canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

幸福について本気を出しすぎて考えたら、マズローの自己実現理論を更新して世界平和を希望していた話。

この1年間、気づけば「幸福について考える」というのが、自分の大きなテーマだったように思います。
最初は「どうすれば幸福になれるのか?」という問いを立てていたのですが、漠然としすぎて考えが深まらなかったので、具体的には下記2つの問いを考え続けていました。

■幸福とは何か?
■どうして人は幸福になりたいと思うのか?

考えていたら道は開けるもので、少し前に、この2つの問いに自分なりの答えが出せたので、それをまとめることで2015年の総決算としたいと思います。
いつも以上に長いかもしれませんが、年末のお供に、よかったら読んでみてください。
※以下に「幸せ」という言葉も登場しますが、幸福と同義だとお考えください。

 

■幸福とは何か?

幸福については、過去様々な人が独自の定義を打ち出していますが、どれもイマイチだなと思っていました。
wikipediaの「幸福論」をご覧になるとわかるとおり、キリスト教的な神との関連が強すぎて馴染めなかったり、幸福になるための方法論だけで「幸福な状態そのもの」に関しては何もわからなかったりするためです。

幸福論 - Wikipedia

 

他にも、Amazonのランキング大賞に選ばれた『嫌われる勇気』。きっと読まれた方も多いかと思いますが、そこで紹介される「アドラー心理学」では、幸福の要因として3つの原則が挙げられています。

 

1.自分が好き

2.他人を信頼できる

3.社会や世の中に役立っているという貢献感がある

 

3つの原則については納得しますが、これも「幸福とは何か?」という問いに答えてくれるものではありません。幸福が何か分からなければ、それを追い求めることもできません。

さて。前置きが長くなりましたが、ここでまず結論をお伝えします。

 

幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」です。
あっけない定義ではありますが、これが必要十分で、全てです。

 

たとえば、幸福について考えている中で、こんな問いにぶつかることがありました。

・どうして客観的には幸せそうに見えるのに、幸せでない人がいるのか?
・何も考えていない人は幸せそうだ。考えないことが幸せの秘訣なのか?

こうした問いに、上記の定義は簡単に答えを出してくれます。

客観的には幸せな環境(例えば、人やお金や幸運に恵まれている)でも、それを維持したりうまく活用したりする方法がわからず、ましてや悪事の果てに得た環境であれば、思い悩むことは尽きません。結果として、どんなに恵まれた環境にいても、思い悩む理由を排除できる自分にならない限り、幸福にはなれません。
莫大な資産を受け継いだ2代目が幸福になりづらいとするなら、その要因はここにあります。

一方で、思い悩まない=考えないことは一見幸福に見えますが、外部環境が伴わなければ、いずれ辛い現実に直面する日がやってきます。つまり、幸福と「現実逃避」や「思考停止」や「隷属」は、非常に近い関係にあると言えるのです。
ある男女が共依存関係にあるとして、本人たちはこの上なく幸せだと思っている状況は、ここから生まれます。

もちろん、この定義からもわかる通り、幸福とは徹底的に主観的・相対的なものです。
自分が「満たされている。悩みなど何もない。」と思えばどれだけ貧しく厳しい暮らしをしていても幸福でしょう。
しかし、根本的に人は他人と比較しないと自分を把握することができません。そして、SNSがこれだけ浸透した現代において、他人の状況は嫌でも流れ込んできて、比較対象としての他人をアップデートし続けます。

もし現代が幸福になりづらいとするなら、「他人の環境が分かりすぎる結果、自分の環境が実は満たされていないことが分かったり、なぜ他人よりも劣っているのかと思い悩んだりしやすい状況になっているから」だと言えるでしょう。

さて、ここに来て、最初の問いである「どうすれば幸福になれるのか?」という問題がより切実になってきました。けれども実は、幸福を定義したことで、この問いにもすでに答えは出ています。幸福になるためには下記のような問いを立てて検討すればよいのです。

・今の自分は何に満たされている/いないのか?
・本来、自分はどんな時に満たされている/いないと感じるのか?
・今の自分は何を思い悩んでいるのか?
・将来的にそれは解決可能か?可能ならどうやって解決するか?不可能であればどうしたら思い悩まないか?

