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現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

「未来という不確かなものにどうやって向き合うか?」という問いに対する、1つの回答。

今年に入ってから「社会や組織、アートやエンタメの未来ってどうなるんだろう?」と考える機会が増えました。

その中で、そもそも「未来という不確かなものをどう考えるのか?」というある種の姿勢自体がとても難しいな、と感じる場面が多くありました。

そちらに対してある程度自分の考えがまとまったので、書き残しておこうと思います。

 

今回は、WIRED日本版の前編集長、若林さんのインタビューがとても面白かったので、そちらを踏まえて書いていきたいと思います。

全体の内容はリンク先を読んでいただきたいのですが、「未来の社会」を見据えた発言として、以下の言及があります。

 

北欧なんかを見てると、「企業」という主体が経済と社会のメインのドライバーであるという考え方自体がもはや終わっていくんじゃないかという見立てが裏側にあるように思えたんです。

 

彼らは、そうした個人を「マイクロアントレプレナー」と呼んでいます。マイクロアントレプレナーというのは、言い方としては格好いいんだけど、要は個人事業主のことで、自分でそうしたくてフリーランサー個人事業主になっている人だけでなくて、企業が倒産して失業した人もそこには含まれます。

 

要は、これからますますたくさんの人が、そう望もうが、望まざろうが個人事業主みたいな形で複数のクライアントを相手に業務を掛け持ちしなきゃいけなきゃならなくなるという時代なんです。

そうした時代の要請に応えるソリューションは、格好いい言い方をすると「パラレルキャリアの支援」となるけれど、もう一方で失業対策でもあるんです。

 

gendai.ismedia.jp

 

ご存知のように、現代においては「企業」というものが「公器」として社会の中で重要な役割を担っています。

 

しかしすでに、ある種の企業はその役割を担いきれなくなっています。

つまり、個々人が自分の人生に、これまで以上に責任を持って生きていかなければいけない時代になるということが、すでにあちらこちらで起こっています。

  

独立にせよ副業にせよ、個人と社会・企業との関わり方が大きく変わっていくことは間違いありません。

その際に必要になるのが、一人ひとりが自分や自分を取り巻く環境の未来を考えるという姿勢です。

 

その際に、インタビューの中で若林さんが「日本人の歪なバイアス」として語っていることに「未来とテクノロジーがセットになっている」という内容があります。

 

(僕らは)正しい科学技術に上手く乗っかっていけば、自動的に正しい未来に行けるとみんなが思っているからそうなる(未来を描けず堂々巡りになる)わけで、『近代日本一五〇年』は、まさにそのことを強く気づかせてくれる本(注:『近代日本150年』)なんです。

じゃあ、どうやって未来のことを考えるんだって、なるわけですが、最近気に入っているのは「テクノロジーの話を禁止して未来のことを考えてみよう」ということなんです。昔にテレビでお正月にやってた「カタカナ禁止ゴルフ」みたいな感じで。

 

たしかに「AI」なり「フィンテック」なりがバズワード化して「領域×テクノロジーが実現すれば色んな問題が解決できてハッピー!」と言われる場が目につきます。

 

もちろんそんな単純な話ではなく、技術というのは道具にすぎません。

道具とは、それを使う人の意志・目的・意図・姿勢・知識・経験・状態などなど様々な要因より、その効果が変わるものです。

また、道具が対象の見え方を狭めてしまうという意味で「ハンマーしか持っていなければ全てが釘に見える」という話もあります。

つまり、道具(ここでいうテクノロジー)から未来を発想するという姿勢には「それを使う人(現代に生きる私たち)」と「対象となる事物(組織や社会そのもの)」という2つの観点がすっぽりと欠けているのです。

 

それでは、未来というものは、どのような姿勢で向き合うべきなのでしょうか。

若林さんの言う通り「テクノロジーの話を禁止して発想を広げる」というのも1つの手ですが、目の前に有益な道具が落ちているのにそれを使わないというのも勿体ないものです。

 

参考にしたいのはヤフーの安宅さんの「未来は目指すものであり創るもの」という言葉です。

https://www.ipsj.or.jp/magazine/9faeag000000pfzm-att/IPSJ-MGN580602.pdf

 

もう少し言葉を足すと、「自分にとって少なからず望ましい未来」は待っていればやってくるものではなく、自分なりに目指し創るものである、という意味合いになります。

 

これは、ポジティブな言葉で言えば「変えようと思えば誰もが未来を変えられる時代になりつつある」ということです。

情報発信のコストが限りなく0になり、個人でも人・物・金・情報を集めることが非常に手軽になりました。

また、価値観が多様化したことにより尖った意見でも受け入れられやすくなっています。

現代は、間違いなくこれまでの人間の歴史の中で「個人の力が1番強い時代」だと言えるでしょう。

 

一方で、ネガティブな言葉で言えば「何もしなければ他人が変えた未来の結果を引き受けて生きるしかない」ということでもあります。

「これまでもそうだったじゃないか」と思われるかもしれません。

しかし「何となく見通しが立っている未来を引き受ける」ことと「他人が影響しあって激変する未来を引き受ける」ことは、まったく違う意味を持ちます。

 

いずれにしても、国家レベルで考えた際の「国の未来」であれ、個人レベルで考えた際の「私の未来」であれ、誰かの選択の先に未来があるという事実は変わりません。

 

では、未来は本当に「創れる」ものなのか?

