canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

42年間、1つの会社で勤め上げるということ。

この三連休は、地元の岩手県に帰っております。
実は父親が今年還暦を迎えまして、そのお祝いをしたのです。
久々に祖母や兄夫婦も揃い、普段は行かないようなお店で美味しいご飯を食べて盛り上がりました。

 

父親は高校を卒業してすぐ就職したため、今年で勤続42年となるようです。
自分仕事歴のおよそ7倍。どうにも想像ができません。
決してやりたくて入った会社ではないようですが(そもそもそのような選択の概念は、当時はなかったようです)、その間転勤や単身赴任もありながら家も建て、病気も乗り越え、偉くはなりませんでしたが息子二人を育てました。
私としては一人の人間らしく、親に対する色々な思いはあれど、それ自体が本当に凄いことだと思いますし、有難いことだと思います。

 

さて、つい先日ハーバード・ビジネス・レビューの元編集長である岩佐さんが、下記のような記事を書かれていました。

 

覚悟をもって組織に居続ける人 | 岩佐 文夫 | note

 

自分はすでに転職をしています。
今の時点で「1社に勤め上げる」という経験は、もはや出来なくなりました。

 

世の中的にも「強い個人」が推奨され、どこででも生きていける力を身につける=転職を前提としたキャリアというのも一般的になりつつあります。
しかし、組織が安定的に継続し、魅力的であり続けるためには、当然ながら「その組織の発展を支え土台を維持していく人」の存在が不可欠です。
そういった人たちがいなければ「強い個人」が活躍できる場自体が消え去ってしまいます。
(もちろん、支えてくれる人を集めることも強さの1つだと思いますが。)

 

自分の父親がその覚悟を持って勤めていたかは気恥ずかしくて聞けませんが、少なくとも「家族を食べさせていかなければ」という責任感は持っていたはずです。
それを「親なら普通」と言ってしまうのは、あまりにも乱暴だと思います。
少なくとも自分は、自然に暮らしていてもその覚悟や責任感を持てないだろうと思うのです。

 

「変化が激しい時代だ。だからこそ自分のキャリアに柔軟性を持たせてどんな局面でも生き残れるようにすべきだ。」

 

そういった論は正しいと思う一方で、物事の一面しか切り取っていないとも感じます。
なぜなら、どんな局面でも生き残るための方法には「自分が生き残れる局面を作り出すこと」も含まれるからです。
それは、柔軟性とは対極にある力が必要だと思うのです。

 

岩佐さんの書かれている通り「自分以外の何かを背負って生きる尊さ」を忘れないこと。
個人として自分を扱いながら、同時に周囲の環境を含めて「自分」として生きることの深まりを大切にすること。
父親の42年間を思いながら、そんなことを考えました。

変遷1.周囲の人を尊敬できるということ

今でもたまに言われるのですが、自分には少し生意気なところがあるようです。
確かに、高校生の頃部活の先輩に「お前、俺のこと尊敬してないだろ」と言われたことがあります。
そんなことを言われたのは初めてでしたから、「そんなことないですよ!」と言いつつも「なんで1年早く生まれただけで人を尊敬せにゃならんのだ。偉人レベルになってから出直してこい」と思うくらいには、生意気な時代もありました。

 

どうしてそんな風に思っていたかというと、「他人と自分は違う」と考えることで自分を保っていたのですね。
これは「自分を正しく持つ」という前向きな話ではなく、例えば以下のように考えていたのです。

 

・あいつは運動ができるけど、自分は勉強ができるから大丈夫
・あの人は話が面白いけど、自分はゲームが上手いからほぼ一緒
・彼は異性からモテるけど、自分は恋愛より大事なものを知っている*1

 

今から思うと恥ずかしくなりますが、要は自分に自信がないので、勝手に負けず嫌いになって他の人の良いところを認めることができなかったのです。
これは誰かの良い(得意な)部分と自分の悪い(苦手な)部分を比べるということですから、結構苦しい状態でした。

 

この状態から抜け出せたのは、仕事を始めて3年経ったくらいかと思います。割と最近ですね。
なぜかというと「ある目的に対して、それを達成する手段は何でも良い」ということに気づけたからだと言えそうです。
もう少し詳しく書きましょう。

 

