canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

「正直者はバカを見る」という言葉は、強いけれども嫌いです。

突然ですが、私は小さい頃から「正直者はバカを見る」という言葉が嫌いです。
嘘をつくと疑心暗鬼が生まれてコミュニケーションコストが上がりますし、誰かに騙されれば次は誰かを騙そうと思って騙しの連鎖が生まれるし、悪いことをしている人が得をする世界は間違っている!と心から思います。

 

ただ、これは初日に書いた「ルール違反をした方が強い」と同じ話です。
誰もが正直な世界なら、嘘をついた人が1番得をします。
そもそも情報格差があるところには富の源泉がありますから、相手に与える最適な情報量は「自分が望むことをやってくれる最低限の量」となってしまいます。

 

もちろん今は話が違う場面もあって、1つの目標を目指す組織の場合、できる限り全員に多くの情報を渡し、独自で考えて行動できる人が多い方が強くなる、ということもあります。
ただ、それも同じ組織=互いに目的や利益を共有している場合であって、互いの信頼感に加えてインセンティブが近いところにないと機能しないでしょう。

 

嘘をつくことも、誰かを傷つけることも、人を人と思わない扱いをすることも、それ自体の良し悪しは判断できません。*1
ただ、少なくとも自分はそういう人になりたくないし、そうではない人と関わっていきたいと思うのです。

 

そんなわけで、色々な人と会って自分の中の人物データベースを、できるだけ多様にすることを心がけています。
その意味では、一時期人事の採用の仕事ができたことは幸運でした。
転職というその人の人生の大事な局面で、真偽を織り交ぜながら話す多くの人と触れ合うことができたからです。

 

経験値的には全く少ないですが、それでも第一印象の精度を上げて、「この人は信頼できそう」とか「もうちょっと話してみよう」といった直感力を大切にすることを心がけて来ました。
だいたいにおいて、思考以前の感覚は正しいことが多いのです。

 

とはいえ「本当は相手が何でも正直に話してくれれば楽なのに」とは、今でもたまに思います。
「すぐに相手の人となりが分かればいいのになぁ」という点で、友人の言葉で本当にそうだなと思うものがありまして、勝手ながら紹介します。

 

例えば知り合った男の人が、お酒飲んだ時の悪癖は無いか、とか、人のことを見下さない人か、とか、私が本屋で長時間うろうろしても怒らない人か、とか、すぐわかればいいのにね。

 

……なんかこれだけ切り出すと物凄くセンチメンタルな言葉に見えますね。
それはそれとして、人なんて多様な面があるので、昨日は優しかった人が明日は誰かを踏みにじることもあるでしょう。
そうだとしても、せめてその人が「不条理に誰かを傷つけたりしない人か」といったことがもっと分かりやすくなれば、多くの人が過ごしやすい世の中になるのになぁと思うのです。
そんな仕組み、どうにかして作れないものかな。

 

昨日に続きふわふわしたことを書いてしまっているのですが、久々に現実から浮いたことを言葉にしてみようということで、ご容赦くださいませ。

*1:基本的には悪いと思いますが、断定することはできません。

トンデモ未来妄想記。あるいは100年後の人類について。

4日目にして、過去の話を真面目に書くことに飽きてきました。
難しい話とか真面目な話ばっかりしていると、反動でどうでもいいことを考えたくなるのです。
というわけで、何事もバランスだよなぁと思いまして、今日は未来の話を妄想で書きます。

 

どのぐらい未来の話を妄想しましょう。
ざっくりと100年くらい先が良いかもしれません。

 

この100年、色々な技術の発展があると思いますが、方向性として1つあるのは「身体の機械化」だと考えています。
これまで人類は「身体を外部化する」ことを続けてきました。
望遠鏡(視覚)や電話(声と聴覚)などはその分かりやすい例ですが、自分の身体が持つ機能を拡張したり外部に置き換えてきました。
その結果、宇宙の果てを観測したり世界中どこにいてもリアルタイムでコミュニケーションできるなど、様々なことができるようになっています。

 

