canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

気軽にシェアできない体験を作るということ

最近「フォトジェニック」然り「バズる」然り、個人・企業問わずSNSでのシェア(とそれに付随する「いいね!」)を最大化することを目的に沢山の施策が行われています。
 
それはそれで大事なことで、誰にも知られずに終わるくらいなら、多くの人に知ってもらうためにSNSを活用するのは当然だと思います。
(だからといって、炎上や虚言を意図的にやるのは道徳的に良くないと思いますが……。)
 
一方で、最近強く思うのは「本当に素晴らしい体験をしたのなら、それは気軽にシェアしたくないと思うのでは?」ということです。
「1番のオススメのお店は教えたくない」という心理が近いでしょうか。
 
気軽にシェアできる話題というのは、誰もが共感できる一般性の高いものです。
一方で、本当に自分にとって大事な経験をした場合、その物事自体を公にシェアするかと言えば、そうではないと思うのです。
なぜならその経験は、その人個人に深く紐付いた独自性の高いものであり、他人と共感したり分かち合ったりするのが難しいものだと分かってしまっているからです。
 
ただし、個人で楽しむばかりで客層が広がらないと、人気や利益が出ずに続かなくなるというジレンマもあります。
そのジレンマを乗り越えて「特別な経験を提供しつつ、確実に客層を広げて、しかも質は落ちない」ために何ができるのか。
それを実現しうるとしたら、それは一体どんな施策なのか。
そんなことを、最近はよく考えています。
 
1つ考えているのは、これまで書いてきたことと反する部分もあるのですが「特別な経験を何とかして届けようとすること」がその答えの一部なのでは、ということです。
 
分かり合えないものを分かち合おうとすること。
自分の中にある、とても大事だけれど表現できないものを、なんとか言葉やイラストや、その他の表現に乗せて伝えようとすること。
そうした行為の積み重ねが、深いところでの共感を生み出しうると思うのです。
 
ここまで考えてみると、つまるところ重要なのは「いかに自分なりの深い体験をするか」だと言えそうです。
この点については「五感の重要さ」というテーマで後日また深掘りしますので、どうぞお楽しみに。

半休半労のススメ

今日は奥さんの誕生日だったので、せっかくなら一緒にいれる時間を作ろう!ということで午後からは家で仕事をしていました。
先週から業務を調整して、ミーティングがなければ家でできる仕事がほとんどなのは、とても良いことだなぁと思っています。

 

そして、家に帰ってからもすぐに仕事をするわけでなく、まずは10分昼寝して、起きたら妻と世間話をして買ってきたケーキを食べて、「あー仕事やるの面倒くさいなー」とか言って、そこからガッツリ仕事を進めるわけです。

 

設備がある場所で行う仕事はなかなか上記のようにはいかないでしょうし、人によっては「そんないい加減な形で働くんじゃない!」と言われそうでもあります。
ただ、生涯働き続ける可能性がある時代に、仕事に全てのリソースを割くのは戦略として拙い気がするし、パフォーマンスを高く出し続けるためにも定期的に「半分休みながら働く」という感覚は非常に重要だと思うのです。
(普段は普通に終日働いていますが、それすらも「本当に必要か?」と思っています。)

 

もっと率直に言ってしまえば、自分にとっては奥さんの大切な日にできるだけ一緒に過ごして、美味しいものを食べて、ゆっくり話すことが、人生のあらゆる面でレバレッジのきく、有効な時間だと捉えているのです。

 

ちなみに、職場の人間関係を大事にするロジックとしてよく「職場の人間と過ごす時間の方が家族よりも長い。」という話が言われます。
そこで、以下の要件でちょっと計算してみました。

・22歳から働き始め、65歳までの43年間働く。
・平日は11時間仕事をする。家にいる時間は7時間である(その他は睡眠、通勤など)
・30歳で結婚し、夫婦ともに80歳まで生き、50年間を一緒に過ごす。
・土日は仕事はしない。夫婦で過ごす時間は10時間とする。

