canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

「客観的な真実」の価値が低下し、外にも内にも拠り所がない世界で、僕らはどうやって生きていくのか。

イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ氏当選が示すグローバル化の限界、「保育園落ちた日本死ね」に象徴される資本主義の発展と実生活の利便性の乖離、さらにアルファ碁の劇的な勝利に感じるシンギュラリティの到来と多くの人がAIに感じる漠然とした不安などなど。
今年は本当に多くの概念の発展や衰退と、それに伴う現実社会の動きが起きた年だったと思っています。あまりにも多すぎて、10大ニュースなんかでは収まりきらないくらいでしょう。

 

そうした動きは本当に多岐に渡り混沌としていますが、もしそれらの共通項に1つだけ名前を付けるとするなら、それは「客観的な真実という概念の価値低下」だと言えます。
近代が始まり個々人が国家を形成するという大きな流れの中で、一神教の神に変わり「人類が目指すべき方向性」の役割を担ってきた様々な主義(資本主義や社会主義国家主義自由主義など)が400年近い時を経てその力を失ってきた、その結果が現在であろうと思うのです。

 

例えば、ここ数年よく言われる「大企業に入っても安心できない」という言葉は、まさにその結果を示しているでしょう。高度経済成長という環境において労働力を大量に抱え販路も拡大していく大企業に入ることは安定した人生を過ごす有効な手段として「客観的な真実」だと言えましたが、最早その考え方は随所で通用しなくなっています。

 

そもそも真実とは「嘘偽りのないこと」ですが、ある時は一切嘘のなかったことが、環境が変わることで嘘になることが良くあります。歴史上のある地点まで「人間が空を移動できない」ことは真実でしたが、今では真実ではありません。
ただ「人間が何の助けも借りず、自分の身体1つで空を飛ぶのは無理であること」は今でも真実だと言えます。
ここで重要なのは、真実には時とともに変化するものとしないものがあり、私達が通常「真実」だと思っているものは、実はこの2つがよく混ざっているということです。
(「『お金には価値がある』というのは真実ではない」ということは、最近少しずつ認知されてきた気がします。)

 

真実が時とともに変化するということは、あるものの確からしさはその外部環境に影響されるということです。そして、現在ほど未来の不確定性が高く、外部環境の変化が激しい時代はありません。つまり現代はそれだけ、真実も移り変わるということです。

 

さて、ここまで「客観的な真実」という言葉を使っていましたが、一方で「主観的な真実」という言葉を使うことも可能です。
「自分は世界一幸せだ」と思い、それを脅かす外部環境がなければそれは1つの真実です。「認知上の真実」と言ってもいいかもしれません。自分より不幸な人しか認知しなければ、その人はその人の認知する世界において、一番幸せな人になり得ます。

 

ここ数年「客観的な真実」の価値が下がってきていた結果、その反動か「主観的な真実」の価値が上がる傾向があったように感じます。
「自分が心から情熱を持てる、やりたいことをやろう(自己啓発的)」「自分の内面により深く気づき、今を大切に使用(マインドフルネス的)」という活動もあちこちで見られます。
自己啓発もマインドフルネスもとても良いものだと思いますが、文字にすると途端にうさん臭くなるのは何故でしょう……。)

 

それはともかく、「客観的な真実」から「主観的な真実」への移行自体は、自然な変化だと言えます。外部の規範に自分を近づけていくのが大人であるという生き方から、自分の出来ることを自発的に世の中で役立つ形で発揮していく生き方に変わることは、理想的には非常に良い変化にも思えます。
ただし、この変化により現代に生きる人々は下記2つの問題に直面することになります。

 ・自分が抱える真実や正しさとはいったい何か?
 ・その真実や正しさを社会のどこに位置づけるのか?

2つ目の問題は、実はそれほど難しくはありません。ただ、1つ目の問題が絶望的に難しいため、結局2つ目の問題も解けないのが現実であろうと思われます。
「自分を本当に知ることが1番難しい」というのは過去多くの人が言っていることですが、ここに来てより多くの人がこの問題に直面しなければならないことが、現代の困難だと言えるでしょう。

 

この問題については長くなるため詳細は次回書こうと思いますが、端的に言うと「真実を抱えるべき自分というものが本質的に存在しない」ために、そもそもこの問いに完全に答えることはできないことが大きな問題だと考えています。
真に立てるべきは「自分も存在せず外部環境も不確実な中で何を拠り所とすべきか」という問いであり、そこには「適切な試行に裏打ちされた直観」しかないというのが現在の見立てです。
そして、その結果生じるのが「同じ価値観を持つ人が緩く集まるコミュニティ」であり、それが資本主義を土台とする社会に多数作られることが、今後30~40年個々人が生きやすい社会を作る1つの方法だろうと考えています。
(それでも、自分の価値観を明確にするという非常に難しい問いを乗り越えなければならないのですが……。)