これには、YESでもありNOであるという答えしか出せません。

 

YESと答えるなら、

・自分の望む未来を明確に描けるだけの自己認知能力と時代を把握する力があり

・それを実現できるだけの能力や周囲を巻き込む力があり

・それを実行できる環境がある

人は、思い通りの未来を創れると言います。

 

NOと答えるなら、

・自分の望む未来を描けず、時代の流れも読めず

・何かを成し遂げるだけの能力や関係構築力がなく

・実行する環境がない

人にとっては、なんとも厳しい世の中になるはず、と言います。

  

このYESとNOの違いで重要なことは「未来の起点をどこに置くか?」という点です。

なぜなら、未来の全ての根っこは「今の自分が未来をどうしたいかという意志」に他ならないのです。

そこから考えない未来はすべてまやかしであり、将来的に不幸な結果に陥ってしまう可能性があります。

 

これは「揺るぎない意志が未来を切り開く!」といった精神的な話ではなく、極めて論理的な話です。

 

また「未来を見据えた生き方をしない人は何もかもダメだ」という話でもありません。
ある人が未来を思い描かないとしても、その人の生き方や幸せがあり、その良し悪しは個々人が決めるものだからです。

 

以上にて、「未来という不確かなものにどうやって向き合うか?」に対する回答が出てきました。

 

それはつまり「まずは今の自分が未来をどうしたいかという意志を持つことである」というものです。

それが全ての始まりであり、それがなくてはどれだけ高い能力を得ようが、良い仲間に囲まれようが、何不自由ない環境にあろうが、本当の意味で未来を考えることはできないのです。

 

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さて、ここからは完全に趣味です。

「1つの回答」と言いつつ、もう1つの回答を以下に書きます。

 

最近「仏教」の思考ツールとしての強力さをすごく感じていまいて、少しだけ今日のテーマについても、今自分が理解している範囲での仏教的な観点から書いて見たいと思います。

おそらくそんな風には読めないと思うんですが「好きなことをすごく楽しそうに熱く語っている人」を思い浮かべながら、読んでいただければ幸いです。

 

さて、仏教的な観点を踏まえて考えると、未来というものは今(の連続したもの)の結果でしかありません。

このため、未来を考えるとはつまり「今が連続してきたものとしての過去」と「まさに今起きていること」を見つめることに他なりません。

(この結果を「果」といい、その結果を生み出す元になった要素を「因」と言います。)

 

「昔のことでくよくよするなよ」というのは気の持ちようの話ではなく、今の状況(因)の結果として一瞬先の未来=今となった瞬間(果)があるわけで、過去を悔やむというのは因果の法則に逆光しており、とても不毛なわけです。

 

同様に「未来を創る」という場合、結局未来というのは「今」の積み重ねの結果でしかありません。

 

ただし、ここで重要なのは「未来をXXのように作りたいという意志を今ここで持った」は「今ここで未来の結果の原因を生み出した」ということに他ならないわけです。

 

これは決定論(未来は全て決まっている)でも運命論(未来は全て偶然である)でもなく、ある地点から最も因果がつながった未来に至るという意味で、人間の意志と世界の偶然という両方を含んだ考え方だと言えるでしょう。

 

この観点からすると「未来とどう向き合うか?」に対する回答は「今の自分の因を正しく捉える(ないしは正しく整える)」ということになります。

 

なぜなら、因から果が生じるので、因を本当に正しく捉えれることができれば、果も必然的に理解できるからです。
 

今の自分の理解だと、これが非常に難しいので色々な修行や実践を積んで、数々の思い込みや勘違いを捨て去って、正しく物事を見る目を手に入れましょうね、というのが仏教の教えです。

これが非常に力強い考え方で、自分がどれだけの思い込みに囚われているかを考えるだけでも、仏教を学ぶ意味はものすごく大きいな、と思っております。

ティール組織(進化型組織)の最終段階を考える【前編】

昨今話題のティール組織。
一言で言えば「世の中のルールが変わったことに順応した組織形態」のことだと言えるでしょう。
絶対王政から市民社会になって社会のルールががらりと変わったように、時代が下るに従ってその時々の時代を覆っているルールも変わります。

 

さて、ティール(進化型)を考えるにあたり、書籍『ティール組織』ではその手がかりとして「インテグラル」という考え方や「スパイラルダイナミクス」という理論を用意しています。
ざっと見ただけでも非常に「スピリチュアル」な印象がありますが、スピリチュアルという言葉を「現代の科学では法則性が解明できないもの」ぐらいに捉えて、少し我慢して見てみましょう。

 

例えば、スパイラルダイナミクスについてはインテグラル・ジャパンというサイトでかなり詳細に説明されています。

スパイラルダイナミクス 限りなく上昇する探求

 

これを読むと、ティール組織(黄色の段階:自分らしさを高めそれを表現する責任を持ち生きる基本概念)は全8段階の7番目にあたり、6番目である緑(平等や他者への気遣いが基本概念)までとは層(ステージ)が異なることが分かります。

 

これがティールを捉え難くしている要因で、これまで第一層(どうやって生き残るべきか?)を考えていた人が第二層(いかに存在するべきか?)の考えをそのまま受け取ることは、とても困難です。
なぜそう言い切れるかというと、人間は自分の思考や言葉の枠組みの中で物事を考える(例:虹の色は7色である)ので、それとは違う枠組み(例:虹の色は8色でもあり6色でもあり3色でもある)を示されても現実の捉え方が変わるわけではなく、考え方も変わりようがないからです。

 

さて、本日考えたいのは第二層を上ることで、つまり8段階目(ターコイズの段階)が世の中のルールになったとき、組織はどうなるか?という問いです。
インテグラル・ジャパンのサイトから、ターコイズの特徴を引いてみます。

ーーーーー

ターコイズ・全体性(ホリスティック)のミーム ― 30年前より出現
基本概念:知性(マインド)と霊性(スピリット)を通して存在の全体性を経験する。

  • 世界は、われわれの集合知性と共に一つの動的な組織体である。
  • 自己(セルフ)は、独立した「個」であると同時に、慈愛に満ちた大きな「全体」にとけあった「一部」でもある。
  • 全てのものが、全てのものに生態的に正しくつながっている。
  • エネルギーと知識が、地球上の全体的環境の中に行き渡っている。
  • 全体的・直観的な思考と協力的な活動とが期待される。

ーーーーー

これを読んで「うんうん、そうだよね」と言える人は、それほど多くないのではと思います。もちろん私も、そこまで深く理解できているわけではありません。
ただ「一部であり全体である」とか「すべてのものは繋がっている」という言葉自体は、日本人の感覚としてそこまで否定的なものではないと思います。

 

さて。先ほど見た通り、これは第二層の話。
つまり「いかに存在するべきか?」を前提とする話です。
そう考えると、イエローまでの7段階で取り組んできた「個としていかに全体に関わるか」という課題から「全体をいかに個と結びつけるか」という逆の方向性の課題が生じていることが分かります。

 

そもそも全体と個は不可分(ということになっている)のですが、「自分は個別の存在として生きている」という思考の枠組みで生きている限り「自分という存在をいかに全体(環境や社会や組織や他者)に関わらせるか」という問いしか生まれないことになります。
それは自と他を相対化する方向を強化する働きを持つものです。

 

一方で、「全体をいかに個と結びつけるか」という発想は「まず自分を含む全体があり、その中に自分という個がある」という前提から考えます。
そのため「全体」が自分の近いところから広がっていくのではなく、「地球(ないしは宇宙)」というスケールから徐々に自分に近づいてくることになります。
つまり「自分の在り方」に関する捉え方の出発点が「自分(=特定の空間を占める存在)」か「全体(=地球規模の空間そのもの)」かという点で、とてつもない違いが生じているのです。

 

これでやっと本題に入れるのですが、では、そうした「全体から自分を捉えることが基本概念になった世界」で組織はどうなるのか?
国家や国際組織、営利組織、非営利組織、教育機関などなど、今の社会には様々な組織がありますが、それらは一体どんなものになるのか?