新卒で入社した会社の役員から聞いた、印象に残っている言葉があります。
それは「俺はたとえヤカンでも誰にでも売れる」というもの。
営業の仕事について話していた際の言葉ですが、当時の自分は「ヤカンなんか売られても相手が困るだけだろ」と思っていました。
「そういうことを言っているわけではない」と気づいたのは、その会社を辞めてからのことです。

 

「ヤカンを売る」という目的に対して、その手段は色々な方法が考えられます。
あるいは、ヤカンを売るのはより大きな目的の一部でしかない、といったこともあるでしょう。
ヤカンの実用的な価値を伝えるだけではあまりにも芸がなく、その前後の関係性や取引の全体性、および将来性を含めたあらゆる状況を考慮して本当は必要でないヤカンが売れるなら、それはとても凄いことだと、やっと納得できるようになったのです。*2

 

そうやって周囲を見渡してみると、大きなことから小さなことまで、自分なりのやり方で成し遂げている人がいることが見えてきました。
そして、色々な理由をつけて斜に構えて、何も成し遂げていない自分が恥ずかしくなってきたのです。
そこまで来ればあとは自然の成り行きで、「自分が何も形にしていないこと」を自覚し、考えるだけではなく行動することの重要性を感じられるようになりました。
その結果、何かを形にしている人は、無条件で尊敬できるようになったのです。

 

自分の中で考えるだけではなく、実際に行動し形にし、周囲の人の目に見えるように自分の成果物を出すこと。
周囲の人を尊敬し、できない自分を受け入れ、必要以上に自分を卑下しなくなったこと。
この2つが、自分なりの「人生での相手との関わり方」が変わった瞬間の1つだったように思います。

 

★てれれれってってってー♪意識レベルが1高まった!★

 

それはそれとして。
このブログを続けるにあたり、「汝自身を知れ」という格言は至るところに影響すると思います。
この格言の持つ重さを噛み締めながら、明日からもキーボードを叩き続けていきましょう。

*1:当時考えていたことは、それはそれで面白いのでどこかでもう少し詳細に書きたいと思います。

*2:知ることと納得することは大きく違います。それについても近いうちに書きたいです。

意識低い系の生存戦略

まずは、何も言わずにこちらをご覧ください。
『スタートアップで働くミレニアル世代の思考書き下ろし 30日間 - 第3期』

 

いかがでしょうか。
意識高い感じ、しませんでしょうか。

なぜ自分がこの中にいるかは甚だ疑問です……と言いたいところなのですが、最近は自覚するようになりました。
「あ、自分も意識高い人になったな」と。
「大学生の時に揶揄していた存在に、自分もなってしまったな」と。

 

そもそも「意識高い」というのは「張り切っちゃってる痛い人」といった意味合いです。
大学生の頃、自分はできるだけ社会に出たくなく、働きたくもありませんでした。
「働くことに対して前向きである」というだけで、他人を「意識高い認定」をしていました。
今でも「5000兆円あげる」と言われれば、喜んで引きこもりになれる自信があります。
もともと、そのぐらい意識の低い人間なのです。

 

さて、本当に突然ですが、ここで人生をアナログなゲームに例えてみましょう。
今話題の将棋など、分かりやすいかもしれません。

 

ゲームをするにあたって、そのゲームを楽しみ、そしてもし勝ちたいと思うなら、絶対に知らなければいけないことが3つあります。*1

 

それは
 1.勝利条件、または敗北条件
 2.ルール、または禁止事項
 3.相手の強さ、または弱さ
の3つです。

 

将棋で言えば、相手の王(玉)を詰んだ状態にすれば勝てます。
基本的な駒の動かし方やルールが分かれば遊べますし、相手との力量差が大きければ、使う駒を減らすことで互いに楽しむこともできます。

 

さて、上記の文章は、本当に正しいでしょうか?
まず、将棋の勝利条件は「詰み」だけではありません。投了の宣言や時間切れでも勝敗が決まります。
基本的な駒の動かし方がわかっても、最低限の戦略や序盤〜終盤の流れを知らないと楽しくありません。
勝ちを重視する場合、強い人が弱く振る舞うこともあります。

 

今回は将棋を例に挙げましたが、ゲームというものは通常絶対の正解はない(あると遊びの要素がなくなり、ゲームとして機能しない)ため、自分なりに深めることができます。
私は先ほど「人生をアナログゲームに例える」と言いました。
なぜなら、人生もこの3つのことを知り自分なりに深めていかないと、楽しめないものだと考えているからです。