 

これはかつて血縁で結びついた家族という小さな集団が担っていた「個々人の存在の不安感」というものを、価値観という共通項を軸に集う大きな集団で解消しようという試みに他なりません。
そのためにグローバル化や資本主義の役立つ部分を活用し、不必要な部分は捨てることが必要だろうと思っています。価値が低下したとはいえ、まだまだ社会はグローバル化や資本主義の仕組みで動き続けます。そこに対立することは人類にとっては良いかもしれませんが、現代に生きる一人ひとりの人間にとって良いかどうかはわかりません。

 

さて、次回はもう少し個人にフォーカスをあてて「なぜ自分が存在しないと言えるのか」「そうした中で『個人』としてどんな生き方が考えられるのか」について書きたいと思います。それが、今年1年考えてきたことの集大成になると思います。
去年の年末は幸福についてずっと書いていたけれど、今年は一度も使いませんでした。1年経つと、人の思想は変わるものですね。

創造性の根源が「違和感」と「我慢のできなさ」であることの残酷さと滑稽さ。

突然の結論である。
創造性の根源は「違和感」と「我慢のできなさ」である。そして、それは残酷であり滑稽である。
なぜか。

 

そもそも、今回はハーバード・ビジネス・レビュー11月号の瀧本哲史氏の「未来を希望に変えるのは誰か」から刺激を受けている。

そちらによれば、未来を希望に変える始まりは「違和感を大切にする」ことだという。
これ自体は、多くの人が納得できるものだと思う。改善とは現在を超えることであるならば、今自分が生きている世界に「なんか違うな?」「もっと良くする方法はないのかな?」という直感を得る必要がある。
(ちなみに、文中ではその例としてナイチンゲールが挙げられており、彼女が現場のデータから権力者を動かしたという話は非常に面白い。)

 

さて、文中でも一応は触れられているのだが、違和感を感じるだけでは当然「違和感で終わってしまう」ので、「その違和感を見過ごさず、育てていく」ことが必要となる。
つまり「なんか違うから、それを正しくするために何かをしなきゃいけないな?」ということを繰り返して、それを自分の中で問題視したり、周囲の人にも関心を持ってもらうことが必要となってくる。

それは言うなれば、自分の直感と今の現実のギャップに「我慢ができなくなっている」ということである。自分の直感に世界を近づけるために「行動せなばならない」と思っている状態である。

 

さて、ここで少し考えてみる。
「自分を取り巻く環境に満足せず」「それを自分の思うように変えたいと思う」人のことを、一般的な言葉ではなんと呼ぶだろう?

 

そう、「ワガママな人」である。それは決して、褒め言葉ではない。
ワガママな振る舞いは、基本的には抑制される。曰く「分別を知る」や「相手のことを考えて」という言葉によって。

 

しかし、創造性の根源は「違和感」と「我慢のできなさ」なのである。つまり、ワガママなことなのである。
そして困ったことに、特定の場面において「ワガママ」というのは褒め言葉になるのである。創造性を発揮し未来を切り拓く、という場面において。

 

さて、ここにおいて何が起こるかというと「一生懸命周囲に自分を合わせ、自分を律して『良い子』として生きてきた人の価値が不足する」ということである。
こういう人は、学校という環境の中で早めに「こうすれば楽に生きていける」と分かってしまった人たちの中に、一定数いる。

仕事の場面において「『良い子』は言ったことはやるがそれ以上のことはできない」といった話を聞くことがある。
それは当然のことで、20年近く「周囲に合わせて我慢して生きればいいんだ」ということを学習した人が、いきなり「違和感を持って我慢せずに自由に動いてみなよ」と言われても、「え、今更それ言っちゃうんですか?」という話である。
彼らにとって、やっと見つけた処方箋こそが「違和感を覚えず、我慢をして生きる」ことだったのだから。

 

右肩上がりの資本主義と、それを前提とした終身雇用という制度の終わりが見えるにあたって、自分の人生を自分で切り拓く必要性は強調してもしきれない。
しかし、それが必要な人たちは、学校教育において「環境を受け入れ」「周囲に合わせる」という経験を通じて、その根源的な力を奪われている。

結果、社会は人材不足を嘆き、個々人は生きるために仕事をすることを嘆く。
(こういった人たちが、実際にどの程度いるかは分からない。自分の周囲(20代前半~後半の、比較的学歴が高い人たち)には多い気がするが、その下の世代はもうこの問題を抱えていないこともありうる。)

 

