを割くのは戦略として拙い気がするし、パフォーマンスを高く出し続けるためにも定期的に「半分休みながら働く」という感覚は非常に重要だと思うのです。
(普段は普通に終日働いていますが、それすらも「本当に必要か?」と思っています。)

 

もっと率直に言ってしまえば、自分にとっては奥さんの大切な日にできるだけ一緒に過ごして、美味しいものを食べて、ゆっくり話すことが、人生のあらゆる面でレバレッジのきく、有効な時間だと捉えているのです。

 

ちなみに、職場の人間関係を大事にするロジックとしてよく「職場の人間と過ごす時間の方が家族よりも長い。」という話が言われます。
そこで、以下の要件でちょっと計算してみました。

・22歳から働き始め、65歳までの43年間働く。
・平日は11時間仕事をする。家にいる時間は7時間である(その他は睡眠、通勤など)
・30歳で結婚し、夫婦ともに80歳まで生き、50年間を一緒に過ごす。
・土日は仕事はしない。夫婦で過ごす時間は10時間とする。

 

この時、会社で過ごす時間は115,885時間です。年にするとまる13年間分です。
とても長いですね。
では夫婦で過ごす時間はというと145,750時間です。年にすると約16年間分。
約3年、3万時間分も、夫婦で過ごす時間の方が長いのです。

 

そもそも結婚するしないとか、夫婦関係がどうあるべきかとか、そういった議論も重要ではありますが、それを横に置いたとしても、限られた自分と時間というリソースの中で、どこに力を注ぐのかは非常に大切な考え方だと思います。
そこに対して、若干冗談ではありますが「半休半労」のような、「仕事は全力でやるべき!」といった考えとは別のものをぶつけることで、別の視点も獲得できるのかなと思っています。

 

こういう話を考えていると、結局は「個人として強くなろう」「自分にとって望ましい環境を構築しよう」という2つの話に集約されてしまうのですが、、、その細部に大事なことがあると信じて、書き続けてみましょうか。

「正直者はバカを見る」という言葉は、強いけれども嫌いです。

突然ですが、私は小さい頃から「正直者はバカを見る」という言葉が嫌いです。
嘘をつくと疑心暗鬼が生まれてコミュニケーションコストが上がりますし、誰かに騙されれば次は誰かを騙そうと思って騙しの連鎖が生まれるし、悪いことをしている人が得をする世界は間違っている!と心から思います。

 

ただ、これは初日に書いた「ルール違反をした方が強い」と同じ話です。
誰もが正直な世界なら、嘘をついた人が1番得をします。
そもそも情報格差があるところには富の源泉がありますから、相手に与える最適な情報量は「自分が望むことをやってくれる最低限の量」となってしまいます。

 

もちろん今は話が違う場面もあって、1つの目標を目指す組織の場合、できる限り全員に多くの情報を渡し、独自で考えて行動できる人が多い方が強くなる、ということもあります。
ただ、それも同じ組織=互いに目的や利益を共有している場合であって、互いの信頼感に加えてインセンティブが近いところにないと機能しないでしょう。

 

嘘をつくことも、誰かを傷つけることも、人を人と思わない扱いをすることも、それ自体の良し悪しは判断できません。*1
ただ、少なくとも自分はそういう人になりたくないし、そうではない人と関わっていきたいと思うのです。

 

そんなわけで、色々な人と会って自分の中の人物データベースを、できるだけ多様にすることを心がけています。
その意味では、一時期人事の採用の仕事ができたことは幸運でした。
転職というその人の人生の大事な局面で、真偽を織り交ぜながら話す多くの人と触れ合うことができたからです。

 

経験値的には全く少ないですが、それでも第一印象の精度を上げて、「この人は信頼できそう」とか「もうちょっと話してみよう」といった直感力を大切にすることを心がけて来ました。
だいたいにおいて、思考以前の感覚は正しいことが多いのです。

 