この「身体を外部化する」流れはウェアラブルバイス等で引き続き進みますが、今後はそれよりも「身体自体が機械化する」流れが強くなると思います。
すでに身体の一部(腕や脚)を機械に置き換えて(あるいは機械を装着して)生活している人もいます。
イーロンマスクによれば、これから5年程度で「脳とコンピュータが直接繋がる時代が来る」と言い、そのための会社も立ち上げています。*1

 

脳とコンピュータが繋がって意味を持ち始めるのが5年後ですから、100年後には途方もないことが起きていそうです。
子どもは体外受精が基本となり、生まれた瞬間から臓器が機械で補助され、確実に健康体として生まれてくる。
この場合母親の負担もないので、出産によるキャリアへの影響も起こり得なくなる。
それどころか、卵子精子は他の細胞から作り出せるので、男同士・女同士での出産(もはや言葉も変わっているかもしれませんが)も可能になっている。

 

いや、そもそも子どもを産むか自分のクローンを作るかを選択できるようになっていて、人類は史上初めて「種の滅亡を心配しなくて良い生物」になるかもしれない。
その頃には星間移動も可能でしょうし、エネルギー効率も今の何万倍にもなっていておかしくありません。

 

身体の機械化から話が逸れました。
ここからもう少し考えたいのは、もし将来的に本当に身体が機械に置き換わるとしたら、人々の倫理観や人生観は今とまったく異なったものになるだろうということです。

 

例えば、ものすごく卑近な話をすると「足が速いからモテる」という要素がなくなります。
つまり「身体的に優れた異性に魅力を感じる」という生物としての本能が変わってしまう可能性まであります。
なぜなら、その時代に優れた身体能力を持っているのは「より対価(お金というよりは電子的な何か)を出して身体を機械に変換している人」であり、その人の生物・遺伝的な要素は一切関係なくなるからです。
そうなると、異性を選ぶ基準もかなり変わってくるかもしれません。

 

そもそも「生まれたままの姿で生きる」ということ自体が時代に沿わない可能性もあります。
一部は原理主義者的に、一切機械化せずに生きる人たちもいるでしょうが、大半の人は「昔は生まれたそのままの骨と肉とで生きてたんだって。不便だよねー。」くらい言っているかもしれません。
スマホがなかった時代って待ち合わせで出会えないことがあったらしいよ。不便だよねー。」と言うのと、同じくらいの感覚で。

 

逆に、将来の人類には「人間の肉を通じて何かに触れる感覚」が理解できなくなるかもしれません。
指で油の温度が上がる天ぷら職人、触り心地で木材の良し悪しをみる大工なんて人たちは、もう存在しないかもしれません。
それは「職人が消える」という話ではありません。
「個人による身体的な体験の差がなくなる」、つまり「個という存在を定義づけるものが1つ減る」ということを意味していると、そう思うのです。

 

思ったよりも長くなってきたので、この辺りにしておきましょう。
個人的には「未来はどうなるか」といった漠然としたテーマには、あまり興味がありません。
それはなるようになるし、そのスピードが速いか遅いかの違いだけだと思うからです。
それよりも「もし科学技術が超発達した場合、その時代の人間の常識はどうなっているか」というテーマの方が興味深いですし、そんな話ができる飲み会ならぜひ開いてみたいなぁ、と思うのでした。

42年間、1つの会社で勤め上げるということ。

この三連休は、地元の岩手県に帰っております。
実は父親が今年還暦を迎えまして、そのお祝いをしたのです。
久々に祖母や兄夫婦も揃い、普段は行かないようなお店で美味しいご飯を食べて盛り上がりました。

 

父親は高校を卒業してすぐ就職したため、今年で勤続42年となるようです。
自分仕事歴のおよそ7倍。どうにも想像ができません。
決してやりたくて入った会社ではないようですが(そもそもそのような選択の概念は、当時はなかったようです)、その間転勤や単身赴任もありながら家も建て、病気も乗り越え、偉くはなりませんでしたが息子二人を育てました。
私としては一人の人間らしく、親に対する色々な思いはあれど、それ自体が本当に凄いことだと思いますし、有難いことだと思います。

 

さて、つい先日ハーバード・ビジネス・レビューの元編集長である岩佐さんが、下記のような記事を書かれていました。

 