これは横道にそれる話だが、よく今頑張っている人の紹介をする際に「○○という辛い経験や挫折を味わったのに、ここまで頑張っている」という説明を聞くことがある。

それは「それほど辛い経験をしたなら沈んで動けなくなってしまうところ、逆境をバネにして動いていて偉い」ということなのだろうが、むしろそれは逆で、そんな辛い経験をしたからこそ今の自分の置かれている環境に満足できず、我慢ができないから頑張れるのだと言うべきだろう。

しかし、こうした発想は「不幸な出来事があった方が人生にとってプラスではないか」という「不幸への憧れ」を生み出してしまう。

「いっそ戦争でも起きてくれれば自分も本気出すのに」というのは、真実ではないがまったく中身のない言葉というわけではない。ただ、こうした感覚が広まることを良しとするわけにはいかない。

 

本筋に戻る。
結局、未来を切り拓くのはワガママな人である。しかし、集団生活において鬱陶しがられ抑圧されるのもまた、ワガママな人である。

 

「反骨心がある人がよい」「はみ出しものに寛容であれ」「生意気ぐらいがちょうどいい」

すべて人事の業務中に聞いた言葉である。しかし、学校教育も会社組織も、基本的にはこのようには動いていない。規則に従わない人は、その集団内で過ごすことすら困難になる。

 

残酷さと滑稽さが現れるのはここである。
ある程度未来を考えている人は、違和感を感じ我慢をしない人を求めている。

その一方で、多くの人は規則に従う従順な人をも求めている。
だから、求められる側の人たちも「規則に従う従順な人」を演じてしまう。
そうすれば、今の世界で安心して生きていけると信じて。

 

しかし、それももはや限界のように思う。
従順な人を演じているなかで、安心して生きている人を見たことがない。
たいていの人が「こんなはずじゃなかった」と思っている。
未来を切り拓きたい人たちにとっても、損失と言ってしまえば言葉にできないぐらいものすごい大きな損失だろう。

 

この問題に対しては、職場環境でいえば「当事者が自分で認識のスイッチを切り替える」「上の人が熱を与え続けスイッチを切り替える」という解決策しか思い浮かばない。
結局、誰かの違和感が他の誰かに燃え移り、「そいつぁ我慢できねぇぜ」と立ち上がる「準ワガママな人」が増えるしかない。

誰もが自分のことを第一にし、自分の価値観に従って好きなことをやる「価値観型社会」が理想だと考える理由もここにある。自分勝手な人だけが、周囲の近い価値観を持った人に火をつけて、自分たちにとっての良い社会を作り出せる。

誰かにとっての良い社会は他の誰かにとっての悪い社会かもしれないが、テクノロジーがこのまま進歩し世界レベルで近い価値観の人が連携できるようになれば、それを是正したいと思う自分勝手な人も出てくるだろう。

すべてが是正されることはないかもしれないが、多数の人が自分を偽って既存の規則に縛られた結果の未来よりは、自分の価値観を表明してその実現のために進んでいき、衝突を繰り返していく未来の方が、その時に生きる人類にとって有益なはずだ。

 

ここまで書くことで「日々生きることは、良く生きるための制約条件でしかない」という言葉に行き着いた。
元々「なぜ人はただ生きるだけでは満足できないのか」というテーマでブログを書こうとしていたのだが、期せずして自分の中の問題意識がつながったことになる。

國分氏の「暇と退屈の倫理学」のなかである程度すでに語り尽くされていると思うのだが、近いうちに今一度「ただ生きるだけでは足りない」という問題に関して、自分なりに考えてみたい。

【シン・ゴジラ観覧記】ゴジラを乗り越える力を持った人類に、核兵器のない世界を作る力はあるか

話題のシン・ゴジラを観てきました。思っていたよりは自分の中で盛り上がり切れなかったのですが、面白い発想を与えてくれた映画でした。

例えば観ている間、「優れた個体の進化でさえ、人類というものは努力と知恵とコミュニケーションで乗り越えてしまうものだなぁ」などと思っていました。

作中でも、ゴジラが進化するより、科学的に原因を解明して対策を打ち立てて想定しうるケースを考え尽くす人間の方が、速いスピードで進化していますよね。未確認生命体を名前をつけて物理法則に従わせて、あまつさえ「生きているなら殺せる」とかみんな平気で言っていますし。

人類ってあれですかね。極悪非道の権化か何かなんですかね。
途中から主人公たちの目的、「ゴジラを倒すこと」じゃなくて「東京に核兵器を落とさせないこと」ですしね。むしろゴジラを外交の材料にして、ちゃっかり国際社会と関係づくりしてますし。
宇宙人とか発見しても外交してそうだな、人類。