 

前段がかなり長くなってしまいましたので、次回、後編で色々な可能性を検討してみたいと思います。
人工知能によって仕事が奪われようがそうでなかろうが、社会的な動物である人間は組織を作らずには生きられません。
今は「資本主義と労働」が組織や社会を作る手段として適しているので組織=仕事のような見え方になっていますが、今後もそうであり続ける保証はありません。

 

そんな観点を持ちつつ、スパイラルダイナミクスの8段階における組織について、次回は妄想を膨らませてみたいと思います。

選択的夫婦別姓の議論の難しさを「昆虫食問題」で提示する〜社会通念を変えることの難しさについての考察〜

昨日、選択的夫婦別姓に関してサイボウズの青野社長が個人として国を提訴した、というニュースを見ました。

「日本の損失だ」夫婦別姓問題で国を提訴!サイボウズ社長を驚かせた弁護士の"ロジック"とは | Abema TIMES

関心がある議題だったのでこの記事や他のnoteの記事*1を読んだり、それに対するtwitterでの賛成派・反対派の意見を読むうちにその議論の難しさに驚愕するとともに、

「これは夫婦別姓だけでなく、憲法改正天皇制などの『社会通念』に関わるテーマで起きていることだ」

と感じました。

ただ、それを普通に捉えようとしても非常に分かりづらく、何かいいアイデアはないかな……と考えていたところ「昆虫食」をテーマにすることを閃きました。
というわけで、以下の項目に関して順を追って書いていきたいと思います。


1.選択的夫婦別姓に対する自分のスタンス
2.選択的夫婦別姓の賛成派・反対派の意見の概観
3.選択的夫婦別姓問題を昆虫食問題に切り替えてみる
4.社会通念に関わるテーマを適切に取り扱うために
5.まとめ


それでは、さっそく参りましょう。

■1.選択的夫婦別姓に対する自分のスタンス

最初にスタンスを明らかにした方がフェアだと思い書きますが、自分は選択的夫婦別姓(結婚した際に夫婦で一緒の姓にしてもいいし、しなくてもいい)には基本的に【賛成】の立場です。
ただ、元々は「選ぶのは個人の自由なので、今実現したとしても何も問題ないのでは」と思っていましたが、様々な意見を見る中で「将来的に必要になる制度だと思うが、実現に向けては社会的に色々な議論をする場を増やす努力をすべき」という考えに変化しています。

このため、なるべく中立の立場で書いたつもりですが、以下の文章に賛成派のバイアスがかかっているであろうことをご理解ください。
その上で「選択的夫婦別姓に賛成か反対か」ではなく「社会通念に関わるテーマをどう扱うべきか」という問題が中心であることを念頭に、この先をお読みいただければと思います。


■2.選択的夫婦別姓の賛成派・反対派の意見の概観


選択的夫婦別姓に関する議論に詳しくない方のために、各立場の主な意見をまとめました。
詳しい方は読み飛ばしていただいても大丈夫です。

▼賛成派
・改姓による各種手続きにより物理的・金銭的な損失が生じている
・姓が変わることにより、仕事上の成果や業績の連続性がなくなる(研究職の場合、旧姓で書いた論文が出てこなくなるなど)
・夫か妻の姓に統一すると言いつつ基本的に妻の側が変更する暗黙のルールのようなものがあり、男女平等の考え方に反する
・そもそも法律が未整備の状態であり、適切に整備される必要がある(今回の青野氏の提訴の主な根拠)

▼反対派
・夫婦同姓が日本の伝統であり、維持すべきものである
夫婦別姓になることで家族の絆が弱まる
・生まれてきた子どもがどちらかの姓を選択するという新たな問題が生じる
・現状の制度でうまくいっており、多少個人に損失が生じているからといって社会的な制度や法律を変えるのは単なるワガママであり、認められるものではない

もちろん上記以外にも色々なご意見がありますが、この後の話をしやすくするための導入ということで、ご容赦ください。


3.選択的夫婦別姓問題を昆虫食問題に切り替えてみる

さて、いよいよ本題です。
この選択的夫婦別姓問題を「昆虫食」に置き換えるとどのようになるのか。

仮想の「賛成派のAさん」と「反対派のBさん」の会話を見てみましょう。
※なぜか両方ヤンキーみたいになってしまいましたが、もちろん昆虫食自体の良し悪しを考えるものではなく、あくまで参考として誇張して取り上げているだけです。
そのため、昆虫食に対して偏見が含まれている可能性をご承知おきください。

〜〜〜AさんとBさんの会話〜〜〜

A「栄養もあるし食糧問題も解決できるし安く手に入るし昆虫食って素晴らしいよ!社会的に昆虫食を認めるべき!」

B「え!何言ってんの!俺は昆虫を食べるなんてイヤだよ」

A「いやいや。別に必ず昆虫を食べろって言ってるわけじゃないよ。ただ、昆虫を食べる自由を選べるようにして、って言いたいだけだよ。食べたかったら食べればいいし、そうじゃないなら食べなきゃいい」