覚悟をもって組織に居続ける人 | 岩佐 文夫 | note

 

自分はすでに転職をしています。
今の時点で「1社に勤め上げる」という経験は、もはや出来なくなりました。

 

世の中的にも「強い個人」が推奨され、どこででも生きていける力を身につける=転職を前提としたキャリアというのも一般的になりつつあります。
しかし、組織が安定的に継続し、魅力的であり続けるためには、当然ながら「その組織の発展を支え土台を維持していく人」の存在が不可欠です。
そういった人たちがいなければ「強い個人」が活躍できる場自体が消え去ってしまいます。
(もちろん、支えてくれる人を集めることも強さの1つだと思いますが。)

 

自分の父親がその覚悟を持って勤めていたかは気恥ずかしくて聞けませんが、少なくとも「家族を食べさせていかなければ」という責任感は持っていたはずです。
それを「親なら普通」と言ってしまうのは、あまりにも乱暴だと思います。
少なくとも自分は、自然に暮らしていてもその覚悟や責任感を持てないだろうと思うのです。

 

「変化が激しい時代だ。だからこそ自分のキャリアに柔軟性を持たせてどんな局面でも生き残れるようにすべきだ。」

 

そういった論は正しいと思う一方で、物事の一面しか切り取っていないとも感じます。
なぜなら、どんな局面でも生き残るための方法には「自分が生き残れる局面を作り出すこと」も含まれるからです。
それは、柔軟性とは対極にある力が必要だと思うのです。

 

岩佐さんの書かれている通り「自分以外の何かを背負って生きる尊さ」を忘れないこと。
個人として自分を扱いながら、同時に周囲の環境を含めて「自分」として生きることの深まりを大切にすること。
父親の42年間を思いながら、そんなことを考えました。

変遷1.周囲の人を尊敬できるということ

今でもたまに言われるのですが、自分には少し生意気なところがあるようです。
確かに、高校生の頃部活の先輩に「お前、俺のこと尊敬してないだろ」と言われたことがあります。
そんなことを言われたのは初めてでしたから、「そんなことないですよ!」と言いつつも「なんで1年早く生まれただけで人を尊敬せにゃならんのだ。偉人レベルになってから出直してこい」と思うくらいには、生意気な時代もありました。

 

どうしてそんな風に思っていたかというと、「他人と自分は違う」と考えることで自分を保っていたのですね。
これは「自分を正しく持つ」という前向きな話ではなく、例えば以下のように考えていたのです。

 

・あいつは運動ができるけど、自分は勉強ができるから大丈夫
・あの人は話が面白いけど、自分はゲームが上手いからほぼ一緒
・彼は異性からモテるけど、自分は恋愛より大事なものを知っている*1

 

今から思うと恥ずかしくなりますが、要は自分に自信がないので、勝手に負けず嫌いになって他の人の良いところを認めることができなかったのです。
これは誰かの良い(得意な)部分と自分の悪い(苦手な)部分を比べるということですから、結構苦しい状態でした。

 

この状態から抜け出せたのは、仕事を始めて3年経ったくらいかと思います。割と最近ですね。
なぜかというと「ある目的に対して、それを達成する手段は何でも良い」ということに気づけたからだと言えそうです。
もう少し詳しく書きましょう。

 

新卒で入社した会社の役員から聞いた、印象に残っている言葉があります。
それは「俺はたとえヤカンでも誰にでも売れる」というもの。
営業の仕事について話していた際の言葉ですが、当時の自分は「ヤカンなんか売られても相手が困るだけだろ」と思っていました。
「そういうことを言っているわけではない」と気づいたのは、その会社を辞めてからのことです。

 

「ヤカンを売る」という目的に対して、その手段は色々な方法が考えられます。
あるいは、ヤカンを売るのはより大きな目的の一部でしかない、といったこともあるでしょう。
ヤカンの実用的な価値を伝えるだけではあまりにも芸がなく、その前後の関係性や取引の全体性、および将来性を含めたあらゆる状況を考慮して本当は必要でないヤカンが売れるなら、それはとても凄いことだと、やっと納得できるようになったのです。*2

 