 

人生の勝利条件とは何か。
これには哲学や文学が役に立ちそうです。あるいは、芸術、宗教なども関連するかもしれません。
周囲の人に色々と話を聞くのもいいでしょう。

 

人生のルールとは何か。
生物学や物理学を始めとする自然科学は「地球という環境で生きる」上で重要ですし、社会学歴史学はそのまま「社会的に生きる」上で知る必要がありそうです。
あるいは、私たちは言葉を使い五感を通じてコミュニケーションをとっていますから、言語学や論理学、身体論なども参考になりそうです。
もちろん、多種多様な環境に身を浸すことも大事でしょう。

 

人生の相手とは何か。
周囲にいる親密な人から、つながりの薄い人まで様々でしょう。また、自分自身も「相手」に含まれるかもしれません。
人間一般のことを知るなら心理学が手掛かりになりそうですし、文化人類学やネットワーク理論も知っておいて損はなさそうです。
何よりも、まずは相手と一人の人間として付き合うことも重要そうです。

 

さて、人生というゲームの恐ろしいところは「勝利条件やルール、相手の強さ弱さが時と場合によってガラガラと変わる」ということです。
将棋では、二手指し(続けて2回指すこと)はルール違反ですし、2歩(成っていない歩を2枚以上同じ列に置くこと)は禁じ手です。
それをしてしまうと、ゲームとして成り立たなくなるからです。

 

ただし、人生では場合によって、このルールを破った人が勝ちます。
なぜなら、ルールを破ると強いからです。
1回に1つの手しか指せない人より、2手3手と指せる人が勝つのは、火を見るよりも明らかです。

 

そしてまた、人生においては勝利条件(言葉は不適切かもしれませんが)も変わります。
というよりも、現代においては「決まった勝利条件などない」という方が正しいかもしれません。
混迷の時代というならば、「何を目指していいか分からない」というのが、その最たる理由なのでしょう。

 

自分には「自分は生きるのが下手である」という自覚があります。
どうにかこうにか「生きるのが上手くなりたい!」と思って色々とやってきた結果、今では立派に意識が高くなりました。
人によっては、「あいつ痛いな」と思うかもしれません。
「生きるのが上手くなりたいって何だよ」みたいな。

 

それでも、今の自分には一定満足していますし、これからももっと多くのことを知りたい・実現したいと思っています。
意識が低く、生きるのが下手な自分が、何を経てそれなりに仕事や家庭で楽しく過ごせるようになったのか。
そんなことを30日間書き連ねることで、同じような気持ちになっている誰かの役に立てば、これ以上の喜びはないなぁと思います。

 

最初なのでもっとサクッと書き切ろうと思ったのですが、相変わらず長くなってしまいました。
こんな調子が続くと予想されますが、これから30日間、よろしければゆるりとおつきあいくださいませ。

*1:別に2つでも4つでもいいのですが、やっぱりこういう時は3つですよね。

その人生に意志はあるか。目的はあるか。戦略はあるか。

最近、ユニリーバ資生堂マーケティングに携わられている方が書いた『なぜ「戦略」で差がつくのか。』という本が出版された。
読んでいるととても面白い。
戦略とは「目的」に対していかに「資源」を効率的に使うかという、その手法のことだという。
戦略の良し悪しで、マーケティング施策の成果は何倍にも何十倍にも変わる。

 

ふむふむ、と読み進めているうちに、ふと考えた。
これは、人生に対しても同じなんじゃないか。
戦略のない人生よりは、戦略のある人生の方が有意義に過ごせそうだ。
今、自分の人生に、戦略は無い。
そもそも、自分の人生に明確な目的もない。
当然、人生に対してどんな資源が必要かも分からない……。

 

すぐにAmazonで「人生戦略」で検索した。
100件以上がヒットし、うさん臭そうな自己啓発本のようなものからあまり関係なさそうな三国志の本まで、色々と出てきた。
書評サイトや個人ブログを活用し、その中でも有益そうに思われた『史上最強の人生戦略マニュアル』という本を購入した。

 

タイトルのあやしさに反して、これはなかなか良い本だった。
「今すぐ自分という資源に投資せよ」というだけでなく、そのために必要な問いかけやフレームワークも整理されている。
「自分を自分の管理者と考えた場合、その人を雇い続けたいか」という問いは、様々な場面で有用だと思う。

