「未来という不確かなものにどうやって向き合うか?」という問いに対する、1つの回答。
今年に入ってから「社会や組織、アートやエンタメの未来ってどうなるんだろう?」と考える機会が増えました。
その中で、そもそも「未来という不確かなものをどう考えるのか?」というある種の姿勢自体がとても難しいな、と感じる場面が多くありました。
そちらに対してある程度自分の考えがまとまったので、書き残しておこうと思います。
今回は、WIRED日本版の前編集長、若林さんのインタビューがとても面白かったので、そちらを踏まえて書いていきたいと思います。
全体の内容はリンク先を読んでいただきたいのですが、「未来の社会」を見据えた発言として、以下の言及があります。
北欧なんかを見てると、「企業」という主体が経済と社会のメインのドライバーであるという考え方自体がもはや終わっていくんじゃないかという見立てが裏側にあるように思えたんです。
彼らは、そうした個人を「マイクロアントレプレナー」と呼んでいます。マイクロアントレプレナーというのは、言い方としては格好いいんだけど、要は個人事業主のことで、自分でそうしたくてフリーランサーや個人事業主になっている人だけでなくて、企業が倒産して失業した人もそこには含まれます。
要は、これからますますたくさんの人が、そう望もうが、望まざろうが個人事業主みたいな形で複数のクライアントを相手に業務を掛け持ちしなきゃいけなきゃならなくなるという時代なんです。
そうした時代の要請に応えるソリューションは、格好いい言い方をすると「パラレルキャリアの支援」となるけれど、もう一方で失業対策でもあるんです。
ご存知のように、現代においては「企業」というものが「公器」として社会の中で重要な役割を担っています。
しかしすでに、ある種の企業はその役割を担いきれなくなっています。
つまり、個々人が自分の人生に、これまで以上に責任を持って生きていかなければいけない時代になるということが、すでにあちらこちらで起こっています。
独立にせよ副業にせよ、個人と社会・企業との関わり方が大きく変わっていくことは間違いありません。
その際に必要になるのが、一人ひとりが自分や自分を取り巻く環境の未来を考えるという姿勢です。
その際に、インタビューの中で若林さんが「日本人の歪なバイアス」として語っていることに「未来とテクノロジーがセットになっている」という内容があります。
(僕らは)正しい科学技術に上手く乗っかっていけば、自動的に正しい未来に行けるとみんなが思っているからそうなる(未来を描けず堂々巡りになる)わけで、『近代日本一五〇年』は、まさにそのことを強く気づかせてくれる本(注:『近代日本150年』)なんです。
じゃあ、どうやって未来のことを考えるんだって、なるわけですが、最近気に入っているのは「テクノロジーの話を禁止して未来のことを考えてみよう」ということなんです。昔にテレビでお正月にやってた「カタカナ禁止ゴルフ」みたいな感じで。
たしかに「AI」なり「フィンテック」なりがバズワード化して「領域×テクノロジーが実現すれば色んな問題が解決できてハッピー!」と言われる場が目につきます。
もちろんそんな単純な話ではなく、技術というのは道具にすぎません。
道具とは、それを使う人の意志・目的・意図・姿勢・知識・経験・状態などなど様々な要因より、その効果が変わるものです。
また、道具が対象の見え方を狭めてしまうという意味で「ハンマーしか持っていなければ全てが釘に見える」という話もあります。
つまり、道具(ここでいうテクノロジー)から未来を発想するという姿勢には「それを使う人(現代に生きる私たち)」と「対象となる事物(組織や社会そのもの)」という2つの観点がすっぽりと欠けているのです。
それでは、未来というものは、どのような姿勢で向き合うべきなのでしょうか。
若林さんの言う通り「テクノロジーの話を禁止して発想を広げる」というのも1つの手ですが、目の前に有益な道具が落ちているのにそれを使わないというのも勿体ないものです。
参考にしたいのはヤフーの安宅さんの「未来は目指すものであり創るもの」という言葉です。
https://www.ipsj.or.jp/magazine/9faeag000000pfzm-att/IPSJ-MGN580602.pdf
もう少し言葉を足すと、「自分にとって少なからず望ましい未来」は待っていればやってくるものではなく、自分なりに目指し創るものである、という意味合いになります。
これは、ポジティブな言葉で言えば「変えようと思えば誰もが未来を変えられる時代になりつつある」ということです。
情報発信のコストが限りなく0になり、個人でも人・物・金・情報を集めることが非常に手軽になりました。
また、価値観が多様化したことにより尖った意見でも受け入れられやすくなっています。
現代は、間違いなくこれまでの人間の歴史の中で「個人の力が1番強い時代」だと言えるでしょう。
一方で、ネガティブな言葉で言えば「何もしなければ他人が変えた未来の結果を引き受けて生きるしかない」ということでもあります。
「これまでもそうだったじゃないか」と思われるかもしれません。
しかし「何となく見通しが立っている未来を引き受ける」ことと「他人が影響しあって激変する未来を引き受ける」ことは、まったく違う意味を持ちます。
いずれにしても、国家レベルで考えた際の「国の未来」であれ、個人レベルで考えた際の「私の未来」であれ、誰かの選択の先に未来があるという事実は変わりません。
では、未来は本当に「創れる」ものなのか?