 

この時、会社で過ごす時間は115,885時間です。年にするとまる13年間分です。
とても長いですね。
では夫婦で過ごす時間はというと145,750時間です。年にすると約16年間分。
約3年、3万時間分も、夫婦で過ごす時間の方が長いのです。

 

そもそも結婚するしないとか、夫婦関係がどうあるべきかとか、そういった議論も重要ではありますが、それを横に置いたとしても、限られた自分と時間というリソースの中で、どこに力を注ぐのかは非常に大切な考え方だと思います。
そこに対して、若干冗談ではありますが「半休半労」のような、「仕事は全力でやるべき!」といった考えとは別のものをぶつけることで、別の視点も獲得できるのかなと思っています。

 

こういう話を考えていると、結局は「個人として強くなろう」「自分にとって望ましい環境を構築しよう」という2つの話に集約されてしまうのですが、、、その細部に大事なことがあると信じて、書き続けてみましょうか。

「正直者はバカを見る」という言葉は、強いけれども嫌いです。

突然ですが、私は小さい頃から「正直者はバカを見る」という言葉が嫌いです。
嘘をつくと疑心暗鬼が生まれてコミュニケーションコストが上がりますし、誰かに騙されれば次は誰かを騙そうと思って騙しの連鎖が生まれるし、悪いことをしている人が得をする世界は間違っている!と心から思います。

 

ただ、これは初日に書いた「ルール違反をした方が強い」と同じ話です。
誰もが正直な世界なら、嘘をついた人が1番得をします。
そもそも情報格差があるところには富の源泉がありますから、相手に与える最適な情報量は「自分が望むことをやってくれる最低限の量」となってしまいます。

 

もちろん今は話が違う場面もあって、1つの目標を目指す組織の場合、できる限り全員に多くの情報を渡し、独自で考えて行動できる人が多い方が強くなる、ということもあります。
ただ、それも同じ組織=互いに目的や利益を共有している場合であって、互いの信頼感に加えてインセンティブが近いところにないと機能しないでしょう。

 

嘘をつくことも、誰かを傷つけることも、人を人と思わない扱いをすることも、それ自体の良し悪しは判断できません。*1
ただ、少なくとも自分はそういう人になりたくないし、そうではない人と関わっていきたいと思うのです。

 

そんなわけで、色々な人と会って自分の中の人物データベースを、できるだけ多様にすることを心がけています。
その意味では、一時期人事の採用の仕事ができたことは幸運でした。
転職というその人の人生の大事な局面で、真偽を織り交ぜながら話す多くの人と触れ合うことができたからです。

 

経験値的には全く少ないですが、それでも第一印象の精度を上げて、「この人は信頼できそう」とか「もうちょっと話してみよう」といった直感力を大切にすることを心がけて来ました。
だいたいにおいて、思考以前の感覚は正しいことが多いのです。

 

とはいえ「本当は相手が何でも正直に話してくれれば楽なのに」とは、今でもたまに思います。
「すぐに相手の人となりが分かればいいのになぁ」という点で、友人の言葉で本当にそうだなと思うものがありまして、勝手ながら紹介します。

 

例えば知り合った男の人が、お酒飲んだ時の悪癖は無いか、とか、人のことを見下さない人か、とか、私が本屋で長時間うろうろしても怒らない人か、とか、すぐわかればいいのにね。

 

……なんかこれだけ切り出すと物凄くセンチメンタルな言葉に見えますね。
それはそれとして、人なんて多様な面があるので、昨日は優しかった人が明日は誰かを踏みにじることもあるでしょう。
そうだとしても、せめてその人が「不条理に誰かを傷つけたりしない人か」といったことがもっと分かりやすくなれば、多くの人が過ごしやすい世の中になるのになぁと思うのです。
そんな仕組み、どうにかして作れないものかな。

 