そうやって周囲を見渡してみると、大きなことから小さなことまで、自分なりのやり方で成し遂げている人がいることが見えてきました。
そして、色々な理由をつけて斜に構えて、何も成し遂げていない自分が恥ずかしくなってきたのです。
そこまで来ればあとは自然の成り行きで、「自分が何も形にしていないこと」を自覚し、考えるだけではなく行動することの重要性を感じられるようになりました。
その結果、何かを形にしている人は、無条件で尊敬できるようになったのです。

 

自分の中で考えるだけではなく、実際に行動し形にし、周囲の人の目に見えるように自分の成果物を出すこと。
周囲の人を尊敬し、できない自分を受け入れ、必要以上に自分を卑下しなくなったこと。
この2つが、自分なりの「人生での相手との関わり方」が変わった瞬間の1つだったように思います。

 

★てれれれってってってー♪意識レベルが1高まった!★

 

それはそれとして。
このブログを続けるにあたり、「汝自身を知れ」という格言は至るところに影響すると思います。
この格言の持つ重さを噛み締めながら、明日からもキーボードを叩き続けていきましょう。

*1:当時考えていたことは、それはそれで面白いのでどこかでもう少し詳細に書きたいと思います。

*2:知ることと納得することは大きく違います。それについても近いうちに書きたいです。

意識低い系の生存戦略

まずは、何も言わずにこちらをご覧ください。
『スタートアップで働くミレニアル世代の思考書き下ろし 30日間 - 第3期』

 

いかがでしょうか。
意識高い感じ、しませんでしょうか。

なぜ自分がこの中にいるかは甚だ疑問です……と言いたいところなのですが、最近は自覚するようになりました。
「あ、自分も意識高い人になったな」と。
「大学生の時に揶揄していた存在に、自分もなってしまったな」と。

 

そもそも「意識高い」というのは「張り切っちゃってる痛い人」といった意味合いです。
大学生の頃、自分はできるだけ社会に出たくなく、働きたくもありませんでした。
「働くことに対して前向きである」というだけで、他人を「意識高い認定」をしていました。
今でも「5000兆円あげる」と言われれば、喜んで引きこもりになれる自信があります。
もともと、そのぐらい意識の低い人間なのです。

 

さて、本当に突然ですが、ここで人生をアナログなゲームに例えてみましょう。
今話題の将棋など、分かりやすいかもしれません。

 

ゲームをするにあたって、そのゲームを楽しみ、そしてもし勝ちたいと思うなら、絶対に知らなければいけないことが3つあります。*1

 

それは
 1.勝利条件、または敗北条件
 2.ルール、または禁止事項
 3.相手の強さ、または弱さ
の3つです。

 

将棋で言えば、相手の王(玉)を詰んだ状態にすれば勝てます。
基本的な駒の動かし方やルールが分かれば遊べますし、相手との力量差が大きければ、使う駒を減らすことで互いに楽しむこともできます。

 

さて、上記の文章は、本当に正しいでしょうか?
まず、将棋の勝利条件は「詰み」だけではありません。投了の宣言や時間切れでも勝敗が決まります。
基本的な駒の動かし方がわかっても、最低限の戦略や序盤〜終盤の流れを知らないと楽しくありません。
勝ちを重視する場合、強い人が弱く振る舞うこともあります。

 

今回は将棋を例に挙げましたが、ゲームというものは通常絶対の正解はない(あると遊びの要素がなくなり、ゲームとして機能しない)ため、自分なりに深めることができます。
私は先ほど「人生をアナログゲームに例える」と言いました。
なぜなら、人生もこの3つのことを知り自分なりに深めていかないと、楽しめないものだと考えているからです。

 

人生の勝利条件とは何か。
これには哲学や文学が役に立ちそうです。あるいは、芸術、宗教なども関連するかもしれません。
周囲の人に色々と話を聞くのもいいでしょう。

 

人生のルールとは何か。
生物学や物理学を始めとする自然科学は「地球という環境で生きる」上で重要ですし、社会学歴史学はそのまま「社会的に生きる」上で知る必要がありそうです。
あるいは、私たちは言葉を使い五感を通じてコミュニケーションをとっていますから、言語学や論理学、身体論なども参考になりそうです。
もちろん、多種多様な環境に身を浸すことも大事でしょう。