B「そうかもしれないけど……」

A「だろ?Bは何も困らないじゃん」

B「ん、ちょっと待てよ。昆虫を食べることが認められたら、お前昆虫食うだろ?」

A「うん、食べるよ」

B「ってことはコンビニやスーパーに昆虫が並ぶかもってことだろ?嫌だよそんなの、そんなコンビニ絶対行きたくない」

A「いや、売場を分けるとか注意書きするとか、色々あるじゃん」

B「コンビニは良くても、居酒屋のお通しで昆虫が出てきたらどうすんだよ!そんなの認めねえよ」

A「それなら、居酒屋に事前に確認するとか……」

B「は?今そんなこと気にする必要ないのに、わざわざ手間かかるようになるの?ほんと迷惑なんだけど」

A「いやでも、昆虫を食べる自由はあるし地球環境にとっても良いことだし……」

B「今食べれるもので何が困るんだよ!昆虫食ってなくても困ってないだろ。自分が昆虫食べたいからって社会のルールを変えようとするとか、ほんと自分勝手だな。意味わかんないことするなよ!」

A「……」

〜〜〜決して分かり合えない二人〜〜〜

いかがでしょうか?
自分に置き換えると、選択的夫婦別姓についてはAさん(賛成)の立場ですが、昆虫食についてはBさん(反対)の立場に立つと思います。

どれだけ昆虫食が身体や環境に良いと言われても「いや、今昆虫食べなくても世の中回っているじゃないか」と思ってしまう。
なぜなら、「基本的に昆虫は食べ物ではない」「他の大多数の人も同じように思っている」「今の自然環境が10年20年で急激に壊れるわけがない」という考えが常識として、自分の中にあるからです。

もし「少数でも不利益を被っている人がいるなら、できる限り是正すべき」という考えを持っているのであれば、選択的夫婦別姓も昆虫食も両方賛成すべきです。
それが一貫した態度なはずなのに、そうではない。

では、どちらにも反対するBさんの方が一貫性があって良いのか?
次はそのことを深掘りしていきます。


4.社会通念に関わるテーマを適切に取り扱うために

ここまでで「夫婦別姓(夫婦同姓という社会通念に反する)」や「昆虫食(昆虫は普通は食べないという社会通念に反する)」に関して、賛成派と反対派の意見を見てきました。

ここで発想を転換させて「夫婦別姓や昆虫食が認められるのはどんなときか」ということを考えてみます。
すると、それは以下の3パターンに大別されることが分かります。

・然るべき手続きを経て、制度が変更されたとき
・世の中の大半が「変えた方がよい」という意見になったとき
・変えないことによる弊害を無視できなくなったとき

1番目は、今まさに青野氏が取り組んでいる手段です。
裁判所や政治家を通じて、合法的に世の中を変えようという動きです。
Aさんであれば、農水省に働きかけて昆虫食を普及させるキャンペーンを行おうとするかもしれません。

このパターンの場合、たとえ制度が変更されたとしても、Bさんの不満が強く残ります。
たとえ手続きが正当なものだったとしても、自分が認めないままに制度が変わっているわけですから、不利益を感じる気持ちは変わりません。
ましてや、裁判や政治家への働きかけなどは、社会的に一定以上のステータスが無ければ、なかなかできるものではありません。

というわけで、Aさんは賛成派の人からは感謝される一方で、反対派の人からは「金にモノを言わせて自分の良いように世の中を変えた」とか「どうせ昆虫食ビジネスで儲けるんだ」とか「世間の人の気持ちが分からないヤツ」などと言われてしまうのです。

これが「社会通念の変更に関わる注意点その1」です。
つまり、社会通念を更新しようと活動する人は、大多数の人から攻撃されるということです。
もちろん、社会に影響を与えることは生半可な気持ちでできることではなく、重要な責任が伴います。
ただ、その攻撃される姿を見て「自分も社会を良くしたいと思い活動してきたが、もはやとても耐えられない」と諦める人がいるとしたら、これは社会的な損失です。

また「攻撃されないようにうまくキャンペーンを張った人が世の中を変える可能性がある」という、フェイクニュースにもつながる別の問題点もありますが、ここでは軽く触れるだけにしておきます。

さて、次に2番目ですが、これは「世論が成熟した」と言われるです。
「世の中の人の大半が制度変更を望んでいるから、これは国としても変えた方がいいよね」という、非常に円満な形です。
Bさんが「やっぱり昆虫うまいわ。俺もコンビニで買いたい」と言っている状態でしょうか。

ただ、この状態になるには、非常に手間と時間がかかります。
また、世論が成熟するまでにAさんが被る不利益は変わりません。
Aさんがどれだけ頑張っても、Aさんが生きているうちに世論が成熟し、制度が変わる保証はありません。
これが「社会通念の変更に関わる注意点その2」です。
つまり「変わった後の社会通念がより望ましかったと分かった場合、それが分かるまでに不利益を被った人の数は想定される最大数である」ということです。

もし過半数になれば「世論が成熟した」とする場合、50:50の状態では半分の人が、制度が変わらないことによる不利益を被ってしまうのです。
(現実では昆虫が個人間で流通するなどの現象が起きると思いますが、あくまで単純化した話です。)

最後に3番目ですが、これはそのまま「社会通念の変更に関わる注意点その3」です。
つまり、制度を変えられず、世論も熟成されないまま問題に直面した場合、社会の大多数が不利益を被るということです。

もし急な異常気象により今食べている肉・魚・穀物・野菜・果物の数が急激に減少し、昆虫を食べなければならなくなったとき、世の中は大混乱に陥るでしょう。
Aさんが「だから早く制度を変えておけば」と言おうが、Bさんが「昆虫を食べれるようになっておけばよかった……」と言おうが後の祭り。
昆虫の流通や販売機能が整っていない中で対応するのは、とても難儀なことでしょう。

もちろん、そのような急激な変化はほとんど起きないかもしれません。
ただ、常識が非常識になる瞬間は、過去の歴史の中で何度も起きています。
今後で言えば、AIの発達によるシンギュラリティがそれに対応するかもしれません。

そのときに、社会としてどのように議論を深め、より望ましい方向性を目指していくのか。
この問いにきちんと取り組まない限り、時代に合ったより望ましい社会づくりは、夢のまた夢だと思うのです。
少なくともパターン3のような「準備している2割の人は成功したけれど、それ以外の8割は夢も希望もない世界になりました」という状況を避けることに対して、多くの人がもっと取り組むべきだと思うのです。