昨日に続きふわふわしたことを書いてしまっているのですが、久々に現実から浮いたことを言葉にしてみようということで、ご容赦くださいませ。

*1:基本的には悪いと思いますが、断定することはできません。

トンデモ未来妄想記。あるいは100年後の人類について。

4日目にして、過去の話を真面目に書くことに飽きてきました。
難しい話とか真面目な話ばっかりしていると、反動でどうでもいいことを考えたくなるのです。
というわけで、何事もバランスだよなぁと思いまして、今日は未来の話を妄想で書きます。

 

どのぐらい未来の話を妄想しましょう。
ざっくりと100年くらい先が良いかもしれません。

 

この100年、色々な技術の発展があると思いますが、方向性として1つあるのは「身体の機械化」だと考えています。
これまで人類は「身体を外部化する」ことを続けてきました。
望遠鏡(視覚)や電話(声と聴覚)などはその分かりやすい例ですが、自分の身体が持つ機能を拡張したり外部に置き換えてきました。
その結果、宇宙の果てを観測したり世界中どこにいてもリアルタイムでコミュニケーションできるなど、様々なことができるようになっています。

 

この「身体を外部化する」流れはウェアラブルバイス等で引き続き進みますが、今後はそれよりも「身体自体が機械化する」流れが強くなると思います。
すでに身体の一部(腕や脚)を機械に置き換えて(あるいは機械を装着して)生活している人もいます。
イーロンマスクによれば、これから5年程度で「脳とコンピュータが直接繋がる時代が来る」と言い、そのための会社も立ち上げています。*1

 

脳とコンピュータが繋がって意味を持ち始めるのが5年後ですから、100年後には途方もないことが起きていそうです。
子どもは体外受精が基本となり、生まれた瞬間から臓器が機械で補助され、確実に健康体として生まれてくる。
この場合母親の負担もないので、出産によるキャリアへの影響も起こり得なくなる。
それどころか、卵子精子は他の細胞から作り出せるので、男同士・女同士での出産(もはや言葉も変わっているかもしれませんが)も可能になっている。

 

いや、そもそも子どもを産むか自分のクローンを作るかを選択できるようになっていて、人類は史上初めて「種の滅亡を心配しなくて良い生物」になるかもしれない。
その頃には星間移動も可能でしょうし、エネルギー効率も今の何万倍にもなっていておかしくありません。

 

身体の機械化から話が逸れました。
ここからもう少し考えたいのは、もし将来的に本当に身体が機械に置き換わるとしたら、人々の倫理観や人生観は今とまったく異なったものになるだろうということです。

 

例えば、ものすごく卑近な話をすると「足が速いからモテる」という要素がなくなります。
つまり「身体的に優れた異性に魅力を感じる」という生物としての本能が変わってしまう可能性まであります。
なぜなら、その時代に優れた身体能力を持っているのは「より対価(お金というよりは電子的な何か)を出して身体を機械に変換している人」であり、その人の生物・遺伝的な要素は一切関係なくなるからです。
そうなると、異性を選ぶ基準もかなり変わってくるかもしれません。

 

そもそも「生まれたままの姿で生きる」ということ自体が時代に沿わない可能性もあります。
一部は原理主義者的に、一切機械化せずに生きる人たちもいるでしょうが、大半の人は「昔は生まれたそのままの骨と肉とで生きてたんだって。不便だよねー。」くらい言っているかもしれません。
スマホがなかった時代って待ち合わせで出会えないことがあったらしいよ。不便だよねー。」と言うのと、同じくらいの感覚で。

 

逆に、将来の人類には「人間の肉を通じて何かに触れる感覚」が理解できなくなるかもしれません。
指で油の温度が上がる天ぷら職人、触り心地で木材の良し悪しをみる大工なんて人たちは、もう存在しないかもしれません。
それは「職人が消える」という話ではありません。
「個人による身体的な体験の差がなくなる」、つまり「個という存在を定義づけるものが1つ減る」ということを意味していると、そう思うのです。

 