 

人生の相手とは何か。
周囲にいる親密な人から、つながりの薄い人まで様々でしょう。また、自分自身も「相手」に含まれるかもしれません。
人間一般のことを知るなら心理学が手掛かりになりそうですし、文化人類学やネットワーク理論も知っておいて損はなさそうです。
何よりも、まずは相手と一人の人間として付き合うことも重要そうです。

 

さて、人生というゲームの恐ろしいところは「勝利条件やルール、相手の強さ弱さが時と場合によってガラガラと変わる」ということです。
将棋では、二手指し(続けて2回指すこと)はルール違反ですし、2歩(成っていない歩を2枚以上同じ列に置くこと)は禁じ手です。
それをしてしまうと、ゲームとして成り立たなくなるからです。

 

ただし、人生では場合によって、このルールを破った人が勝ちます。
なぜなら、ルールを破ると強いからです。
1回に1つの手しか指せない人より、2手3手と指せる人が勝つのは、火を見るよりも明らかです。

 

そしてまた、人生においては勝利条件(言葉は不適切かもしれませんが)も変わります。
というよりも、現代においては「決まった勝利条件などない」という方が正しいかもしれません。
混迷の時代というならば、「何を目指していいか分からない」というのが、その最たる理由なのでしょう。

 

自分には「自分は生きるのが下手である」という自覚があります。
どうにかこうにか「生きるのが上手くなりたい!」と思って色々とやってきた結果、今では立派に意識が高くなりました。
人によっては、「あいつ痛いな」と思うかもしれません。
「生きるのが上手くなりたいって何だよ」みたいな。

 

それでも、今の自分には一定満足していますし、これからももっと多くのことを知りたい・実現したいと思っています。
意識が低く、生きるのが下手な自分が、何を経てそれなりに仕事や家庭で楽しく過ごせるようになったのか。
そんなことを30日間書き連ねることで、同じような気持ちになっている誰かの役に立てば、これ以上の喜びはないなぁと思います。

 

最初なのでもっとサクッと書き切ろうと思ったのですが、相変わらず長くなってしまいました。
こんな調子が続くと予想されますが、これから30日間、よろしければゆるりとおつきあいくださいませ。

*1:別に2つでも4つでもいいのですが、やっぱりこういう時は3つですよね。

その人生に意志はあるか。目的はあるか。戦略はあるか。

最近、ユニリーバ資生堂マーケティングに携わられている方が書いた『なぜ「戦略」で差がつくのか。』という本が出版された。
読んでいるととても面白い。
戦略とは「目的」に対していかに「資源」を効率的に使うかという、その手法のことだという。
戦略の良し悪しで、マーケティング施策の成果は何倍にも何十倍にも変わる。

 

ふむふむ、と読み進めているうちに、ふと考えた。
これは、人生に対しても同じなんじゃないか。
戦略のない人生よりは、戦略のある人生の方が有意義に過ごせそうだ。
今、自分の人生に、戦略は無い。
そもそも、自分の人生に明確な目的もない。
当然、人生に対してどんな資源が必要かも分からない……。

 

すぐにAmazonで「人生戦略」で検索した。
100件以上がヒットし、うさん臭そうな自己啓発本のようなものからあまり関係なさそうな三国志の本まで、色々と出てきた。
書評サイトや個人ブログを活用し、その中でも有益そうに思われた『史上最強の人生戦略マニュアル』という本を購入した。

 

タイトルのあやしさに反して、これはなかなか良い本だった。
「今すぐ自分という資源に投資せよ」というだけでなく、そのために必要な問いかけやフレームワークも整理されている。
「自分を自分の管理者と考えた場合、その人を雇い続けたいか」という問いは、様々な場面で有用だと思う。

 

これで人生について必要な戦略を一定理解した。
自分という資源を高める方法も何となく分かった。
しかし、まだ分かっていない問題がある。
果たして自分の目的とは何か?自分の意志が向いている先は、一体どこなのか?
というか、この問題、就職活動以来ずっと囚われている問いじゃないか……?
さすがに、5年以上同じ問題に関わりながら解決できないのはおかしい。
根本的に、関わり方を変えるべきではないだろうか。