冗談はさておいて。自分として「面白かった発想」を、忘れないうちに簡単に残しておこうと思います。ここから少しだけ真面目な話。

1.善く敗るる者は亡びずという言葉。
2.核兵器か凍結か。すなわち覇道か王道か。
3.ゴジラを乗り越える力を持った人類に、核兵器のない世界を作る力はあるか。

以下、1つずつ簡単に書いていきます。

1.善く敗るる者は亡びずという言葉。
今回のゴジラを観終わって、まずたどり着いた言葉はこれでした。
漢書」の「刑法志」に出てくる言葉ですが、知っている人は恐らく、北村薫さんの『鷺と雪』という小説で読んでいるはず。
この言葉は、下記の言葉に続きます。

「善く師する者は陳せず」「善く陳する者は戦わず」「善く戦う者は敗れず」

解説としては「うまく軍を動かす者なら、布陣せずにことを解決する。しかし、その才がなく敵と対峙することになっても、うまく陣を敷ければ、それだけでことを解決できる。さらに、その才がなく実践となっても、うまく戦えば負けない」ということ。

それでは、うまく負ける者は?ということで、最初の「善く敗るる者は亡びず」という言葉につながります。うまく負ければ、亡びないんです。
うまく負ければ根絶やしにされない。生き続けていける。

ゴジラと3回戦ったうち、人間は2回とも、とてもうまく負けていました。
ゴジラの生物学的な情報にも気づいたし、対策本部も立てたし、意思決定の出来ない首脳陣はいなくなったし、何より日本全国の人がゴジラを倒すという目的に賛同できる空気ができた。
これでゴジラの生物としての構造に何も気づけなかったり、首脳陣が居座ってあのまま対応の遅れが続いていたら、きっと3回目も勝てなかったでしょう。

そしてもし4回も5回も負けていたら、おそらくうまくない負け方をしていたでしょう。責任問題で人間同士争い合ったり、ゴジラを神格化して喜ぶ集団も出てくるかもしれない。
心を鼓舞し、全員で協力できるように負けたこと。絶望せず、希望につながる敗北であったこと。
これ以上に勝ちにつながる出来事はなく、だから東京は亡びなかった。たとえ、亡びる原因がゴジラではなく、人の手でつくられた核兵器だとしても。
そんな風に感じました。

2.核兵器か凍結か。すなわち覇道か王道か。
ゴジラ以外の登場人物の名前をほとんど覚えていないんですが、泉さんだけは覚えました。なぜなら、彼の言った「自国の利益のために他国を利用するのは覇道です。我々は王道の国です」といった趣旨の言葉が、非常に心に残ったからです。

核兵器で問答無用に焼き尽くすというのは、非常に分かりやすい話です。登場人物が言っていたように「全世界からの同情を得て、復興への協力ももらい、1から東京を作る」ための財源も人員も確保できるはずです。
つまり、焼け野原の先には経済成長と復興があり、逆に言うとそれだけしかありません。第二の高度経済成長期を謳歌できる可能性もありますが、果たしてそれを望んでいる日本人が、いったいどれだけいるものか。

一方で、主人公たちが選んだのは「凍結したゴジラとの共存」でした。
これ、よくよく考えると非常に恐ろしい話だと思いませんか。自分たちを殺した、脅威でしかない存在が傍らにありながら、それと一緒に生きていこうって言っているんですから。
無差別殺人犯と、隣人同士で生きていけますか。

でも、日本人や災害の多い地域の人たちは、ずっとそのように生きているんですよね。ずっと昔からそうでした。東日本大震災の後だってそうです。あれだけの辛い現実があって、それでも海や地域と一緒に生きている人は、本当に凄いと思います。

覇道には矛盾がありません。強い者が勝ち、弱い者が負ける。非常にシンプルな世界観です。
一方王道は、大きな矛盾を抱えています。強い者も弱い者も、力を合わせなければ生きていけない。1番偉い人が1番卑しい人民のことを考えなければ、国は成り立たない。

けれどもそもそも人間は、矛盾を抱えた生き物だと言います。それは個人と社会性の隔たりであったり快と不快の狭間であったり色々な言い方が出来るでしょうが、いずれにしても王道は、矛盾を抱えた人間が矛盾を抱えた国を作って、それでも何とかやっていく世界です。

シンプルな世界の方が誰も彼もが生きやすい。そんな幻想も、少しずつ壊れ始めています。
自由な個人が理性の力で市民社会を形成する。そんな思想も、だんだん辛くなってきています。
そうした中で、凍結したゴジラと共存する。そんな社会はすでに存在しているかもしれません。