思ったよりも長くなってきたので、この辺りにしておきましょう。
個人的には「未来はどうなるか」といった漠然としたテーマには、あまり興味がありません。
それはなるようになるし、そのスピードが速いか遅いかの違いだけだと思うからです。
それよりも「もし科学技術が超発達した場合、その時代の人間の常識はどうなっているか」というテーマの方が興味深いですし、そんな話ができる飲み会ならぜひ開いてみたいなぁ、と思うのでした。

42年間、1つの会社で勤め上げるということ。

この三連休は、地元の岩手県に帰っております。
実は父親が今年還暦を迎えまして、そのお祝いをしたのです。
久々に祖母や兄夫婦も揃い、普段は行かないようなお店で美味しいご飯を食べて盛り上がりました。

 

父親は高校を卒業してすぐ就職したため、今年で勤続42年となるようです。
自分仕事歴のおよそ7倍。どうにも想像ができません。
決してやりたくて入った会社ではないようですが(そもそもそのような選択の概念は、当時はなかったようです)、その間転勤や単身赴任もありながら家も建て、病気も乗り越え、偉くはなりませんでしたが息子二人を育てました。
私としては一人の人間らしく、親に対する色々な思いはあれど、それ自体が本当に凄いことだと思いますし、有難いことだと思います。

 

さて、つい先日ハーバード・ビジネス・レビューの元編集長である岩佐さんが、下記のような記事を書かれていました。

 

覚悟をもって組織に居続ける人 | 岩佐 文夫 | note

 

自分はすでに転職をしています。
今の時点で「1社に勤め上げる」という経験は、もはや出来なくなりました。

 

世の中的にも「強い個人」が推奨され、どこででも生きていける力を身につける=転職を前提としたキャリアというのも一般的になりつつあります。
しかし、組織が安定的に継続し、魅力的であり続けるためには、当然ながら「その組織の発展を支え土台を維持していく人」の存在が不可欠です。
そういった人たちがいなければ「強い個人」が活躍できる場自体が消え去ってしまいます。
(もちろん、支えてくれる人を集めることも強さの1つだと思いますが。)

 

自分の父親がその覚悟を持って勤めていたかは気恥ずかしくて聞けませんが、少なくとも「家族を食べさせていかなければ」という責任感は持っていたはずです。
それを「親なら普通」と言ってしまうのは、あまりにも乱暴だと思います。
少なくとも自分は、自然に暮らしていてもその覚悟や責任感を持てないだろうと思うのです。

 

「変化が激しい時代だ。だからこそ自分のキャリアに柔軟性を持たせてどんな局面でも生き残れるようにすべきだ。」

 

そういった論は正しいと思う一方で、物事の一面しか切り取っていないとも感じます。
なぜなら、どんな局面でも生き残るための方法には「自分が生き残れる局面を作り出すこと」も含まれるからです。
それは、柔軟性とは対極にある力が必要だと思うのです。

 

岩佐さんの書かれている通り「自分以外の何かを背負って生きる尊さ」を忘れないこと。
個人として自分を扱いながら、同時に周囲の環境を含めて「自分」として生きることの深まりを大切にすること。
父親の42年間を思いながら、そんなことを考えました。

変遷1.周囲の人を尊敬できるということ

今でもたまに言われるのですが、自分には少し生意気なところがあるようです。
確かに、高校生の頃部活の先輩に「お前、俺のこと尊敬してないだろ」と言われたことがあります。
そんなことを言われたのは初めてでしたから、「そんなことないですよ!」と言いつつも「なんで1年早く生まれただけで人を尊敬せにゃならんのだ。偉人レベルになってから出直してこい」と思うくらいには、生意気な時代もありました。

 

どうしてそんな風に思っていたかというと、「他人と自分は違う」と考えることで自分を保っていたのですね。
これは「自分を正しく持つ」という前向きな話ではなく、例えば以下のように考えていたのです。

 

・あいつは運動ができるけど、自分は勉強ができるから大丈夫
・あの人は話が面白いけど、自分はゲームが上手いからほぼ一緒
・彼は異性からモテるけど、自分は恋愛より大事なものを知っている*1

 