これには、YESでもありNOであるという答えしか出せません。
YESと答えるなら、
・自分の望む未来を明確に描けるだけの自己認知能力と時代を把握する力があり
・それを実現できるだけの能力や周囲を巻き込む力があり
・それを実行できる環境がある
人は、思い通りの未来を創れると言います。
NOと答えるなら、
・自分の望む未来を描けず、時代の流れも読めず
・何かを成し遂げるだけの能力や関係構築力がなく
・実行する環境がない
人にとっては、なんとも厳しい世の中になるはず、と言います。
このYESとNOの違いで重要なことは「未来の起点をどこに置くか?」という点です。
なぜなら、未来の全ての根っこは「今の自分が未来をどうしたいかという意志」に他ならないのです。
そこから考えない未来はすべてまやかしであり、将来的に不幸な結果に陥ってしまう可能性があります。
これは「揺るぎない意志が未来を切り開く!」といった精神的な話ではなく、極めて論理的な話です。
また「未来を見据えた生き方をしない人は何もかもダメだ」という話でもありません。
ある人が未来を思い描かないとしても、その人の生き方や幸せがあり、その良し悪しは個々人が決めるものだからです。
以上にて、「未来という不確かなものにどうやって向き合うか?」に対する回答が出てきました。
それはつまり「まずは今の自分が未来をどうしたいかという意志を持つことである」というものです。
それが全ての始まりであり、それがなくてはどれだけ高い能力を得ようが、良い仲間に囲まれようが、何不自由ない環境にあろうが、本当の意味で未来を考えることはできないのです。
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さて、ここからは完全に趣味です。
「1つの回答」と言いつつ、もう1つの回答を以下に書きます。
最近「仏教」の思考ツールとしての強力さをすごく感じていまいて、少しだけ今日のテーマについても、今自分が理解している範囲での仏教的な観点から書いて見たいと思います。
おそらくそんな風には読めないと思うんですが「好きなことをすごく楽しそうに熱く語っている人」を思い浮かべながら、読んでいただければ幸いです。
さて、仏教的な観点を踏まえて考えると、未来というものは今(の連続したもの)の結果でしかありません。
このため、未来を考えるとはつまり「今が連続してきたものとしての過去」と「まさに今起きていること」を見つめることに他なりません。
(この結果を「果」といい、その結果を生み出す元になった要素を「因」と言います。)
「昔のことでくよくよするなよ」というのは気の持ちようの話ではなく、今の状況(因)の結果として一瞬先の未来=今となった瞬間(果)があるわけで、過去を悔やむというのは因果の法則に逆光しており、とても不毛なわけです。
同様に「未来を創る」という場合、結局未来というのは「今」の積み重ねの結果でしかありません。
ただし、ここで重要なのは「未来をXXのように作りたいという意志を今ここで持った」は「今ここで未来の結果の原因を生み出した」ということに他ならないわけです。
これは決定論(未来は全て決まっている)でも運命論(未来は全て偶然である)でもなく、ある地点から最も因果がつながった未来に至るという意味で、人間の意志と世界の偶然という両方を含んだ考え方だと言えるでしょう。
この観点からすると「未来とどう向き合うか?」に対する回答は「今の自分の因を正しく捉える(ないしは正しく整える)」ということになります。
なぜなら、因から果が生じるので、因を本当に正しく捉えれることができれば、果も必然的に理解できるからです。
今の自分の理解だと、これが非常に難しいので色々な修行や実践を積んで、数々の思い込みや勘違いを捨て去って、正しく物事を見る目を手に入れましょうね、というのが仏教の教えです。
これが非常に力強い考え方で、自分がどれだけの思い込みに囚われているかを考えるだけでも、仏教を学ぶ意味はものすごく大きいな、と思っております。