とはいえ「本当は相手が何でも正直に話してくれれば楽なのに」とは、今でもたまに思います。
「すぐに相手の人となりが分かればいいのになぁ」という点で、友人の言葉で本当にそうだなと思うものがありまして、勝手ながら紹介します。

 

例えば知り合った男の人が、お酒飲んだ時の悪癖は無いか、とか、人のことを見下さない人か、とか、私が本屋で長時間うろうろしても怒らない人か、とか、すぐわかればいいのにね。

 

……なんかこれだけ切り出すと物凄くセンチメンタルな言葉に見えますね。
それはそれとして、人なんて多様な面があるので、昨日は優しかった人が明日は誰かを踏みにじることもあるでしょう。
そうだとしても、せめてその人が「不条理に誰かを傷つけたりしない人か」といったことがもっと分かりやすくなれば、多くの人が過ごしやすい世の中になるのになぁと思うのです。
そんな仕組み、どうにかして作れないものかな。

 

昨日に続きふわふわしたことを書いてしまっているのですが、久々に現実から浮いたことを言葉にしてみようということで、ご容赦くださいませ。

*1:基本的には悪いと思いますが、断定することはできません。

トンデモ未来妄想記。あるいは100年後の人類について。

4日目にして、過去の話を真面目に書くことに飽きてきました。
難しい話とか真面目な話ばっかりしていると、反動でどうでもいいことを考えたくなるのです。
というわけで、何事もバランスだよなぁと思いまして、今日は未来の話を妄想で書きます。

 

どのぐらい未来の話を妄想しましょう。
ざっくりと100年くらい先が良いかもしれません。

 

この100年、色々な技術の発展があると思いますが、方向性として1つあるのは「身体の機械化」だと考えています。
これまで人類は「身体を外部化する」ことを続けてきました。
望遠鏡(視覚)や電話(声と聴覚)などはその分かりやすい例ですが、自分の身体が持つ機能を拡張したり外部に置き換えてきました。
その結果、宇宙の果てを観測したり世界中どこにいてもリアルタイムでコミュニケーションできるなど、様々なことができるようになっています。

 

この「身体を外部化する」流れはウェアラブルバイス等で引き続き進みますが、今後はそれよりも「身体自体が機械化する」流れが強くなると思います。
すでに身体の一部(腕や脚)を機械に置き換えて(あるいは機械を装着して)生活している人もいます。
イーロンマスクによれば、これから5年程度で「脳とコンピュータが直接繋がる時代が来る」と言い、そのための会社も立ち上げています。*1

 

脳とコンピュータが繋がって意味を持ち始めるのが5年後ですから、100年後には途方もないことが起きていそうです。
子どもは体外受精が基本となり、生まれた瞬間から臓器が機械で補助され、確実に健康体として生まれてくる。
この場合母親の負担もないので、出産によるキャリアへの影響も起こり得なくなる。
それどころか、卵子精子は他の細胞から作り出せるので、男同士・女同士での出産(もはや言葉も変わっているかもしれませんが)も可能になっている。

 

いや、そもそも子どもを産むか自分のクローンを作るかを選択できるようになっていて、人類は史上初めて「種の滅亡を心配しなくて良い生物」になるかもしれない。
その頃には星間移動も可能でしょうし、エネルギー効率も今の何万倍にもなっていておかしくありません。

 

身体の機械化から話が逸れました。
ここからもう少し考えたいのは、もし将来的に本当に身体が機械に置き換わるとしたら、人々の倫理観や人生観は今とまったく異なったものになるだろうということです。

 

例えば、ものすごく卑近な話をすると「足が速いからモテる」という要素がなくなります。
つまり「身体的に優れた異性に魅力を感じる」という生物としての本能が変わってしまう可能性まであります。
なぜなら、その時代に優れた身体能力を持っているのは「より対価(お金というよりは電子的な何か)を出して身体を機械に変換している人」であり、その人の生物・遺伝的な要素は一切関係なくなるからです。
そうなると、異性を選ぶ基準もかなり変わってくるかもしれません。

 