 

ふと周りを見てみると、意外と多くの人が自分の現状に満足しているように見える。
少なくとも、不満足であればそれを解消しようと努力しているように見える。
(もちろん、一方では現状に押し潰されそうになっている人もいる。)

 

彼ら・彼女らと自分(や現状に押し潰されそうになっている人たち)の違いはなんだろう。
映画や演劇を見て感動したり、週末に自分のやりたいことに打ち込んだりしたことを楽しそうに話している人たち。
その人たちの話を聞きながら「最近何で心動かされたっけ?」と思う自分。
さて、自分はどうしてこんなにも生活に没頭できないのか。

 

ここでも自分は、本に頼った。
去年大いにバズったとあるブログで紹介されている『アウトサイダー』という本。
「日常生活に埋もれて窒息しそうになる時に読むと、本気で人生が変わると思う。」という言葉につられて読んでみた。

 

結果、自分は「準アウトサイダー」であることを理解した。
何事も、名前がつくと理解がしやすくなるものだ。
アウトサイダー」は群衆を見て「自分は彼らとは違う、高みを目指す存在である」ことを目指す。
それに成功することは稀で、だいたい現実に取り込まれるか、現実と折り合いがつかず発狂したり自殺もしたりする。
それでも、その人生には強い意志と崇高な目的がある。

 

ちなみに「準アウトサイダー」は半端者である。
日常に没頭する人を「人生に向き合ってない」と感じながら、一方で自分から人生を変えることはしない。
「俺が動くのは気力と体力が充実し出来る見込みができてからだ」と思っている。
うん、非常に格好悪い。
堅実的な生活者の方が、何倍も人間ができている。
と頭では分かっていても、感情や身体は彼らと一緒になることを拒む。
非常に厄介な性質だと思う。

 

この本には、アウトサイダーとして人生を充実させる答えは書いていない。
ただ、それを得るために必要なことは書いてある。
自分自身を知ること、そのために自己表現をすること、現実に生きることの3つである。
最近自分に必要だと思いながら、その難しさに途方に暮れていたことたちだ。
この本を読んだだけで人生が変わるなら、その人はよほど行動力に溢れているか、苦悩の量が足りなかったんじゃないかと思う。

 

それはさておき、問題は一周して改めて目の前に突き付けられた。
・自分自身の望みや目的は何か。
・何を意図して、誰に向かって自己表現を行うのか。
・現実的にどうやってそれらを実現するのか。
どれもこれも、目を背けたくなるような問いだ。
しかし、向き合わなければ今後の人生、ずっと同じ苦しみを味わい続けることになる。
それは分かっている。厄介なことに。

 

就職活動をしていたときに、よく思っていたことがある。
人生がRPGみたいに、ラスボスが誰で、どこにいるか分かっていたらいいのに。
あるいは、自分のレベルを上げればより強い敵が出てきて、それを繰り返していればどこかに辿りつければいいのに。
今にして思えばあまりにも幼稚な考えだけれど、今でも時々そう思ってしまう。

 

そしてまた、倒すべき敵を自分で見つけ、そのために自分を磨き、倒せたり倒せなかったりするのであれば。
いっそ「敵なんて見つけず今のまま生きていてもいいのでは」とも思ってしまう。
それを選べないのは「きっとそれはダメな選択肢だ」と分かっているからだろう。

 

生活に没頭できず、物事に酔えない人間。
そんな人はたくさんいると思うけれど、そのままではマズイと気づいた責任として、少しずつでも前進していける人にならないと。
……それにしても、意志がないときはどうしたら湧き上がってくるものなのやら。

めまぐるしく変わる市場とゆっくりと変化する社会。僕らは、その上に立って生きている。

2017年が始まりました。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
僕が住んでいる埼玉県は年明けから快晴続きで、風は少し肌寒いけれど、心地よい日々が続いています。

そんな中で、すこしみらいを考え続けるのも良いことだなぁと改めて思っています。

 

さて、年末年始にいろいろな方とお会いしたのですが、いわゆる大企業に勤めていた方が農業に転身されたり、フリーになって芸術やエンタメの分野で活躍を広げよう!とされたりする方のお話を色々と伺いました。