今から思うと恥ずかしくなりますが、要は自分に自信がないので、勝手に負けず嫌いになって他の人の良いところを認めることができなかったのです。
これは誰かの良い(得意な)部分と自分の悪い(苦手な)部分を比べるということですから、結構苦しい状態でした。

 

この状態から抜け出せたのは、仕事を始めて3年経ったくらいかと思います。割と最近ですね。
なぜかというと「ある目的に対して、それを達成する手段は何でも良い」ということに気づけたからだと言えそうです。
もう少し詳しく書きましょう。

 

新卒で入社した会社の役員から聞いた、印象に残っている言葉があります。
それは「俺はたとえヤカンでも誰にでも売れる」というもの。
営業の仕事について話していた際の言葉ですが、当時の自分は「ヤカンなんか売られても相手が困るだけだろ」と思っていました。
「そういうことを言っているわけではない」と気づいたのは、その会社を辞めてからのことです。

 

「ヤカンを売る」という目的に対して、その手段は色々な方法が考えられます。
あるいは、ヤカンを売るのはより大きな目的の一部でしかない、といったこともあるでしょう。
ヤカンの実用的な価値を伝えるだけではあまりにも芸がなく、その前後の関係性や取引の全体性、および将来性を含めたあらゆる状況を考慮して本当は必要でないヤカンが売れるなら、それはとても凄いことだと、やっと納得できるようになったのです。*2

 

そうやって周囲を見渡してみると、大きなことから小さなことまで、自分なりのやり方で成し遂げている人がいることが見えてきました。
そして、色々な理由をつけて斜に構えて、何も成し遂げていない自分が恥ずかしくなってきたのです。
そこまで来ればあとは自然の成り行きで、「自分が何も形にしていないこと」を自覚し、考えるだけではなく行動することの重要性を感じられるようになりました。
その結果、何かを形にしている人は、無条件で尊敬できるようになったのです。

 

自分の中で考えるだけではなく、実際に行動し形にし、周囲の人の目に見えるように自分の成果物を出すこと。
周囲の人を尊敬し、できない自分を受け入れ、必要以上に自分を卑下しなくなったこと。
この2つが、自分なりの「人生での相手との関わり方」が変わった瞬間の1つだったように思います。

 

★てれれれってってってー♪意識レベルが1高まった!★

 

それはそれとして。
このブログを続けるにあたり、「汝自身を知れ」という格言は至るところに影響すると思います。
この格言の持つ重さを噛み締めながら、明日からもキーボードを叩き続けていきましょう。

*1:当時考えていたことは、それはそれで面白いのでどこかでもう少し詳細に書きたいと思います。

*2:知ることと納得することは大きく違います。それについても近いうちに書きたいです。

意識低い系の生存戦略

まずは、何も言わずにこちらをご覧ください。
『スタートアップで働くミレニアル世代の思考書き下ろし 30日間 - 第3期』

 

いかがでしょうか。
意識高い感じ、しませんでしょうか。

なぜ自分がこの中にいるかは甚だ疑問です……と言いたいところなのですが、最近は自覚するようになりました。
「あ、自分も意識高い人になったな」と。
「大学生の時に揶揄していた存在に、自分もなってしまったな」と。

 

そもそも「意識高い」というのは「張り切っちゃってる痛い人」といった意味合いです。
大学生の頃、自分はできるだけ社会に出たくなく、働きたくもありませんでした。
「働くことに対して前向きである」というだけで、他人を「意識高い認定」をしていました。
今でも「5000兆円あげる」と言われれば、喜んで引きこもりになれる自信があります。
もともと、そのぐらい意識の低い人間なのです。

 

さて、本当に突然ですが、ここで人生をアナログなゲームに例えてみましょう。
今話題の将棋など、分かりやすいかもしれません。

 

ゲームをするにあたって、そのゲームを楽しみ、そしてもし勝ちたいと思うなら、絶対に知らなければいけないことが3つあります。*1

 