 

これで人生について必要な戦略を一定理解した。
自分という資源を高める方法も何となく分かった。
しかし、まだ分かっていない問題がある。
果たして自分の目的とは何か?自分の意志が向いている先は、一体どこなのか?
というか、この問題、就職活動以来ずっと囚われている問いじゃないか……?
さすがに、5年以上同じ問題に関わりながら解決できないのはおかしい。
根本的に、関わり方を変えるべきではないだろうか。

 

ふと周りを見てみると、意外と多くの人が自分の現状に満足しているように見える。
少なくとも、不満足であればそれを解消しようと努力しているように見える。
(もちろん、一方では現状に押し潰されそうになっている人もいる。)

 

彼ら・彼女らと自分(や現状に押し潰されそうになっている人たち)の違いはなんだろう。
映画や演劇を見て感動したり、週末に自分のやりたいことに打ち込んだりしたことを楽しそうに話している人たち。
その人たちの話を聞きながら「最近何で心動かされたっけ?」と思う自分。
さて、自分はどうしてこんなにも生活に没頭できないのか。

 

ここでも自分は、本に頼った。
去年大いにバズったとあるブログで紹介されている『アウトサイダー』という本。
「日常生活に埋もれて窒息しそうになる時に読むと、本気で人生が変わると思う。」という言葉につられて読んでみた。

 

結果、自分は「準アウトサイダー」であることを理解した。
何事も、名前がつくと理解がしやすくなるものだ。
アウトサイダー」は群衆を見て「自分は彼らとは違う、高みを目指す存在である」ことを目指す。
それに成功することは稀で、だいたい現実に取り込まれるか、現実と折り合いがつかず発狂したり自殺もしたりする。
それでも、その人生には強い意志と崇高な目的がある。

 

ちなみに「準アウトサイダー」は半端者である。
日常に没頭する人を「人生に向き合ってない」と感じながら、一方で自分から人生を変えることはしない。
「俺が動くのは気力と体力が充実し出来る見込みができてからだ」と思っている。
うん、非常に格好悪い。
堅実的な生活者の方が、何倍も人間ができている。
と頭では分かっていても、感情や身体は彼らと一緒になることを拒む。
非常に厄介な性質だと思う。

 

この本には、アウトサイダーとして人生を充実させる答えは書いていない。
ただ、それを得るために必要なことは書いてある。
自分自身を知ること、そのために自己表現をすること、現実に生きることの3つである。
最近自分に必要だと思いながら、その難しさに途方に暮れていたことたちだ。
この本を読んだだけで人生が変わるなら、その人はよほど行動力に溢れているか、苦悩の量が足りなかったんじゃないかと思う。

 

それはさておき、問題は一周して改めて目の前に突き付けられた。
・自分自身の望みや目的は何か。
・何を意図して、誰に向かって自己表現を行うのか。
・現実的にどうやってそれらを実現するのか。
どれもこれも、目を背けたくなるような問いだ。
しかし、向き合わなければ今後の人生、ずっと同じ苦しみを味わい続けることになる。
それは分かっている。厄介なことに。

 

就職活動をしていたときに、よく思っていたことがある。
人生がRPGみたいに、ラスボスが誰で、どこにいるか分かっていたらいいのに。
あるいは、自分のレベルを上げればより強い敵が出てきて、それを繰り返していればどこかに辿りつければいいのに。
今にして思えばあまりにも幼稚な考えだけれど、今でも時々そう思ってしまう。

 

そしてまた、倒すべき敵を自分で見つけ、そのために自分を磨き、倒せたり倒せなかったりするのであれば。
いっそ「敵なんて見つけず今のまま生きていてもいいのでは」とも思ってしまう。
それを選べないのは「きっとそれはダメな選択肢だ」と分かっているからだろう。

 

生活に没頭できず、物事に酔えない人間。
そんな人はたくさんいると思うけれど、そのままではマズイと気づいた責任として、少しずつでも前進していける人にならないと。
……それにしても、意志がないときはどうしたら湧き上がってくるものなのやら。

めまぐるしく変わる市場とゆっくりと変化する社会。僕らは、その上に立って生きている。

2017年が始まりました。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
僕が住んでいる埼玉県は年明けから快晴続きで、風は少し肌寒いけれど、心地よい日々が続いています。