5.まとめ

以上の議論を踏まえて、社会通念の変更に関して以下3つの注意点があることが分かりました。

・社会通念を変更しようとする個人や団体は多数派から攻撃されるため、社会を大きな枠組みで良くしようという動きが制限される
・世論の成熟を待って社会通念が変わる場合、それまでに不利益を被る人の数は想定される中の最大数となる
・準備不足の段階で社会通念を変えざるを得ない問題に直面したとき、社会の大多数の人が不利益を被る

この3点から、次に考える問いは一体なんでしょうか。
個人的には、非常に稚拙ではありますが「世の中を本気で良くしたいと思う人が適切に活動や情報発信ができ、自分と異なる意見だとしてもそれを理解しようとし、互いに尊重できる場をどうやったら作り出せるか」ということに尽きると思います。

昆虫食に関して、Bさんの生理的な嫌悪感を取り去るのは容易ではありません。
Aさんが「昆虫を気持ち悪くないと思えよ!」と言っても、それは無理な話です。


ただ、Aさんがやろうとしている「食糧難が起こったとしても、安定的に、安く、健康的な食事ができるために今から準備をした方がよい」という方向性についてであれば、Bさんも協力ができるはずです。
その中で昆虫食以外の解決手段が見つかる可能性も、0ではありません。

ただし、今回の選択的夫婦別姓の議論の場合、不利益は「夫婦同姓」という仕組みから発生しており、その解決策は「旧姓のままでも変更後の姓と同じように社会的な活動ができること」になってしまいます。
ただ「そもそも今の家族や夫婦の在り方は本当に望ましいものなのか?」という大きな問いに対して「夫婦別姓になったとしても家族の絆が保たれる在り方を模索する」という方向性もあるはずです。
(青野氏は、それをスコープに入れてしまうと今回の議論の進みが遅くなるのであえて外しています。理想論だということは分かりつつ、あえて書き記しています。)

自分は政治家でも何でもないので、国がどうのと言うつもりはありません。
ただ、一人の人間としてより良い社会で暮らしていきたいと思った時に、少しでも多くの人が苦しまずに過ごせる社会になってほしいと思うのです。
ただ、それを願うには環境の変化が早すぎて人の心の方が置いていかれてしまっている、という実感もあります。

それを乗り越えるためには、どこかのタイミングで、社会として必ず大きな変化も受け入れなければなりません。
だとすれば、その変化を受け入れる土壌を社会の中に作る必要があり、3つの注意点がそのヒントになるのではないかと、そう考えたのです。

以上で、現時点での考察は終わりです。
最後までお読みいただき、有難うございました。

2017年に読んでよかった本7冊のご紹介

最近、友人から「普段どんな本読んでるの?」と聞かれることが増えてきました。
オススメする本はその時々や相手の興味関心で変わるのですが、振り返りも兼ねて、今年読んでよかった本の紹介でもしてみようかと思い立った次第です。

 

そろそろ「今年最後に読む本は何にしようかなぁ」と考える時期だと思いますので、これを機に手を出してみていただけたならとても嬉しいです。
では、早速参りましょう。

 

■1冊目 『ニコマコス倫理学アリストテレス(渡辺邦夫訳)
哲学や物を考えることが好きと言いながら読んでないのは恥ずかしいよなぁ、と思って読みました。

感想としては「あれだけ幸せについて考えていたのにこの本読んでなかったとかほんと恥ずかしい」というもので、ここまで緻密に幸せについて考えている人がいたのなら、自分がやってきたことは一体何なのか、と思わされました。

また。途中で出てくる「デロス島の碑文」が非常に良かったです。曰く、

もっとも美しいのはもっとも正しいもの。
もっとも望ましいのは健康であること。
だが、もっとも快いのは人が憧れているものを手にすること。

快いことを良しとするかどうか、考える指針になりますね。
何にせよ、今年読んだ本の中で「1回一緒にのみにいきたい筆者ナンバーワン」でした。
叶わぬ願いなのが残念です。

 

■2冊目 『人生の短さについて』セネカ(中澤務訳)
賢者について知りたいと思い、それならストア派でしょうと思って読みました。

単刀直入に「人生が短いのではない。有効に使うなら偉大なことも成し遂げられる。だが、多くの人は浪費しているのだ」と言ってくれるのが心地よいです。
過去の時代の人も自分の職責の大きさや家族・親戚関係に悩み、それでもよりより人生を送ろうと努力していたことを知ることは、とても励みになりますね。

 

■3冊目 『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』NHKスペシャル取材班
読書会でお勧めいただき、素敵なタイトルだと思って読みました。

個人的な感想は「ヒトの心にフォーカスしたサピエンス全史」です。
ただし、語り口調で非常に読みやすいのと、NHKの方々がどれだけ深くまで掴もうとして仕事をされているのかという、とても質が高い仕事の一端を知れる貴重な本でもあります。

読み終わって感じたのは「この本を読まずに人の心について考えていたことが恐ろしい」ということ。
まだ読みきっていないので挙げていませんが『ミンスキー博士の脳の探検』で描かれているきちんとした論理の裏側に、こうした歴史的な積み重ねがあることを知っていると、論理と感情の両方から心というものに迫れる気がします。

個人的には、最終章で貨幣と心の関連性についても書かれていたのが素晴らしかったです。
永遠の富という概念は貨幣によって作られたというのは、人間の柔軟性を示すとても強い証拠になるな、と思います。

 

■4冊目 『なぜ弱さを見せ合える組織が強いのか』ロバート・ギーガン
良書『なぜ人と組織は変われないのか』の著者の本。一見タイトルですが、事例の会社をまったく知らなかったため、これは新しい本だと思い読みました。


とても良かったのが「社員は労働時間の半分を『弱点を隠したり、好ましい評判を維持したりする』という無駄な(お金を生み出さない)仕事に費やしている」という文章。
これに出会えただけで読んだ価値があった本です。

この本を読むまでは「所属する個人の幸福を考えた場合、大組織というものはこれ以上不要なのではないか」と思っていたのですが、組織によってより良く生きられる個人もおり、こうした組織はその個人の重要な居場所になると感じています。
それならば、大きな組織にも存在価値はあるだろうと。

逆に言えば、個人を幸福にしない組織に存在価値は無い、と言えてしまうところまで時代がきたのかな、と思っています。

 

■5冊目 『新・幸福論』内山節
先日「現代の幸福論が必要なんだよ」という軽はずみな発言をしてしまい「現代の幸福論ってなんだろう」と思ってAmazonで検索したら出てきたので読みました。