それは
 1.勝利条件、または敗北条件
 2.ルール、または禁止事項
 3.相手の強さ、または弱さ
の3つです。

 

将棋で言えば、相手の王(玉)を詰んだ状態にすれば勝てます。
基本的な駒の動かし方やルールが分かれば遊べますし、相手との力量差が大きければ、使う駒を減らすことで互いに楽しむこともできます。

 

さて、上記の文章は、本当に正しいでしょうか?
まず、将棋の勝利条件は「詰み」だけではありません。投了の宣言や時間切れでも勝敗が決まります。
基本的な駒の動かし方がわかっても、最低限の戦略や序盤〜終盤の流れを知らないと楽しくありません。
勝ちを重視する場合、強い人が弱く振る舞うこともあります。

 

今回は将棋を例に挙げましたが、ゲームというものは通常絶対の正解はない(あると遊びの要素がなくなり、ゲームとして機能しない)ため、自分なりに深めることができます。
私は先ほど「人生をアナログゲームに例える」と言いました。
なぜなら、人生もこの3つのことを知り自分なりに深めていかないと、楽しめないものだと考えているからです。

 

人生の勝利条件とは何か。
これには哲学や文学が役に立ちそうです。あるいは、芸術、宗教なども関連するかもしれません。
周囲の人に色々と話を聞くのもいいでしょう。

 

人生のルールとは何か。
生物学や物理学を始めとする自然科学は「地球という環境で生きる」上で重要ですし、社会学歴史学はそのまま「社会的に生きる」上で知る必要がありそうです。
あるいは、私たちは言葉を使い五感を通じてコミュニケーションをとっていますから、言語学や論理学、身体論なども参考になりそうです。
もちろん、多種多様な環境に身を浸すことも大事でしょう。

 

人生の相手とは何か。
周囲にいる親密な人から、つながりの薄い人まで様々でしょう。また、自分自身も「相手」に含まれるかもしれません。
人間一般のことを知るなら心理学が手掛かりになりそうですし、文化人類学やネットワーク理論も知っておいて損はなさそうです。
何よりも、まずは相手と一人の人間として付き合うことも重要そうです。

 

さて、人生というゲームの恐ろしいところは「勝利条件やルール、相手の強さ弱さが時と場合によってガラガラと変わる」ということです。
将棋では、二手指し(続けて2回指すこと)はルール違反ですし、2歩(成っていない歩を2枚以上同じ列に置くこと)は禁じ手です。
それをしてしまうと、ゲームとして成り立たなくなるからです。

 

ただし、人生では場合によって、このルールを破った人が勝ちます。
なぜなら、ルールを破ると強いからです。
1回に1つの手しか指せない人より、2手3手と指せる人が勝つのは、火を見るよりも明らかです。

 

そしてまた、人生においては勝利条件(言葉は不適切かもしれませんが)も変わります。
というよりも、現代においては「決まった勝利条件などない」という方が正しいかもしれません。
混迷の時代というならば、「何を目指していいか分からない」というのが、その最たる理由なのでしょう。

 

自分には「自分は生きるのが下手である」という自覚があります。
どうにかこうにか「生きるのが上手くなりたい!」と思って色々とやってきた結果、今では立派に意識が高くなりました。
人によっては、「あいつ痛いな」と思うかもしれません。
「生きるのが上手くなりたいって何だよ」みたいな。

 

それでも、今の自分には一定満足していますし、これからももっと多くのことを知りたい・実現したいと思っています。
意識が低く、生きるのが下手な自分が、何を経てそれなりに仕事や家庭で楽しく過ごせるようになったのか。
そんなことを30日間書き連ねることで、同じような気持ちになっている誰かの役に立てば、これ以上の喜びはないなぁと思います。

 

最初なのでもっとサクッと書き切ろうと思ったのですが、相変わらず長くなってしまいました。
こんな調子が続くと予想されますが、これから30日間、よろしければゆるりとおつきあいくださいませ。

*1:別に2つでも4つでもいいのですが、やっぱりこういう時は3つですよね。