そんな中で、すこしみらいを考え続けるのも良いことだなぁと改めて思っています。

 

さて、年末年始にいろいろな方とお会いしたのですが、いわゆる大企業に勤めていた方が農業に転身されたり、フリーになって芸術やエンタメの分野で活躍を広げよう!とされたりする方のお話を色々と伺いました。

世の中的にも、週末起業や副業を薦める書籍や「クロスフィールズ」「二枚目の名刺」といったNPOのような、今いる場所に加えてもっと自分の活躍できる領域を広げよう!という流れが加速しています。あるいは、社内の管理職を廃止して全員が第一線のエンジニアとして顧客に対応し続けるという制度を持つ会社も生まれています。

 

こうした動きの背景には色々な理由があると思いますが、大きな流れとして市場(資本主義)と社会(公共空間)の変化の速さのズレが大きくなっていることが挙げられると考えています。
前者は1年後の業績が上がればよいですが、後者は少なくとも10年、次世代を考えれば30~40年単位で物事を考えなければいけません。

こうした中で、市場での成功(お金を稼ぐ、地位を得る)が社会での成功(安定して生活できる、周囲と良い関係を築く)と一致する時代から、労働者や資本家としての自分と生活者としての自分のバランスが取りづらい時代に変わっています。

 

この話自体はあちらこちらで言われていることですが、50年以上前にも予見していた人がいます。それはシュンペーターという人で「創造的破壊」というイノベーションの原理を提唱した人と言った方が分かりやすいかもしれません。

彼自身、組織が利益を上げ続け、右肩上がりの成長を達成するにはイノベーションが必要であることを述べています。そして、イノベーションには過去の枠組みを破壊し新しい結びつきを作る「創造的破壊」が必要で、それこそが資本主義を推進する原動力であり、それを担うのが企業家(アントレプレナー)だと言っています。

 

しかし、彼は同時に「繰り返される創造的破壊により資本主義が繁栄した結果、現状の社会制度が覆されるために、資本主義自体を崩壊に導く」と語っています。
なぜなら、資本主義は安定した経済により多くの人の生活水準を高める一方で、人間の思考を合理化し成果主義を広めてしまうのですが、それだけでは人間社会は成立しえないからです。

 

こうして資本主義の制度そのものが一般の人々や資本家の「心」に対する支配力を失ってしまい、市場という場自体が人々の関心を失っていきます。
サブプライムローン問題や東日本大震災の衝撃、ピケティが21世紀の資本を出したことやパナマ文書のリークはこれに拍車をかける大きな出来事だったと思います。)

 

実際、ベーシックインカムの議論を見ていると社会保障の文脈もありながら「なぜ稼ぎ続けなければならないのか」「モノがあふれている時代にこれ以上モノを作り出したり購入したりする必要があるのか」といった話も聞こえます。
これは資本主義の流れと逆行する思想ですが、その間にも市場は変化し続けます。その受け皿として、社会の方に関心が行くのは当然の流れと言えるでしょう。

 

ここから2つの大きな問いが生まれます。
それは「市場は人が生活する場としての魅力を取り戻せるか」と「社会の中で個々人はどんな役割を果たせるか」というものです。
その行き先の1つには、市場と生活が一体であった地域経済の復興も考えられるでしょう。実際、平川克美氏の言う小商いのように、比較的小さな生活圏で生きていくことも十分考えられます。

一方で、これまでにない市場や社会の在り方を考え、その中のどこに自分の身体を置くかを考えることも、非常に重要だと思います。世界は確実に開かれる方向に進んでおり、そこに踏み込まなければ出来ない体験や出会いもたくさんあるからです。

 

個人的には、市場の魅力も捨てたものではないと思います。自分の努力によって誰かの役に立ち経済が回っていくというのは、そこまで辿りつければ大きな意義のある経験だと思います。たくさんの人が、市場や組織を良くするために必死に頑張っている姿も知っています。
その上で、個人として生きていく上で自分の足下を見つめ「だから自分はこの場所にいる」と言えることも非常に重要だと考えています。

 

結局のところ、場の問題を考えるには自分のことではなく周囲との関係性に注目しなくてはいけません。自分が今いる場所が市場なのか社会なのか私的な空間なのか。その環境はどう動いていて今後どうなっていくのか。周囲の人とはどのような間柄にあるのか。
まだ年明けと言える今だからこそ、自分が立っているその土台にあるものを、じっくりと見つめてみる。そんな時間が必要なのではないかと思いました。