3.ゴジラを乗り越える力を持った人類に、核兵器のない世界を作る力はあるか。
上の方にも書きましたが、主人公たちが怯えたのはゴジラではなく、ゴジラを倒すために関東を犠牲にして落とされる核兵器でした。核兵器がなければ、もっと悠長に構えてゴジラと戦っていたと思います。

凍結さえさせれば、ゴジラとは共存できる。では、核兵器とは共存できるか。
抑止力として持ち合っている現在は、何とかぎりぎり、共存できているんでしょう。
ですが、有事の際にはそれが使えるという現状は、所有者と非所有者の共存ではなく、隷属だと言えるでしょう。まさに覇道的な、強弱の世界の話です。

これは全く論理的ではないのですが、今時点では、「人類には核兵器のない世界を作る力は無い」と思います。そうするメリットも今のところないし、核兵器を無くしたところで戦争はなくなりません。

核兵器さえあれば、現実にゴジラが現れても(同じスペックであれば)安心です。
最悪、その地に数十年人が住めなくなるだけで、人類が亡びることはありません。90%以上の人類にとっては、遠い地での悲しいけれど仕方ない出来事にしかならないでしょう。

ですが、それは「うまく戦う」ことなのでしょうか。「負けないこと」と「うまく戦うこと」は、果たしてどのぐらい違うことなのでしょうか。その勝利の果てに残るものは、いったい何なのでしょうか。

歴史上、勝ち続けた国や組織、個人というものはありません。
栄枯盛衰、勝ち続ければ驕りも生じ、一族郎党亡ぼされることも特殊な例ではありません。戦いに勝てば勝つほど、負けた時の反動は大きいものとなります。
だからと言って、下手に負けてしまえば、それはそれで一度で社会や人生から退場することもあるでしょう。勝つのも負けるのも、非常に難しいことです。だからこそ、戦わずして目的を達成することが一番の上策であり、それこそが戦略です。

話が脱線しました。
いずれにしても、ゴジラ核兵器ほど破滅的ではなく、人類の対策速度以上に進化が速いわけでも狡猾な策を練ってくるわけでもありませんでした。結果的には凍結され、一旦は無力化されてしまいました。
ここから王道が始まるのか、覇道がこれからも続くのか。
そんな風に色々なテーマを読み取れる「シン・ゴジラ」という映画は、やっぱり良い作品だったのかもしれません。


あ、ちなみに、観てて1番燃えたのはJR各車両が突っ込んでいくとこでした。あのシーンのジオラマフィギュアとか出たら、ちょっと欲しい。

オリンピックが終わった後、僕らの中には「感動した」以外の何かが残るべきか?

リオオリンピック、すごいですね。

今日は朝から吉田選手の話題が溢れていたし、水谷選手や福原選手も物凄く話題になったし、女子バドミントンも金メダルを獲得したし。
もともとスポーツにそれほど強く興味があるわけではないのですが(スポ根は大好きですが)、自分自身、吉田選手の記事や福原選手のインタビュー映像を見てるだけでも少し泣きそうになりました。

でもですね、たぶん皆思ってると思うんですけど、ニュースが多すぎて速すぎて、感動の消費があまりにも急激に行われている気がしませんか。
柔道男子の全種目メダル獲得、内村選手の金メダル、錦織選手の96年ぶりのメダルなどなど喜ばしいニュースがたくさんある分、1つ1つの感動があまりにも、簡単に拡張されて消費されすぎてやいないですか。
そんなことをつらつらと考えていたのが、今日の吉田選手の銀メダルに対する反応を見て、決定的になりました。

いったいどれだけの人が、今日の試合のことや確かに感じた感動を、来週まで覚えていられるんだろうかと。
もっと言うと、日々のtwitterfacebookの投稿のネタ以上のものに、オリンピックはなっているのだろうかと。

もちろん、所詮はスポーツであって、パンとサーカスの「サーカス」に過ぎないとも言えると思います。テレビで観戦していれば、娯楽番組と何ら変わらない見方もできます。
それでも、周囲の人が本気で感動していたり、実際に泣いてしまっていたり、会ったこともない人の言動や戦う姿に心を動かされている現実を目の当たりにして、これすらも日々生み出されては消費されていく娯楽の1つになってしまうのではないかという予感が、堪らなく悲しく思えるのです。

問題は(twitterfacebookという)表現される場所にあるのかもしれません。日々新しい情報が更新されるのであれば、少しでも最新の情報に乗っかるのは当然です。
その一方で、半年ぐらい先に「何か知らないけどふとした瞬間にあの時のオリンピックの試合を思い出して泣きそうになった」という人がいても、僕は全然良いと思うのです。

オリンピックに出るような人たちは、恵まれた才能とそれを活かす努力や周囲の支えがあって、文字通り人生を賭けて身一つで戦っている人たちです。
そのような人たちの真摯な姿や競争-何十年も賭けたものを一瞬で出し尽くすその凝縮された時間-でさえ1日で消費し尽くしてしまうなら、僕らはいったい、何に心を預けて生きていけばいいのでしょうか?
日々更新される、面白くもないがつまらなくもない情報を食べつくして、貪りながら生きていくしかないのでしょうか?