もちろん、この問いに答えることは簡単ではありません。ですが、まったく手探りで進むよりは、これらの問いを道しるべに進んでいく方が、充実した日々を過ごせるはずです。

さて、困ったことに、元々の問いに早くも答えが出てしまいました。しかし、本気で考えた成果は、ここから発揮されていきます。

 

■どうして人は幸福になりたいと思うのか?

ここまででも十分、色々な悩みは解決できるのですが、そもそもどうして人は幸福を求めるのでしょうか?足るを知り、現状に満足してしまえばそれで良いのに、自分も含めて多くの人があてもなく幸福を探して彷徨い、つらく苦しい思いをしているのはなぜなのでしょうか?
つまり、「幸福なんか求めなければ、それが1番幸福」なのではないでしょうか。

これも、結論からお伝えしましょう。

 

人が「幸福になりたい」と思うのは、それが「根本的な欲求の1つ」だからです。
「お腹がすいた」「認められたい」と同じように、人は「幸福になりたい」と思ってしまうのです。

 

おそらく、「幸福を求めることが欲求」と言われてもよくわからないと思います。ここで、幸福という現象をもう少し別の言葉で言い換えてみましょう。
先ほど、幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」と定義しました。これを分かりやすく、かつ時間軸を加えて説明すると「衣食住が満たされ、自分の尊厳や価値も感じられ、他者に対しても同様の気持ちを持っており、これからも持ち続けることが確信できている」という状態に他なりません。
一言で言えば「思い通りに生きるために必要なものは全部持っているし、今後も持ち続けられる」ということです。

つまり「幸福を求める」ということは「自分の思い通りに生きるのに必要だと思うものを全部揃えていく」という過程であり、最終的には「他者や外部環境も巻き込み、自分の望む通りの世界を形作ること」だと言えるのです。
なぜなら、物質的なものであれ思想的なものであれ、自分が「こうだ!」と思うものを他人も大事にし、ましてや社会も尊重し続けているならば、それは自分にとって非常に好ましく、生きていきやすい世界だと言えるからです。
(ここに、以前書いた「価値観型社会」の片鱗が立ち現れてきます。)

 

それはさておき、仮にこの「自分の望む通りの世界を形作る」という欲求を「世界実現欲求」としたとき、実はマズロー自己実現理論と重ね合わせて、説明を行うことが可能です。
ご存知の方も多いと思いますが、マズローは人間の基本的欲求を5段階にわけ、生理的欲求~自己実現の欲求まで、ある程度の段階を経て人は欲求を満たしていくという理論を唱えました。

自己実現理論 - Wikipedia

 

この理論には様々な批判もありますが、感覚的にわかりやすく、かつ話を形式化しやすいという点で、実用的な理論だと思います。
ここまでは多くの方が知っていると思いますが、マズローが晩年に、自己実現の欲求の上位にある6段階目の欲求を提唱していたことは、あまり知られていません。
その欲求を、彼は「自己超越欲求」と名づけています。

背景としては、「自己実現」までだと個人と社会とのつながりが説明できず、奉仕の精神や隣人愛といった概念が扱えなかったために、こうした新しい段階が生まれたようです。
これは仏教や禅の思想にも通じていて、自己超越の段階になると「何ができるか」ではなく「どう在るか」とか「全体とはなにか」といったレベルで生活ができるのだそうです。

 

この「自己超越欲求」について、個人が確立された後に、望ましいあり方で社会と関わっていくという流れに関しては、特に異論はありません。
ただ、この「自己超越」という言葉は、非常に西洋的で日本人にはなじまないと思っています。ここで暗黙的に想定されているのは「近代以降の合理的個人が、その合理性を高めることで神=絶対的な存在に近づく」という流れであり、理想として目指すべき存在が想定されていると感じられます。
ですが、本当に「理想とすべき存在」は1つだけなのでしょうか?人種も生活環境も違う個々人が、すべて同じ理想を求めて生きているなど、現実としてあり得るのでしょうか?