近現代の終わりを紐解き「個が失われた」のではなく「様々な関係性が遠くへ行ってしまった」ことを丁寧に語っていく内容です。
最近発売された『残酷すぎる成功法則』でも結局は環境との関係性が最重要という話をしていますが、その背景を知りたいのであればこの本が(日本に住む人であれば)おすすめできます。

ヒューマンで論じられている貨幣の話とも近く、近現代の弱点は多くの関係が投資(お金でお金を増やす行為)に変わってしまったことだというのは本当にそうだと思います。
お金は手段であることを自覚し、それによって達成したい目標(=幸福=満たされた状態)を明らかにし、良い関係を築くのが大事だよなぁと改めて思わされました。

 

■6冊目 『はじめての「禅問答」』山田史生
自分との関係性を見つめ直すなら禅だよなぁ、と思って読みました。

鈴木大拙さんの『禅』も読みましたが、あちらが教科書ならこちらは資料集。
気づいたらパラパラとめくってしまい、面白く読めました。

禅問答というと取っ付きにくく神妙な感じな雰囲気があります。
ただ、この本では非常に人間臭いところやいい加減な部分もあり、当時の「真剣に真理に近づこうとしていた人たち」の心構えや葛藤が分かって非常に参考になります。

「真理とは何ですか?」と師匠に聞いて叩かれたりそっぽを向かれたりすることはとても面白くて、そんなものは問いにしちゃいけないし言葉でやり取りするようなものではないんだよな、ということを教えてくれた本でした。

 

■7冊目 『隷属なき道』ルドガー・ブレグマン
これまで見てきた通り、周囲の環境や自分との関係性をどうするか?というのは人生におけるとても重要な問いです。
そうした中で「人間と社会のお金の関係性の編み変え」の動きとして注目しているベーシックインカムを推進している著者の本なので読みました。

副題がとてもイケてないことが残念ですが、内容はとても洗練されています。
経済が発展し続けなければならないこと、人間が働き続けること、稼ぎが多い人がもてはやされること。
これらは全て、過去の遺物として葬られるべきものです。
ただし、労働以外の仕組みで他者とうまく関わり、安定した環境を築くことはとても難しい。
なぜなら、労働というのは対価のためにイヤな相手ともコミュニケーションを取らせるための舞台装置だからです。
(これは一部を強調しすぎで、労働の中にも素晴らしいものは確かにあります)

そんなわけで自分はベーシックインカムには大賛成なのですが、そのためには人間の心を強くする(関係性を編み変える)方法を知らなければならないと思っているのです。

 

以上、今年読んでよかった7冊のご紹介でした。
こうして見ると、自分なりにあるテーマに沿って読んだ本が心に残っているなと思います。
自分の生活を豊かにすることもそうですが、どうしたらそれを世の中に一般化できるのか?
そんなことを考えられる本に出会えたらいいなと、心から思うのです。

幸せになるための3ステップと9+1の問いかけ

かれこれ3年ほどこのブログを続けているのですが、1番読まれているのが、2015年のクリスマスに「幸福(=幸せ)」について書いたこちらの記事です。

 

幸福について本気を出しすぎて考えたら、マズローの自己実現理論を更新して世界平和を希望していた話。 - canno-shiのすこしみらいを考える

 

今読んでもそこまで悪くないと思うのですが、回りくどくて長い(自分の文章は大体そう)のと行動につながる部分がなかったため、シンプルに分かりやすい形式で書き直したのが本記事です。

 

日本は元気がないだとか、周辺国との関係悪化だとか暗いニュースが多いのですが、年末年始くらいは前向きな未来を考えるきっかけになれば、という気持ちで書きました。

 

それでは、さっそく本編に入りましょう。
本記事の構成は以下の通りです。

 

1.幸せとは何か?の再確認
2.幸せになるための3ステップ
3.9+1の質問

 

1.幸せとは何か?の再確認

「幸せとは人生の究極の目的である」というのはアリストテレスの言葉です。
ではその幸せとはどういうものかというと、個人的には「満たされた状態が長く続くと確信できること」だと捉えています。(2年前と若干表現が変わっています)

 

この言葉は、以下の3つに分けて考えることができます。

1.満たされた状態
自分として満足していて、足りないものに思い煩わされることはない、という状態です。
どれだけ地位や名誉やお金があっても「もっと欲しい!」と思っているうちは満たされていない、ということです。

2.長く続く
一時的な幸せ(美味しいものを食べる、思いがけない大金が手に入る)は日々の活力になりますが、長期的な不幸せ(不健康になる、使い果たして貧しくなる)の原因になることもあります。
日々辛いことや苦しいことがあったとしても、少なくとも数年ぐらいのスパンで満たされていると感じられることが、幸せにおいては重要です。

3.確信できる
「今の満ち足りた生活がいつか壊れるのではないかと不安」というのでは、幸せとは言えません。
そこに至るまでの自分の行為や能力、人との関わり方に裏打ちされた結果として満たされた状態になることが、幸せの1つの要素となります。

 

この3つの要素を満たすには、どんな手順を踏んで何を考えればよいのか。
それを知るために、幸せになるための3ステップと9+1の質問を続けて見ていきましょう。

 

2.幸せになるための3ステップ
STEP1:自分が満たされることを感じる・理解する
STEP2:満たされるための環境をつくる
STEP3:つくり上げた環境を維持し発展させる

 

3.9+1の質問

STEP1:自分が満たされることを感じる・理解する
・自分が満たされたと感じるのはどんなときですか?
・自分が満たされるときのきっかけは何ですか?
・満たされないとしたら、基準を下げることと満たされるまで努力することのどちらを選びますか?

 

STEP2:満たされるための環境をつくる
・自分が満たされたと感じる時間を増やすために、何ができそうですか?
・満たされたと感じるとき、その影響度が高い要素は何ですか?(人、モノ、お金、達成すべき目標など)
・その環境をつくるために新たに取り入れるべきものや、捨て去るべきものは何ですか?

 

STEP3:つくり上げた環境を維持し発展させる
・その環境が3年後も機能するために、今取り組まなければいけないことは何ですか?
・その環境が1年以内に壊れてしまうとしたら、その原因は何ですか?それに対してどんな対策が打てますか?
・今の「幸せ」をもっと研ぎ澄ませたり、自分らしいものにすることはできませんか?