そもそも「生まれたままの姿で生きる」ということ自体が時代に沿わない可能性もあります。
一部は原理主義者的に、一切機械化せずに生きる人たちもいるでしょうが、大半の人は「昔は生まれたそのままの骨と肉とで生きてたんだって。不便だよねー。」くらい言っているかもしれません。
スマホがなかった時代って待ち合わせで出会えないことがあったらしいよ。不便だよねー。」と言うのと、同じくらいの感覚で。

 

逆に、将来の人類には「人間の肉を通じて何かに触れる感覚」が理解できなくなるかもしれません。
指で油の温度が上がる天ぷら職人、触り心地で木材の良し悪しをみる大工なんて人たちは、もう存在しないかもしれません。
それは「職人が消える」という話ではありません。
「個人による身体的な体験の差がなくなる」、つまり「個という存在を定義づけるものが1つ減る」ということを意味していると、そう思うのです。

 

思ったよりも長くなってきたので、この辺りにしておきましょう。
個人的には「未来はどうなるか」といった漠然としたテーマには、あまり興味がありません。
それはなるようになるし、そのスピードが速いか遅いかの違いだけだと思うからです。
それよりも「もし科学技術が超発達した場合、その時代の人間の常識はどうなっているか」というテーマの方が興味深いですし、そんな話ができる飲み会ならぜひ開いてみたいなぁ、と思うのでした。

42年間、1つの会社で勤め上げるということ。

この三連休は、地元の岩手県に帰っております。
実は父親が今年還暦を迎えまして、そのお祝いをしたのです。
久々に祖母や兄夫婦も揃い、普段は行かないようなお店で美味しいご飯を食べて盛り上がりました。

 

父親は高校を卒業してすぐ就職したため、今年で勤続42年となるようです。
自分仕事歴のおよそ7倍。どうにも想像ができません。
決してやりたくて入った会社ではないようですが(そもそもそのような選択の概念は、当時はなかったようです)、その間転勤や単身赴任もありながら家も建て、病気も乗り越え、偉くはなりませんでしたが息子二人を育てました。
私としては一人の人間らしく、親に対する色々な思いはあれど、それ自体が本当に凄いことだと思いますし、有難いことだと思います。

 

さて、つい先日ハーバード・ビジネス・レビューの元編集長である岩佐さんが、下記のような記事を書かれていました。

 

覚悟をもって組織に居続ける人 | 岩佐 文夫 | note

 

自分はすでに転職をしています。
今の時点で「1社に勤め上げる」という経験は、もはや出来なくなりました。

 

世の中的にも「強い個人」が推奨され、どこででも生きていける力を身につける=転職を前提としたキャリアというのも一般的になりつつあります。
しかし、組織が安定的に継続し、魅力的であり続けるためには、当然ながら「その組織の発展を支え土台を維持していく人」の存在が不可欠です。
そういった人たちがいなければ「強い個人」が活躍できる場自体が消え去ってしまいます。
(もちろん、支えてくれる人を集めることも強さの1つだと思いますが。)

 

自分の父親がその覚悟を持って勤めていたかは気恥ずかしくて聞けませんが、少なくとも「家族を食べさせていかなければ」という責任感は持っていたはずです。
それを「親なら普通」と言ってしまうのは、あまりにも乱暴だと思います。
少なくとも自分は、自然に暮らしていてもその覚悟や責任感を持てないだろうと思うのです。

 

「変化が激しい時代だ。だからこそ自分のキャリアに柔軟性を持たせてどんな局面でも生き残れるようにすべきだ。」

 

そういった論は正しいと思う一方で、物事の一面しか切り取っていないとも感じます。
なぜなら、どんな局面でも生き残るための方法には「自分が生き残れる局面を作り出すこと」も含まれるからです。
それは、柔軟性とは対極にある力が必要だと思うのです。

 

岩佐さんの書かれている通り「自分以外の何かを背負って生きる尊さ」を忘れないこと。
個人として自分を扱いながら、同時に周囲の環境を含めて「自分」として生きることの深まりを大切にすること。
父親の42年間を思いながら、そんなことを考えました。