世の中的にも、週末起業や副業を薦める書籍や「クロスフィールズ」「二枚目の名刺」といったNPOのような、今いる場所に加えてもっと自分の活躍できる領域を広げよう!という流れが加速しています。あるいは、社内の管理職を廃止して全員が第一線のエンジニアとして顧客に対応し続けるという制度を持つ会社も生まれています。

 

こうした動きの背景には色々な理由があると思いますが、大きな流れとして市場(資本主義)と社会(公共空間)の変化の速さのズレが大きくなっていることが挙げられると考えています。
前者は1年後の業績が上がればよいですが、後者は少なくとも10年、次世代を考えれば30~40年単位で物事を考えなければいけません。

こうした中で、市場での成功(お金を稼ぐ、地位を得る)が社会での成功(安定して生活できる、周囲と良い関係を築く)と一致する時代から、労働者や資本家としての自分と生活者としての自分のバランスが取りづらい時代に変わっています。

 

この話自体はあちらこちらで言われていることですが、50年以上前にも予見していた人がいます。それはシュンペーターという人で「創造的破壊」というイノベーションの原理を提唱した人と言った方が分かりやすいかもしれません。

彼自身、組織が利益を上げ続け、右肩上がりの成長を達成するにはイノベーションが必要であることを述べています。そして、イノベーションには過去の枠組みを破壊し新しい結びつきを作る「創造的破壊」が必要で、それこそが資本主義を推進する原動力であり、それを担うのが企業家(アントレプレナー)だと言っています。

 

しかし、彼は同時に「繰り返される創造的破壊により資本主義が繁栄した結果、現状の社会制度が覆されるために、資本主義自体を崩壊に導く」と語っています。
なぜなら、資本主義は安定した経済により多くの人の生活水準を高める一方で、人間の思考を合理化し成果主義を広めてしまうのですが、それだけでは人間社会は成立しえないからです。

 

こうして資本主義の制度そのものが一般の人々や資本家の「心」に対する支配力を失ってしまい、市場という場自体が人々の関心を失っていきます。
サブプライムローン問題や東日本大震災の衝撃、ピケティが21世紀の資本を出したことやパナマ文書のリークはこれに拍車をかける大きな出来事だったと思います。)

 

実際、ベーシックインカムの議論を見ていると社会保障の文脈もありながら「なぜ稼ぎ続けなければならないのか」「モノがあふれている時代にこれ以上モノを作り出したり購入したりする必要があるのか」といった話も聞こえます。
これは資本主義の流れと逆行する思想ですが、その間にも市場は変化し続けます。その受け皿として、社会の方に関心が行くのは当然の流れと言えるでしょう。

 

ここから2つの大きな問いが生まれます。
それは「市場は人が生活する場としての魅力を取り戻せるか」と「社会の中で個々人はどんな役割を果たせるか」というものです。
その行き先の1つには、市場と生活が一体であった地域経済の復興も考えられるでしょう。実際、平川克美氏の言う小商いのように、比較的小さな生活圏で生きていくことも十分考えられます。

一方で、これまでにない市場や社会の在り方を考え、その中のどこに自分の身体を置くかを考えることも、非常に重要だと思います。世界は確実に開かれる方向に進んでおり、そこに踏み込まなければ出来ない体験や出会いもたくさんあるからです。

 

個人的には、市場の魅力も捨てたものではないと思います。自分の努力によって誰かの役に立ち経済が回っていくというのは、そこまで辿りつければ大きな意義のある経験だと思います。たくさんの人が、市場や組織を良くするために必死に頑張っている姿も知っています。
その上で、個人として生きていく上で自分の足下を見つめ「だから自分はこの場所にいる」と言えることも非常に重要だと考えています。

 

結局のところ、場の問題を考えるには自分のことではなく周囲との関係性に注目しなくてはいけません。自分が今いる場所が市場なのか社会なのか私的な空間なのか。その環境はどう動いていて今後どうなっていくのか。周囲の人とはどのような間柄にあるのか。
まだ年明けと言える今だからこそ、自分が立っているその土台にあるものを、じっくりと見つめてみる。そんな時間が必要なのではないかと思いました。