オリンピックが終わった後、僕らの中には「感動した」以外の何かが残るべきか?
この問いに、明確な答えはありません。別に何も残らなくても、そもそも感動なんてしてなくても良いと思います。
ただ、人が本当の意味で感動しその喜びを分かち合えなくなってしまうとするならば(感動が意味的に消費される娯楽にすぎなくなってしまうのならば)、それは本当に悲しいことだと思うのです。

何かを表現するということが、自己顕示欲以外の気持ちから出ているということに、信頼がある世の中でありますよう。

ブラックボックス可視化ツールとしてのタロットカード

最近「手品を見たときに『タネは何だ!?俺は騙されないぞ!』とか考えずに『びっくりしたなー。凄いこと出来る人がいるんだなー』っていう風に思えるようになった人」の気持ちで生きられるようになってきました。
だいぶ丸くなってきて、地に足ついてる感じですね。良いんだか悪いんだか。

さて、そんな感じで、今回は書き散らかすようなブログを。

趣味と言えば読書と音楽鑑賞と献血くらいしかなかったんですけど、最近「タロットカード」というのが増えました。
いっつも悩んだ風のことばっか書いてるので「あー、ついに精神世界にハマっちゃったか。どんまい」と思われても何ともいえないんですけど、これが「ブラックボックスの可視化」という面でむちゃくちゃ実用的なんですよね。何を言っているかは、おいおい書いて参ります。

そもそも、最近も色々なこと(※)を考えていた結果、結局のところ人間にできるのは「ある刺激に対して、築き上げてきた価値観によって反応すること」でしかないということが分かってきたんですね。

※「人生に意味は無い(作り出すことはできる)が、生活には意味がある」とか「一切皆苦であるがゆえに苦しみを減らすのが仏教だが、実生活においては苦しみを避けることはできない」とか「生きることにおける矛盾は絶対に解消できない」とか「リアルさとは期待を裏切られることであり、全てが思い通りに行くなら生の実感はない」とか「ベーシックインカムによって人間の尊厳は崩壊するかもしれない」とかとか。

ただ、この「反応すること」というのが曲者で、反応しない=現状維持という反応が、人間めちゃくちゃ多いんですね。
(そんなことないよ!ちゃんと反応してるよ!という皆様、本当に色々な刺激に反応してますか?決まりきったパターンで対応しているだけになっていませんか?)
現状維持自体が悪いわけではありませんが、そればかりでは生活の張りも少なくなってしまいます。

そんなわけで、現状維持でないなら変化をさせるわけですが、ここに「どう行動するか?」という決断が生じるんですね。さぁ現状を変えよう。でも、どこを目指して?と。

ここで必要になってくるのが、自分の価値観ですね。どれだけロジックを組み立てても、それは過去の情報の寄せ集めであり、自分の決断の直接的な原因にはなりません。100%安全だからやるという人もいれば、それでは意外性が無くつまらないからやらない、という人もいます。個人の価値観というフィルターを通じて初めて、その人の行動は現実に現れてくるのです。
(もちろん、組織や社会の常識というフィルターも存在しますが、そのフィルターを個人が持っているかは別問題です。)

しかし当然、そのフィルターはよほど注意していない限り自然と通り抜けてしまいますし、余計な情報(論理や常識)が混ざりやすいため、自分の価値観がどのようなものかを知るのはとても難しいことです。

さて、ここでようやくタロットの話につながります。先ほど「人間は刺激に対して価値観に応じて反応する」と言いました。逆に言うと「ある刺激を与えて反応を見れば、その人の価値観を推測することができる」ということです。お金を貸して期限までに返ってこなければ、少なくとも約束に対する感度が低そうだということが分かります。
タロットカードのことをあまりご存知ない方でも、何となく沢山のカードがあって、1枚1枚に意味があるんだろうな~くらいのことはお分かりかと思います。要は刺激の束でして、どんなカードが出てくるかはまったくの偶然、そこに意味はありません。

しかし人間とは不思議なもので、意味がないと分かっていても、そこに勝手に意味を見出してしまいます。例えば、素敵な異性に出会いたいという想いを抱えている人が「恋人」のカードを引けばやったーと思いますし、「死神」のカードが出れば不吉・・・と思うかもしれません。どちらもたまたまであり、そこに意味はないのですが。

