canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

ゆとりとくつろぎを感じたのは、とても非効率的な珈琲店でした。

今日はお昼をイノダコーヒーで食べたのですが、随所がとても非効率的でびっくりしました。
ただ、その非効率さゆえに、機会を見つけて僕はまたイノダコーヒーに行くでしょう。

 

最初に違和感を覚えたのは、お手洗いに立ったとき。
お店の外にあるというので出口に向かったところ、側にいた店員さんがすっと動いて、自動ドアを開けてくれたのです。

 

いいですか。「自動ドアを先に開けてくれた」のです。
黙ってても開くのに。それが自動ドアのいいところなのに。

 

そして、席に戻ってお冷やを飲み干すと、当然のように店員さんが回って来てくれます。
ちょうど喉も渇いてたし、お代わり欲しいタイミングで気が利くじゃないかと思っていたら、グラスごと交換してくれたのです。
足してくれればいいのに。洗う手間も増えるだろうに。
何なら、その後もう1回交換してくれたので、1人に対して3つのグラスを洗っているわけです。

 

よくよく店内を見てみると、ホールスタッフの数も多い。
基本的には、どの席からも声が届く範囲にスタッフがいる配置になっていました。
これだけ人員に余裕があれば、自動ドアをスタッフが開けたりお冷やをグラスごと交換することも可能でしょう。

 

おそらく、お店を回すだけなら2/3の人数でいけそうです。
その方が人件費という観点から考えたら効率的だし、自動ドアは開ける必要がないし、お冷やも水差しを置いておけば何度も交換する必要はありません。
経費的な効率を考えれば、その方が「正解」な気もします。

 

ただ、自分が凄いなと思い、感動したのはその非効率な部分でした。
決して高級店というわけではないのに、様々な余裕から生じる細かな気遣いや他のお店とは違う待遇に、とても心地よさを感じていたのです。

 

世の中の流れとして、労働人口の減少や機械化を踏まえて生産性向上・効率化が重視されています。
もちろん、製造業のようにそれこそが企業の生命線、という業種もあります。
無駄な作業をやる必要がないように、自動化することも必須だと思います。

 

ただ、数字を切り詰めて余裕や遊びがなくなったとき、その組織や集団はあまりにも無味乾燥で、魅力のないものになると思うのです。
必要なことだけやるのなら、それこそ機械にやらせてしまった方がミスも少ないし、品質も均一になります。
接客でいえば、その最たるものが自動販売機で、注文の聞き間違いもつり銭の渡し間違いも基本的にはありません。
それが起こる場合は、必ず人為的なミスが影響しています。

 

ただ、世の中のお店が全て自動販売機のようになったなら、それはそれで物足りないと思うのです。
人が注文を受け人が食事を作り人が運ぶというのはよくよく考えると非常に非効率ですが、せっかく外食をするのならせめておもてなしを受けたいと思うのです。
それが人間に普遍的なものなのか、時代によるのか個人的なものなのかは、もう少し考える必要があるかもしれませんが。

 

機械が全てを整えてサポートしてくれる未来は、ユートピアでありディストピアでもあるように語られます。
おそらく、人は人と何らかの形で関わっていないと生きにくくなるような仕組みが、どこかに備わっているのでしょう。
社会学や人類学を紐解けば、すでに研究もされている気もします。

 

イノダコーヒーの素敵な接客のおかげで、改めて余裕があることの大切さを学ぶことができました。
一方で、それと生産性や効率性をどう両立するかという問いも持つことができました。
きちんと利益を出して、会社の体力をつけて、余裕を持って(一見)非効率的な遊びのあることをやって、それをきちんと利益につなげる。
このサイクルを回すために自分は何をすべきなのか、日々考えていかないとなぁと思うのです。