 

最後の1つ
・自分が幸せなままで、他の人を今よりも幸せにする方法はありますか?

 

 

いかがでしたでしょうか?
人によっては最初の質問で「ここ最近、心から満たされてるって感じたことあったっけ?」と詰まってしまう方もいるかもしれません。
その場合、自分の素直な気持ちや感覚と向き合う時間が足りていないのかもしれません。
何が自分の幸せにつながるかが分からなければ、ここで定義した意味で「幸せ」になることはできません。

 

逆に言えば、それさえ分かれば、そう感じられる時間やきっかけを増やし、環境を整えていくことで、幸せになることができます。
重要なのは、そのための選択肢を自分で決断し、選んでいくことです。
なぜなら、自分が目指すべきは「一般的な幸せ」ではなく「自分なりの幸せ」だからです。

この10の問いかけが、少しでもお役に立てることを願っています。

 

 

 

 

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さて、本記事の本編は以上で終わりです。
ここからは余談として「幸せになることが難しい3つの理由」を書いていきます。
ご興味がある方は、今しばしお付き合いくださいませ。

【理由1:自分の感覚を素直に受け取ることは難しい】
通常、人は目の前で起きていることを過去の様々な経験に照らして判断しています。
これはマインドフルネスの文脈でよく言われる「いまここを大事にする」という話と近いのですが、その経験に照らした判断は、基本的には偽物です。
私たちは「2日続けてお茶碗1杯のお米を食べた」と話しますが、今日食べたお米と昨日食べたお米はその炊き加減、食べるときの暖かさ、量が確実に違うのです。

これがお米ではなく「喜び」や「恐怖」であった場合、話の重要度がぐんと上がります。
自分にとって「より幸せにつながる喜び」や「より不幸せにつながる恐怖」は何か?
これを考えるために、喜びや恐怖などの意味合いを高解像度で感じ分けることが不可欠なのですが、これが難しいのです。

 

【理由2:満たされることは難しく、発展させることはより難しい】
自分が満たされていると感じるためには、今あるもので良しとする態度が必要です。
しかし、資本主義社会では常に個人の欲求は刺激され、今以上にお金を使わせる仕組みがあちこちに存在しています。
こうした状況の中で「今の自分は十分に満たされており、必要なものを手にしている」と確信を持つことは難しいです。

また、発展とは現状を変えていくことです。
「今あるもので良しとしながらその現状を変えていく」という矛盾を乗り越えることも当然のように難しく、変えていく中で必ずしも良い方向に向かうとも限りません。
現状を肯定しながらさらに良い未来を目指すためには、人生に対する前向きな姿勢が必要になります。
悲観的な人よりも楽観的な人が幸せを感じやすいというのは、こうした物事への取り組みやすさも影響しているのかもしれません。

 

【理由3:自分の幸せにつながる最適な方法を選ぶのは難しい】
突然ですが、なぜ同じことをしても幸せそうな人もいれば、不幸せそうな人もいるのでしょうか。
それは、幸せの形が個々人によって違うからです。
つまり、幸せになるための方法も、個々人によって違うということです。

一人ひとりが自分にとって最適な方法を選ぶことが理想的ですが、それを教えてくれる人は非常に少ないです。
「有名大学に行って大企業に就職して結婚して子供を育て上げる」という方法が多くの人を幸せにした時代はすでに過去のもので、現代では自分なりの方法を見つけなければなりません。

そのために必要なことは「様々な方法を知って試してみること」であり、色々な生き方・働き方・愛し方・考え方・感じ方・価値観などに触れることが前提となります。
逆に言えば、そうしなければ自分なりの幸せにたどり着くことは、非常に難しいと言えるでしょう。

 

 

最後に、幸せになりやすい人がいるとしたら、それは周囲の人に愛され、周囲の人を愛し、世の中的に評価されやすい分野で高い能力を持った人物だと思います。
それこそが、「長期的に自分が満たされている環境」を維持するもっとも根本的な方法だからです。

そうであれば、現代において身につけるべきことは「周囲の人と良い関係を築く方法」と「自分の得意分野を世の中で役立てる方法」の2つに集約されるのではないかと、そんなことを考えるのです。

12月は思考を飛ばすのにちょうどいい。

時々、ふっと思うことがあるんです。
「ああ、やっぱり世の中には、毒が足りないなぁ」と。
もっと言えば「毒を目の前にして目を逸らさずにいられる人はそこまで多くないなぁ」と。

 

ここでいう毒というのは当然そのままの意味ではなく、あえていうのなら「人の暗い感情を刺激するもの」とか「何か世の中に反抗するような、人の役に立たないけれど深い部分に刺さるもの」とか、そういうものを示しています。

 

おそらく、アングラな場所にはある程度あるんだと思います。
少人数で集まって、外に漏れないように、身内で楽しんでいる毒はたくさんあるんでしょう。
(それが本当に毒なのか、希釈されたものかはさておき)
ただ、それが身内に閉じている以上、結局世の中一般に広まるのは、前向きで、誰かの役に立って、きちんと利益も生むような、そういうものにならざるを得ません。

 

でも、人ってそんなに綺麗じゃないし。
誰かを妬んだり、大事なものほど壊してやりたいとか、他の人よりも優れていることを証明してやりたいとか、そういう欲を持ってるものだし。
それを綺麗にオブラートに包んで「私は自分の欲ではなく世のため人のためという使命感でやってござい」なんて、その方が見栄えがいいから(あと誰からも非難されなくて楽だから)そうしているだけで。

 

それをうまく世の中に適合させると「君の名は」とは「うんこ漢字ドリル」とかになるんでしょうけど。
そういうものを生み出せていない自分が何かを言っても、あんまり大したことにならないなぁとも思うんですけど。
でも、たまにはこうやって言葉にしておかないと、自分も薬漬けにされていることに無自覚になる気がしていて。

 