しかし、これこそが「ブラックボックスの可視化」につながります。ある刺激(出てきたカード)に対して何か反応する(感情が動く、嬉しい/嫌な結果だと思う)ということ自体が1つの結果であり、その間には必ずある価値観があります。そこに目を向ければ、本当はそのテーマに対して自分がどういうスタンスで向き合っているのかが分かるようになります。
上記の例で言えば、「死神」のカードが出たときに「絶対いや!」と思えば恋愛の優先度が非常に高いということですし、「まぁそんなもんか・・・」と思えば実は異性探しよりも大事なものがあるかもしれません。そんな風に反応をつぶさに観察することで、その人の内側に目を向けることができるのです。

なので、自分はタロットを明確に「占い」には使っていません。予言の自己成就という現象は理解しますが、未来を見通すというのは基本的に信じていません。

あくまでもタロットは「刺激の束」であり、その刺激―反応の間にある価値観をどこまで浮き彫りにできるか?が、自分にとってとても楽しい使い方だと思っています。言うなれば、ものすごくラフに認知療法をしてるみたいなものかもしれません。

ある物事に対して、自分がどんなスタンスで臨んでいるか?どんな先入観を持っているか?ということは、普通なかなか認識できません。それをかなりお手軽に、かつ趣味の範囲内で扱えるというのは、決断に伴うストレスを軽減するという意味で、非常に有益なことだなと感じるのでした。

まぁ、そのためには「タロットってなんか凄い胡散臭いし一切信用できない」という価値観を捨てないといけないのですが・・・その分の価値はあると思うんですよね。
もし面白そうという方がいれば、練習にお付き合いいただければと思いますので、ぜひお声掛けくださいまし。

「生きること自体がつらい」と言ったら驚かれたので。

どうやら、「生きるのがつらい」と思うことはあっても「人生すなわちつらい」と日頃から思っている人はそんなに多くないらしい。
それなら、なんで「人生すなわちつらい」になるのかを文章にしてみるのもまた一興と思った次第。世の中にはたくさんの人が、たくさんのことを考えて過ごしているからね。
その中の1つと思っていただければ。

 

▼人生すなわちつらい、の流れ

・基本的に人は、生まれたくて生まれてきたわけではない

・だからといって、死のうと思ってもなかなか死ねない

・生とは自分でどうにもできない(終わらせることしかできない)という点で本質的に理不尽である。

・理不尽を受け入れるのも1つ。だが、80年理不尽に耐え続けて生きるべきか。せめて、楽しさや幸福といったプラスの気持ちを持ちたいと願う。

・気晴らし的な楽しさや幸福はすぐに飽きる。本当に楽しさや幸福を得ようとするなら、何がしかの努力をしなければならない。

・努力とは常に今の自分を超えることである。それには変化に伴う苦痛が生じる。(たとえ後から振り返ったときに美談になるとしても)

・楽しさや幸福を得るためには苦痛を積極的に作り出す必要があるということになる。

・人生とは理不尽に耐え続けるか、さもなくば苦痛を積極的に作り出すことである。


多分、上記を変えるポイントは3点あって、

・自分の生は自分で変えられる、決して理不尽なものではないと信じる

・気晴らし的な楽しさや幸福をうまく使って、プラスの気持ちを増やす

・努力を苦痛と思わない仕組みをつくる

ぐらいができれば、今すぐにでも断ち切れるお話。
ただ、これを断ち切るには、現実的に何らかの習慣を作らないといけない。そしてその習慣は、自分ひとりで作るのはなかなか難しい。必ず、誰かからの影響が必要になる。
つまり、外部の影響によって自分が変わるという経験が必要になる。

賢者は歴史に学ぶという言葉があるが、今はあんまり信じていない。たぶん、その賢者も止むにやまれぬ思いがあって、救いを歴史に求めたんだろう。その思いは、必ず経験として立ち現れているに違いない。

経験値とはよくいったもので、経験から自分のパフォーマンスを向上させることの重要性はいかばかりか。それが身につくのは、いったいどのぐらいの年齢までなのか。

そんなことを考える月曜日の夜。大丈夫か、自分。

【ズートピア観覧記】"Try Everything"という言葉から省略されたもの。

 ズートピア、面白い映画でしたね。
進行上納得いかなかった点や心に落ちてこない部分はありましたが、それでもまぁ、面白い映画だったと思います。

ただ、良い映画だったか?と言われると、前評判ほどではなかったな~という感触でした。期待値上がりすぎちゃったかな。

 

批判したいわけではないのでその辺りは省略しますが、1つだけ書き留めたいなぁと思ったのが、タイトルの「"Try Everything"という言葉から省略されたもの」という内容でした。
主題歌"Try Everything"という、ジュディの心を歌ったかのような、明るくて元気な歌。
日本語だと「やるのよ 何度も」と訳されていて、挫けそうな人に力を与えてくれそうな曲でした。

