canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

「客観的な真実」の価値が低下し、外にも内にも拠り所がない世界で、僕らはどうやって生きていくのか。

イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ氏当選が示すグローバル化の限界、「保育園落ちた日本死ね」に象徴される資本主義の発展と実生活の利便性の乖離、さらにアルファ碁の劇的な勝利に感じるシンギュラリティの到来と多くの人がAIに感じる漠然とした不安などなど。
今年は本当に多くの概念の発展や衰退と、それに伴う現実社会の動きが起きた年だったと思っています。あまりにも多すぎて、10大ニュースなんかでは収まりきらないくらいでしょう。

 

そうした動きは本当に多岐に渡り混沌としていますが、もしそれらの共通項に1つだけ名前を付けるとするなら、それは「客観的な真実という概念の価値低下」だと言えます。
近代が始まり個々人が国家を形成するという大きな流れの中で、一神教の神に変わり「人類が目指すべき方向性」の役割を担ってきた様々な主義(資本主義や社会主義国家主義自由主義など)が400年近い時を経てその力を失ってきた、その結果が現在であろうと思うのです。

 

例えば、ここ数年よく言われる「大企業に入っても安心できない」という言葉は、まさにその結果を示しているでしょう。高度経済成長という環境において労働力を大量に抱え販路も拡大していく大企業に入ることは安定した人生を過ごす有効な手段として「客観的な真実」だと言えましたが、最早その考え方は随所で通用しなくなっています。

 

そもそも真実とは「嘘偽りのないこと」ですが、ある時は一切嘘のなかったことが、環境が変わることで嘘になることが良くあります。歴史上のある地点まで「人間が空を移動できない」ことは真実でしたが、今では真実ではありません。
ただ「人間が何の助けも借りず、自分の身体1つで空を飛ぶのは無理であること」は今でも真実だと言えます。
ここで重要なのは、真実には時とともに変化するものとしないものがあり、私達が通常「真実」だと思っているものは、実はこの2つがよく混ざっているということです。
(「『お金には価値がある』というのは真実ではない」ということは、最近少しずつ認知されてきた気がします。)

 

真実が時とともに変化するということは、あるものの確からしさはその外部環境に影響されるということです。そして、現在ほど未来の不確定性が高く、外部環境の変化が激しい時代はありません。つまり現代はそれだけ、真実も移り変わるということです。

 

さて、ここまで「客観的な真実」という言葉を使っていましたが、一方で「主観的な真実」という言葉を使うことも可能です。
「自分は世界一幸せだ」と思い、それを脅かす外部環境がなければそれは1つの真実です。「認知上の真実」と言ってもいいかもしれません。自分より不幸な人しか認知しなければ、その人はその人の認知する世界において、一番幸せな人になり得ます。

 

ここ数年「客観的な真実」の価値が下がってきていた結果、その反動か「主観的な真実」の価値が上がる傾向があったように感じます。
「自分が心から情熱を持てる、やりたいことをやろう(自己啓発的)」「自分の内面により深く気づき、今を大切に使用(マインドフルネス的)」という活動もあちこちで見られます。
自己啓発もマインドフルネスもとても良いものだと思いますが、文字にすると途端にうさん臭くなるのは何故でしょう……。)

 

それはともかく、「客観的な真実」から「主観的な真実」への移行自体は、自然な変化だと言えます。外部の規範に自分を近づけていくのが大人であるという生き方から、自分の出来ることを自発的に世の中で役立つ形で発揮していく生き方に変わることは、理想的には非常に良い変化にも思えます。
ただし、この変化により現代に生きる人々は下記2つの問題に直面することになります。

 ・自分が抱える真実や正しさとはいったい何か?
 ・その真実や正しさを社会のどこに位置づけるのか?

2つ目の問題は、実はそれほど難しくはありません。ただ、1つ目の問題が絶望的に難しいため、結局2つ目の問題も解けないのが現実であろうと思われます。
「自分を本当に知ることが1番難しい」というのは過去多くの人が言っていることですが、ここに来てより多くの人がこの問題に直面しなければならないことが、現代の困難だと言えるでしょう。

 

この問題については長くなるため詳細は次回書こうと思いますが、端的に言うと「真実を抱えるべき自分というものが本質的に存在しない」ために、そもそもこの問いに完全に答えることはできないことが大きな問題だと考えています。
真に立てるべきは「自分も存在せず外部環境も不確実な中で何を拠り所とすべきか」という問いであり、そこには「適切な試行に裏打ちされた直観」しかないというのが現在の見立てです。
そして、その結果生じるのが「同じ価値観を持つ人が緩く集まるコミュニティ」であり、それが資本主義を土台とする社会に多数作られることが、今後30~40年個々人が生きやすい社会を作る1つの方法だろうと考えています。
(それでも、自分の価値観を明確にするという非常に難しい問いを乗り越えなければならないのですが……。)

 

これはかつて血縁で結びついた家族という小さな集団が担っていた「個々人の存在の不安感」というものを、価値観という共通項を軸に集う大きな集団で解消しようという試みに他なりません。
そのためにグローバル化や資本主義の役立つ部分を活用し、不必要な部分は捨てることが必要だろうと思っています。価値が低下したとはいえ、まだまだ社会はグローバル化や資本主義の仕組みで動き続けます。そこに対立することは人類にとっては良いかもしれませんが、現代に生きる一人ひとりの人間にとって良いかどうかはわかりません。

 

さて、次回はもう少し個人にフォーカスをあてて「なぜ自分が存在しないと言えるのか」「そうした中で『個人』としてどんな生き方が考えられるのか」について書きたいと思います。それが、今年1年考えてきたことの集大成になると思います。
去年の年末は幸福についてずっと書いていたけれど、今年は一度も使いませんでした。1年経つと、人の思想は変わるものですね。