今年1年は仏教(禅)やマインドフルネス、ベーシックインカムなど「個々人の心や社会の平穏をどのように実現していくか」という方向を主に学んでいました。
その中で「なぜ人は変化をし続ける必要があるのか」「その変化がそれまで自分が培ってきたものを脱ぎ捨てる(アンラーニングする)ことであるのはなぜか」という問いが生まれており、その先に「個々人が自らの中に見出すべき拠り所とは結局何なのか?」という問いがあります。
だって、外部に依存してたらいつまで経っても平穏に生きられないじゃないですか。
ベーシックインカムは、社会システムとして限りなく平穏に近い状態を作ろうというものですが、資本主義社会が継続し続ける前提で成り立っているので、強度としてはそこそこレベルだと思います)

 

そんなわけで、僕たち私たちは「今すぐ死にたい」から「永遠に生き続けたい」の狭間の中で、他者や社会とうまく関わりながら、それらに依存せず自らの「善く生きる」を確立するという、非常に難しい仕事を与えられているわけです。
重要度と緊急度でマトリクスを組んだ時、緊急度が低く見えるから毎日は取り組んでいないだけで。気づくのは大体何か大きな事件が起きた時で、それまでの人生を変えなきゃいけないぐらいの場面なのですけれど。

 

最初の毒の話から、だいぶ遠くまで来てしまいました。
そこに関連性があるとすれば、世の中に毒を広めることと個人として社会の中で善く生きることが、矛盾しているように見えることでしょう。
この矛盾を解消するには「この毒はいずれは薬となり、社会全体が善い方向に進む」というものを見つけ、それを確信にまで高める必要がありそうです。
一見世の中に害がありそうなものを「きっと世の中の役に立つから」と突き進めて行くのは、良くて自己弁護でしかありません。
ただ、それすらできなければ、自分は「世の中で正しいとされていること製造マシン」にしかならないのです。
「それの何がいけないの?」と言われれば「あなたはそのまま真っ直ぐ生きてくださいね」と言うしかないのですけど。

 

20代も終わりに近づいて、いまだに大したことも成し遂げていない自分が「世の中」を語るのは非常に小っ恥ずかしい話なのですが、たまにはホラでも拭いていないと出来ることも出来なくなりますので。
12月はこんな感じで思考を自由に動かして、来年取り組むテーマをいくつか見つけられたら良いなと、こう思うのです。
さ、今年も残りあと1ヶ月。大胆かつ丁寧に過ごしていきましょう。

理性至上主義者が感情に意味を見出すまでの物語

 

あるところに、一人の少年がいました。

 

彼は、人類が何千年もかけて技術や思想や社会制度を進歩させてきたことに比べ、個々の人類がほとんど進歩していないように思えることを、とても不思議に思っていました。
彼なりに考えた結果、その根本原因は「感情に振り回され、理性を正しく使えていないからである」という結論に辿りつきました。

 

「恋愛は不合理だ。一時の感情で特定の人間を好きだの嫌いだのというのは理解に苦しむ。好意を抱くなら抱くとして、他人にも納得できる理由を明らかにすべきだ」

 

「感情的になるから判断を誤るのだ。常に理性が優先すればこそ、最適な解にたどり着く」

 

「政治家を理性的に選ばずして何が民主主義か。タレント議員などという言葉が生まれること自体、現代社会の未成熟さの現れである」

 

こうして少年は、あまり立派でない理性至上主義者になりました。

 

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やがて少年も月日を重ね、世の中的には大人と言われる年齢になりました。
様々な出会いから、その偏った思想は和らぎつつありました。
それでも彼は、理性至上主義者であり続けていました。

 

感情的な人を見ると「なんでこの人はこのように感情を公にできるのだろう。理解に苦しむ」などと、これまでとは別の意味で残念な考えに至りました。
「感情が人を癒すことは認める。だが、感情は人を救うことはない。救いは理性による」といった、中世のスコラ哲学者もかくやという思想も健在でした。

 

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ところが、やがて彼にも転機が訪れます。
ついに、理性を至上の座から引き下ろし、感情の方がとは言わないまでも、理性と感情を同列に扱うこともやぶさかではないという思想に至るのです。
その転機は、以下の3つの事項を了解することから生じました。

 

1.理性もそれほど万能ではない。それどころか、自分自身を欺くことすらある。
2.理性だけでは、選択はできても決断はできない。決断とは感情の産物である。
3.理性で全て上手くいくことは理想的だが現実的ではない。そして現実は理想ではない。

 

果たして、何が彼を変えたのでしょうか?
それは、理性に対する新しい捉え方の発見によるものでした。

 

彼は、理性という言葉を「思考、論理、順序立てられた考え、精密なシステム、明朗さ」と言った言葉と関連づけて考えていました。
つまり、理性的であるとは「あるほころびのないシステムに生き、論理の力を使いながら思考し、その考えを明朗に順序立てて提出すること」なのでした。

 

ただ、そのうちのいくつかは、思っていたよりも信頼が置けないものだということが分かったのです。
例えば、人間の思考はその人自身と無関係に生じることがあります。
目を閉じて「何も考えないように」と思っていても、明日の天気が気になったりやり残した仕事のことを考えたりしてしまうものです。
つまり、人間の思考には「自発的に行ったもの」と「自動的に浮かんでくるもの」の2つがあり、その区別は非常に難しいのです。

 

また、論理も万能ではありません。
いくつかの選択肢がある場合、論理的にその良し悪しを検討し、選ぶことは可能です。
ただし、現実においてあらゆる選択肢が提示されることはなく、様々な制約条件の中で不十分なものを自己の責任において選ぶことを「決断する」行為が必要です。
この場合、論理的に考えれば、文字どおり「何も選べない」ことになります。
ここで必要なのは感情、もっと言えば私情であり、それをもって自分の責任で完遂したり、周囲の協力を得たりするものです。
(さらに言えば、論理だけで誰かにお願いをした場合、感情を伴う場合よりも大抵は非常に受けが悪いという「現実」もあります)

 

さて。こうして少年は大人になり、理性至上主義を捨てることになったのです。
しかし、彼には新しい野望がありました。
それは、理性と感情、双方の影響下にある意思決定を最適化するメカニズムを明らかにすることです。
まるで料理のレシピのように「200℃に熱したオーブンで15分間焼いた理性に、きめ細かくなるまで混ぜた感情をかけた時がもっとも良い意思決定ができます」なんて話ができたら、素敵だと思いませんか?

 

こうして彼は今日も、自分の理性と感情を題材に、人類の進歩について考えるのでした。

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