 

でも、映画を見て、この曲を聴いていると、すごく重要な内容が省略されているように思うのですね。
それは、Try Everything "if you want anything you want to do"ということ。
つまり「やってみたら。『やりたいことがあるのなら』」ということ。

 

ここから思考の垂れ流し。
ジュディは「世の中をよくするため」に警察官になりたかったし、ニックもやりたいことがあった。

そのために苦労したり傷ついたり苦労したこともあったけれど、少なくともやりたいことがあって、そのために頑張っていた。
おそらく、他の「ズートピア」に来ている人もそう。自分たちの出身地ではできないことがあって、決められた生き方に飽きて、何でもできるズートピアにやってきた。そこではもちろん、普通の「現実」が待っているのだけれど。

 

ズートピア」自体は、非常に整って綺麗な世界ではあるが、その語感から想像される「理想郷」とはほど遠い。そこを理想郷として語るのは、あくまで憧れている地方の人でしかない。
現実が理想郷になるのは、ジュディがやりたいことのために、自分の力をフルに出し切って、誰かに屈することなく、強く生きていくからだ。
あと、(これが何より重要なのだが、)無茶苦茶運がいいってのもある。自信を無くした時に事件が起きるのは、主人公の特権だ。モブキャラには、そこまでのボーナスステージはなかなか起こらない。(ニックと一緒に詐欺やってたキャラとか。)

 

では、そこまで強く自分の「やりたいこと」を持つ理由はなんだろう?
普通の両親、多くの兄弟と一緒に生きる中で、自分の目指すものを心折れずに貫き通せたその芯はどこで育まれたのだろう?
もちろん、それは映画の中では触れられていない。たぶん、ジュディがそういう子だったから、が1番分かりやすいだろう。そこが少し残念ではあった。

 

話は飛ぶ。
いったい、普通に生きていて、ここまで「やりたいこと」を貫き通せる芯を持つことができるだろうか?
「未来化する社会」という、今後起こりうるパラダイムシフトについてヒラリー・クリントンの元参謀という人が書いた本がある。様々な未来を記述したうえで、1番大事な仕事は「親であること」と言い、あとがきで世界中のVIPたちが、自分の子どもたちに何を与えているかを書いている。

 

曰く「アフリカの貧困地域に行って、世界の問題をその目で見て実感すること」。それこそが、世界中のVIPが自分の子どもたちに与えると、1番良い影響が出ると思っていることだ。
なぜなら、現実を自分の中に取り込まないと、やりたいと思ってもすぐに心が折れて、決意なんてものはすぐに捨てられてしまうからだ。

 

今の時代の先進国であれば、過去のどんな時期と比べても、やろうと思えばやれる時代であることは間違いない。身分で住処を決められることもないし、親の仕事を継ぐ義務があるわけでもない。だから、やりたいことが出来る時代であることは間違いない。
でもそれは、自分の中にやりたいことがあって、それを大事に育み続けて、他人との相互作用の中で「それは大事なもので手放しちゃいけないものだ」と思えたことだけでしかない。
「現実を見なさい」「そんなものは捨てなさい」と言われたら、通常であればすぐに消えてしまっているはずのもの。だから、それを捨てなかったジュディは凄い。

 

・・・結局のところ、自分のやりたいことが貫けなかった人間の、たいしたことのない後悔録になってしまった。たぶん自分は、過去に自分を貫かなかったことを悔やんでいるし、今後もそういう生き方をしそうなことに恐怖を抱いている。
今の世の中、自分を知って自分を大事にして自分を貫くこと以上に、社会的にも経済的にも成功する道は無いというのに。

 

おそらく、ズートピアにそこまで感情移入できなかったのは、ニックが思ったよりも良いやつすぎたからかな。12年間詐欺師として生きているのに、きらきらした心は忘れていなかった。あるいは、ジュディの純真さに惹かれすぎたのか。いずれにしても羨ましい。

 

「やりたいこと探しに逃げるな」という言葉もあるけれど、やはりそれは諦めてしまった人たちの言葉で、ジュディの両親と同じだ。そこに与することはできない。
なぜなら、人が死の間際に1番後悔するのは「もっと自分の思う通りに、誰かの意見に左右されずに生きればよかった」ということだからだ。
これが本心なのか、世の中的にそういうことになっているかは分からない。ただ、誰もが後悔することが分かっていることを、自分も後悔する必要はない。

 

やりたいこと、諦め、後悔、羨望。不思議なキーワードが出てきた。
もう少し、自分自身に素直になれればという思いも込めて。