「客観的な真実」の価値が低下し、外にも内にも拠り所がない世界で、僕らはどうやって生きていくのか。

イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ氏当選が示すグローバル化の限界、「保育園落ちた日本死ね」に象徴される資本主義の発展と実生活の利便性の乖離、さらにアルファ碁の劇的な勝利に感じるシンギュラリティの到来と多くの人がAIに感じる漠然とした不安などなど。
今年は本当に多くの概念の発展や衰退と、それに伴う現実社会の動きが起きた年だったと思っています。あまりにも多すぎて、10大ニュースなんかでは収まりきらないくらいでしょう。

 

そうした動きは本当に多岐に渡り混沌としていますが、もしそれらの共通項に1つだけ名前を付けるとするなら、それは「客観的な真実という概念の価値低下」だと言えます。
近代が始まり個々人が国家を形成するという大きな流れの中で、一神教の神に変わり「人類が目指すべき方向性」の役割を担ってきた様々な主義(資本主義や社会主義国家主義自由主義など)が400年近い時を経てその力を失ってきた、その結果が現在であろうと思うのです。

 

例えば、ここ数年よく言われる「大企業に入っても安心できない」という言葉は、まさにその結果を示しているでしょう。高度経済成長という環境において労働力を大量に抱え販路も拡大していく大企業に入ることは安定した人生を過ごす有効な手段として「客観的な真実」だと言えましたが、最早その考え方は随所で通用しなくなっています。

 

そもそも真実とは「嘘偽りのないこと」ですが、ある時は一切嘘のなかったことが、環境が変わることで嘘になることが良くあります。歴史上のある地点まで「人間が空を移動できない」ことは真実でしたが、今では真実ではありません。
ただ「人間が何の助けも借りず、自分の身体1つで空を飛ぶのは無理であること」は今でも真実だと言えます。
ここで重要なのは、真実には時とともに変化するものとしないものがあり、私達が通常「真実」だと思っているものは、実はこの2つがよく混ざっているということです。
(「『お金には価値がある』というのは真実ではない」ということは、最近少しずつ認知されてきた気がします。)

 

真実が時とともに変化するということは、あるものの確からしさはその外部環境に影響されるということです。そして、現在ほど未来の不確定性が高く、外部環境の変化が激しい時代はありません。つまり現代はそれだけ、真実も移り変わるということです。

 

さて、ここまで「客観的な真実」という言葉を使っていましたが、一方で「主観的な真実」という言葉を使うことも可能です。
「自分は世界一幸せだ」と思い、それを脅かす外部環境がなければそれは1つの真実です。「認知上の真実」と言ってもいいかもしれません。自分より不幸な人しか認知しなければ、その人はその人の認知する世界において、一番幸せな人になり得ます。

 

ここ数年「客観的な真実」の価値が下がってきていた結果、その反動か「主観的な真実」の価値が上がる傾向があったように感じます。
「自分が心から情熱を持てる、やりたいことをやろう(自己啓発的)」「自分の内面により深く気づき、今を大切に使用(マインドフルネス的)」という活動もあちこちで見られます。
自己啓発もマインドフルネスもとても良いものだと思いますが、文字にすると途端にうさん臭くなるのは何故でしょう……。)

 

それはともかく、「客観的な真実」から「主観的な真実」への移行自体は、自然な変化だと言えます。外部の規範に自分を近づけていくのが大人であるという生き方から、自分の出来ることを自発的に世の中で役立つ形で発揮していく生き方に変わることは、理想的には非常に良い変化にも思えます。
ただし、この変化により現代に生きる人々は下記2つの問題に直面することになります。

 ・自分が抱える真実や正しさとはいったい何か?
 ・その真実や正しさを社会のどこに位置づけるのか?

