canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

クソコラグランプリに見え隠れする日本の病理

突然ですが、ISIS(イラン、シリア、イスラム国)の件に対するネットの反応って見ましたか?

その中で、「クソコラグランプリ」っていう画像が拡散されているのを知っていますか?

もしご覧になっていれば、あの画像って、面白かったですか?


個人的にはあんまり秀逸なのは無いな、と思ったのですが、もともとこの手のネタが好きということもあり、「こんな画像をつくるなんて不謹慎!ひどすぎる!」という100%の抵抗感までは抱きませんでした。


でも、それ以上に、久々にかなりの恐怖を覚えました。

日本がテロの対象になるんじゃないか?と思ったからではありません。(これも正直に言うと、ちょっとはあります。)


あまりにも無思慮で、無責任で、無配慮な「大衆」の姿が、それらを病理として抱えた存在として、そこに見え隠れしていたからです。


この「大衆」の姿は、本件に関して、あちらこちらで見ることができます。

「テロは断じて許してはならない!徹底抗戦すべき!」や

「危険を分かってて訪問したその人たちが悪いから殺されても仕方ない」や

「日本は国民を見殺しにする悪逆非道の国家だ!」など、極端な見解や我関せずの態度をとる多くの方に、先ほどの病理が見られます。


無思慮とは、考えないということです。

ある情報に対して、ある感情や思い込み(「ネタにできそう」とか「戦うべき!」とか「どうでもいい」とか「国がひどい!」とか)がまず浮かんで、それをそのまま表現しているということです。


無責任とは、表現には責任が伴うということを知らない、ないしは自覚していないということです。

今の日本では、表現は0円でできますが、タダではありません。各種炎上事件を思い返せば、有名無名問わず、表現の対価を受け取っていることが分かります。それは、その表現を非難する、炎上させる側にも、本来的には発生している対価です。


無配慮とは、他者の視点が欠けているということです。他者とは、自分のフォロワーだけでなく、その外にいる人たちも含みます。

クソコラグランプリも、マンガやアニメなどの創作物で行っている分には、内輪ネタで終わります。あくまで想像の世界の出来事だからです。

ただし、そこに政治や宗教の要素を含んでしまえば(本人は無自覚だったとしても)、必ず現実との交流が発生します。当然、そこを支配し始めるのは現実のルール、「ネタをネタと見抜けない人は」では済まされないルールです。

(余談ですが、想像の世界の出来事でも激怒したり悲しんだりする人がいるのは、その人にとってはそれが現実の世界に等しいからです。)


実際、現在TwitterFacebookで起こっている大多数の表現は、これらの要素を持っていると感じています。

一方で、思慮深いとお見受けする方々は、本件に関してネットではほぼ発言されていません。すぐに、考えなしの同意、反論、逸脱が溢れること。つまり、反応する方々がやりたいことは何らかのやり取りではなく、1つの発言をダシにした自己表現であることが、分かっているからでしょう。


ここまでを踏まえて、表現の自由の問題に行くこともできます。あるいは、ネット上での議論の仕方や、そもそも発言する際の、意見とその人自身の未分化についても飛ぶことも可能です。

個人的には、TwitterFacebookの場としてのつまらなさについて、一度まとめてみたいです。(場としての有用さという観点では、とてつもない恩恵を受けています。)


けれども、本日は1つの結論と仮説を提示して終わることにします。

本日の結論は、振り切った極論もどっちつかずの態度も、いずれも自分で自分のバランスを取る力がないことの裏返しである、ということです。

それは、3つの病理から自然発生的に生まれる態度です。


では、3つの病理の根本とは何か。

それは、他者と思想・信条的につながりたいという欲求が、ネットを見ているだけで自分勝手に簡単に満たせてしまうという、まさにその内にあるという仮説です。


今現在満たされていれば、改善・成長の意欲も湧かず、緩やかに破滅することも受け入れられてしまう。

多かれ少なかれ、様々なレイヤーで確認できる現象も、同じ原因を抱えているのではないかな?と、そんなことを、なんとなく考えています。


エンタメって、結局なにかね?~桑田さんのお詫び文から考える~

 

サザンオールスターズ桑田佳祐さんが、紅白でも放映された年越しライブの演出について、お詫び文を発表されました。

 

http://www.amuse.co.jp/saslive2014/

 

紅白放映直後から

「つけひげは独裁者をにおわせるメッセージか?」と騒がれたり、

ライブの様子から

紫綬褒章の扱いがひどすぎやしないか?」と言われていましたが、

それに対して公式見解を出すということは、エンタメという領域では保護し切れない、無視できないことが多くなりすぎたんだと思います。

 

それは、お詫び文に含まれる以下の点から感じられます。

 

「お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。

すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。」

 

どのような意図があったのであれ、ライブに関わる方々が「お客様を満足させる最高のエンタテイメント」を目指していた、というのは、信じてよいと思います。

音楽に平和を願う気持ちをのせるというのも、通常行われていることです。

 

今回明らかにまずかったのは、そのためのツールとして「紫綬褒章」という、権威の象徴を用いたことでしょう。

権威者から何かをもらうということは、本人の想いはどうあれ、その権威の内に所属したというメッセージを発します。

おそらく、紫綬褒章を受ける前と後で、意見を言ってくる人の数も層も大きく変わったでしょう。それだけ、権威の周りには多くの人がいます。

そしてその人たち(おそらくは「お客様」ではない人たち)には、エンタメの文脈が通用しなかったと、こういうことでしょう。

 

エンタメ=遊びはあくまで「実利のないもの」だから、その辺で好き勝手やっている分には見逃してやる。

でも、中央に属しながらそんなことしてたら、痛い目にあうぞ。

 

そんなメッセージが、この件からは透けて見えてきます。

エンタテイメントは1つの表現手法であって、その枠に収まる限り、ある程度の思想・表現の自由が認められているはずです。

ただ、その枠から出るにはとても大きなリスクが伴うでしょうし、近頃、そのような戦いをしているエンタテイナーを見ることもありません。

 

社会と戦うだけがエンタテイメントではありませんが、現在のマスコミ上に出ている「芸能人」と呼ばれる人たちにその感覚はほとんど感じられませんし、もしこの件でリスクを取る人がさらに減るのであれば、それはとても悲しく、損失の大きいことでしょう。

そして、この損失の大きさを感じられない人が多数だとするなら、それこそが大きな悲劇だと言えるかもしれません。