残念ながら、私はそうは思いません。ここでの問題は、この「自己超越」という言葉では6段階目の欲求を示すのに不適切で、適用範囲が狭いことなのです。
(だから日本で広まってないのだと、個人的には思っています。)

 

ではここで「世界実現欲求」という言葉を考えてみましょう。
「自己超越」とは、「どう在るか?」といった概念的なレベルで世界と関わっていく姿勢でした。つまり、その人の何らかの思想や経験、個人的素養を踏まえた結果「自分や他人、そして世界はかくあるべし」という世界観を形にすることだと捉えられます。

一方で、そんな小難しいことは考えずとも「とにかく人が互いにやさしい世界になればいい」と友人との付き合いを経て、コミュニティを作りそこに加わっている人が楽しそうにしているという「自分なりの幸福な世界」を作っている人もいっぱいいます。
そこには「自己を超越する」というニュアンスはありませんが、自分ができることを精一杯行い、自分が望む「世界を実現する」という行為は、十分に達成されています。

 

つまり、本来「自己実現」を達成した個人が向かうべき欲求は「自己超越」ではなく「世界実現」であり、その規模の大小や善悪に関わらず、それこそが「幸福を求めるという一人の人間としての根本欲求である」ということなのです。

この「世界実現欲求」の重要な部分は、それ自体では道徳的・倫理的な判断ができないという部分です。もし「世界は憎しみに満ち溢れるべき」といった、昔のRPGゲームのラスボスみたいな人がいても、その欲求を否定することはできません。
また、駆け出しのバンドマンやクリエイターのように「俺は世界を変えるぜ!」といったところで、それだけの説得力や実力がなければ現実は何も変わらず、「この世界は間違っている」といった逃避につながってしまうこともあります。

ちょっとふざけて書きましたが、結局は「適切に愛情や承認欲求を満たし、自己実現をの過程で自分ができることを見極められなければ、人が幸福な世界をつくるハードルは非常に高いままである」ということです。

 

さあ、だいぶ幸福についての検討が進んできました。
ここで、今一度これまでの話を整理してみましょう。

 

・幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」である。
・幸福であり続けるには「満たされた環境」を他者や社会も巻き込んで実現し続けていくのが手っ取り早い。
・この「自分が望む環境=世界を実現したい」というのは人間の根本的な欲求であり、人が幸福を求めてしまう要因でもある。

 

ここまで来れば、「どうして組織では権力が発生するのか?(自分が満たされている環境を実現したいから)」「宗教で人は救われるのか?(望む世界を外から取り込める場合には救われる)」「自己実現を求めても幸せになれないのはなぜか?(幸せはその先の欲求から生まれるから)」というように、いろいろな問いに答えることが可能です。

そう考えると、結局この世は、思うとおりに生きたいという個人が、望む世界を実現するために戦う仮想的な陣取りゲームのようなものだと言えるかもしれません。

ですが、それを否定する気も、悲観する理由もありません。
前提として「人がこの世に生まれた理由はないが、楽しく生きる権利はあり、その理由を追い求める自由もある」と思っているので、むしろ「絶対的な幸せはこれこれである」という世の中の方がおかしいと思っています。

そして、この幸福の定義であれば、それぞれの人が自分の望ましい世界に向けて、思いっきり頑張ることが肯定できます。「世界平和を望む人が偉い」とか「自分の身の回りのことしか考えない奴はダメだ」とか、そんな区別は一切ありません。
どちらも、自分にとっての幸福を追い求めているだけだからです。その方が、現実的な考え方だと言えるのではないでしょうか。

 

ただし、現実的であることを重視するなら、1つだけ気をつけなければならないことがあります。
それは、世の中には「満たされた環境」を望むことすらできないほど悲惨な状況におり、「思い悩む」だけの知識や経験も持つことができず、日々生きるだけで精一杯だという人が、大勢いるのが現実だということです。
それは遠い国の話ではなく、日本国内にだってそうかもしれません。

とするならば、まずは誰もがこの欲求に自由に従い、幸福を求めることができる世界になることを望むことは、それほど間違いではない「次の時代の世界平和」の形だと言えるのではないでしょうか。

 

このように考えてくると、昨今言われている「『顧客』ではなく『個客』」とか「人工知能によって人のやることがなくなる」といったビジネスや生き方についての言説も、幾分理解がしやすくなると思います。
もし「自分にもこの考え方が役に立った!」などという方がおられましたら、ぜひどんな場面で役立ったかをお教えいただけたら、とても嬉しく思います。