2つ目の問題は、実はそれほど難しくはありません。ただ、1つ目の問題が絶望的に難しいため、結局2つ目の問題も解けないのが現実であろうと思われます。
「自分を本当に知ることが1番難しい」というのは過去多くの人が言っていることですが、ここに来てより多くの人がこの問題に直面しなければならないことが、現代の困難だと言えるでしょう。

 

この問題については長くなるため詳細は次回書こうと思いますが、端的に言うと「真実を抱えるべき自分というものが本質的に存在しない」ために、そもそもこの問いに完全に答えることはできないことが大きな問題だと考えています。
真に立てるべきは「自分も存在せず外部環境も不確実な中で何を拠り所とすべきか」という問いであり、そこには「適切な試行に裏打ちされた直観」しかないというのが現在の見立てです。
そして、その結果生じるのが「同じ価値観を持つ人が緩く集まるコミュニティ」であり、それが資本主義を土台とする社会に多数作られることが、今後30~40年個々人が生きやすい社会を作る1つの方法だろうと考えています。
(それでも、自分の価値観を明確にするという非常に難しい問いを乗り越えなければならないのですが……。)

 

これはかつて血縁で結びついた家族という小さな集団が担っていた「個々人の存在の不安感」というものを、価値観という共通項を軸に集う大きな集団で解消しようという試みに他なりません。
そのためにグローバル化や資本主義の役立つ部分を活用し、不必要な部分は捨てることが必要だろうと思っています。価値が低下したとはいえ、まだまだ社会はグローバル化や資本主義の仕組みで動き続けます。そこに対立することは人類にとっては良いかもしれませんが、現代に生きる一人ひとりの人間にとって良いかどうかはわかりません。

 

さて、次回はもう少し個人にフォーカスをあてて「なぜ自分が存在しないと言えるのか」「そうした中で『個人』としてどんな生き方が考えられるのか」について書きたいと思います。それが、今年1年考えてきたことの集大成になると思います。
去年の年末は幸福についてずっと書いていたけれど、今年は一度も使いませんでした。1年経つと、人の思想は変わるものですね。

創造性の根源が「違和感」と「我慢のできなさ」であることの残酷さと滑稽さ。

突然の結論である。
創造性の根源は「違和感」と「我慢のできなさ」である。そして、それは残酷であり滑稽である。
なぜか。

 

そもそも、今回はハーバード・ビジネス・レビュー11月号の瀧本哲史氏の「未来を希望に変えるのは誰か」から刺激を受けている。

そちらによれば、未来を希望に変える始まりは「違和感を大切にする」ことだという。
これ自体は、多くの人が納得できるものだと思う。改善とは現在を超えることであるならば、今自分が生きている世界に「なんか違うな?」「もっと良くする方法はないのかな?」という直感を得る必要がある。
(ちなみに、文中ではその例としてナイチンゲールが挙げられており、彼女が現場のデータから権力者を動かしたという話は非常に面白い。)

 

さて、文中でも一応は触れられているのだが、違和感を感じるだけでは当然「違和感で終わってしまう」ので、「その違和感を見過ごさず、育てていく」ことが必要となる。
つまり「なんか違うから、それを正しくするために何かをしなきゃいけないな?」ということを繰り返して、それを自分の中で問題視したり、周囲の人にも関心を持ってもらうことが必要となってくる。

それは言うなれば、自分の直感と今の現実のギャップに「我慢ができなくなっている」ということである。自分の直感に世界を近づけるために「行動せなばならない」と思っている状態である。

 

さて、ここで少し考えてみる。
「自分を取り巻く環境に満足せず」「それを自分の思うように変えたいと思う」人のことを、一般的な言葉ではなんと呼ぶだろう?

 

そう、「ワガママな人」である。それは決して、褒め言葉ではない。
ワガママな振る舞いは、基本的には抑制される。曰く「分別を知る」や「相手のことを考えて」という言葉によって。

 

しかし、創造性の根源は「違和感」と「我慢のできなさ」なのである。つまり、ワガママなことなのである。
そして困ったことに、特定の場面において「ワガママ」というのは褒め言葉になるのである。創造性を発揮し未来を切り拓く、という場面において。

 

さて、ここにおいて何が起こるかというと「一生懸命周囲に自分を合わせ、自分を律して『良い子』として生きてきた人の価値が不足する」ということである。
こういう人は、学校という環境の中で早めに「こうすれば楽に生きていける」と分かってしまった人たちの中に、一定数いる。

仕事の場面において「『良い子』は言ったことはやるがそれ以上のことはできない」といった話を聞くことがある。
それは当然のことで、20年近く「周囲に合わせて我慢して生きればいいんだ」ということを学習した人が、いきなり「違和感を持って我慢せずに自由に動いてみなよ」と言われても、「え、今更それ言っちゃうんですか?」という話である。
彼らにとって、やっと見つけた処方箋こそが「違和感を覚えず、我慢をして生きる」ことだったのだから。

 

右肩上がりの資本主義と、それを前提とした終身雇用という制度の終わりが見えるにあたって、自分の人生を自分で切り拓く必要性は強調してもしきれない。
しかし、それが必要な人たちは、学校教育において「環境を受け入れ」「周囲に合わせる」という経験を通じて、その根源的な力を奪われている。

結果、社会は人材不足を嘆き、個々人は生きるために仕事をすることを嘆く。
(こういった人たちが、実際にどの程度いるかは分からない。自分の周囲(20代前半~後半の、比較的学歴が高い人たち)には多い気がするが、その下の世代はもうこの問題を抱えていないこともありうる。)

 

これは横道にそれる話だが、よく今頑張っている人の紹介をする際に「○○という辛い経験や挫折を味わったのに、ここまで頑張っている」という説明を聞くことがある。

それは「それほど辛い経験をしたなら沈んで動けなくなってしまうところ、逆境をバネにして動いていて偉い」ということなのだろうが、むしろそれは逆で、そんな辛い経験をしたからこそ今の自分の置かれている環境に満足できず、我慢ができないから頑張れるのだと言うべきだろう。

しかし、こうした発想は「不幸な出来事があった方が人生にとってプラスではないか」という「不幸への憧れ」を生み出してしまう。

「いっそ戦争でも起きてくれれば自分も本気出すのに」というのは、真実ではないがまったく中身のない言葉というわけではない。ただ、こうした感覚が広まることを良しとするわけにはいかない。

 

本筋に戻る。
結局、未来を切り拓くのはワガママな人である。しかし、集団生活において鬱陶しがられ抑圧されるのもまた、ワガママな人である。

 

「反骨心がある人がよい」「はみ出しものに寛容であれ」「生意気ぐらいがちょうどいい」

すべて人事の業務中に聞いた言葉である。しかし、学校教育も会社組織も、基本的にはこのようには動いていない。規則に従わない人は、その集団内で過ごすことすら困難になる。

 

残酷さと滑稽さが現れるのはここである。
ある程度未来を考えている人は、違和感を感じ我慢をしない人を求めている。

その一方で、多くの人は規則に従う従順な人をも求めている。
だから、求められる側の人たちも「規則に従う従順な人」を演じてしまう。
そうすれば、今の世界で安心して生きていけると信じて。

 

しかし、それももはや限界のように思う。
従順な人を演じているなかで、安心して生きている人を見たことがない。
たいていの人が「こんなはずじゃなかった」と思っている。
未来を切り拓きたい人たちにとっても、損失と言ってしまえば言葉にできないぐらいものすごい大きな損失だろう。

 

この問題に対しては、職場環境でいえば「当事者が自分で認識のスイッチを切り替える」「上の人が熱を与え続けスイッチを切り替える」という解決策しか思い浮かばない。
結局、誰かの違和感が他の誰かに燃え移り、「そいつぁ我慢できねぇぜ」と立ち上がる「準ワガママな人」が増えるしかない。

誰もが自分のことを第一にし、自分の価値観に従って好きなことをやる「価値観型社会」が理想だと考える理由もここにある。自分勝手な人だけが、周囲の近い価値観を持った人に火をつけて、自分たちにとっての良い社会を作り出せる。

誰かにとっての良い社会は他の誰かにとっての悪い社会かもしれないが、テクノロジーがこのまま進歩し世界レベルで近い価値観の人が連携できるようになれば、それを是正したいと思う自分勝手な人も出てくるだろう。

すべてが是正されることはないかもしれないが、多数の人が自分を偽って既存の規則に縛られた結果の未来よりは、自分の価値観を表明してその実現のために進んでいき、衝突を繰り返していく未来の方が、その時に生きる人類にとって有益なはずだ。

 

ここまで書くことで「日々生きることは、良く生きるための制約条件でしかない」という言葉に行き着いた。
元々「なぜ人はただ生きるだけでは満足できないのか」というテーマでブログを書こうとしていたのだが、期せずして自分の中の問題意識がつながったことになる。

國分氏の「暇と退屈の倫理学」のなかである程度すでに語り尽くされていると思うのだが、近いうちに今一度「ただ生きるだけでは足りない」という問題に関して、自分なりに考えてみたい。