canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

12月は思考を飛ばすのにちょうどいい。

時々、ふっと思うことがあるんです。
「ああ、やっぱり世の中には、毒が足りないなぁ」と。
もっと言えば「毒を目の前にして目を逸らさずにいられる人はそこまで多くないなぁ」と。

 

ここでいう毒というのは当然そのままの意味ではなく、あえていうのなら「人の暗い感情を刺激するもの」とか「何か世の中に反抗するような、人の役に立たないけれど深い部分に刺さるもの」とか、そういうものを示しています。

 

おそらく、アングラな場所にはある程度あるんだと思います。
少人数で集まって、外に漏れないように、身内で楽しんでいる毒はたくさんあるんでしょう。
(それが本当に毒なのか、希釈されたものかはさておき)
ただ、それが身内に閉じている以上、結局世の中一般に広まるのは、前向きで、誰かの役に立って、きちんと利益も生むような、そういうものにならざるを得ません。

 

でも、人ってそんなに綺麗じゃないし。
誰かを妬んだり、大事なものほど壊してやりたいとか、他の人よりも優れていることを証明してやりたいとか、そういう欲を持ってるものだし。
それを綺麗にオブラートに包んで「私は自分の欲ではなく世のため人のためという使命感でやってござい」なんて、その方が見栄えがいいから(あと誰からも非難されなくて楽だから)そうしているだけで。

 

それをうまく世の中に適合させると「君の名は」とは「うんこ漢字ドリル」とかになるんでしょうけど。
そういうものを生み出せていない自分が何かを言っても、あんまり大したことにならないなぁとも思うんですけど。
でも、たまにはこうやって言葉にしておかないと、自分も薬漬けにされていることに無自覚になる気がしていて。

 

今年1年は仏教(禅)やマインドフルネス、ベーシックインカムなど「個々人の心や社会の平穏をどのように実現していくか」という方向を主に学んでいました。
その中で「なぜ人は変化をし続ける必要があるのか」「その変化がそれまで自分が培ってきたものを脱ぎ捨てる(アンラーニングする)ことであるのはなぜか」という問いが生まれており、その先に「個々人が自らの中に見出すべき拠り所とは結局何なのか?」という問いがあります。
だって、外部に依存してたらいつまで経っても平穏に生きられないじゃないですか。
ベーシックインカムは、社会システムとして限りなく平穏に近い状態を作ろうというものですが、資本主義社会が継続し続ける前提で成り立っているので、強度としてはそこそこレベルだと思います)

 

そんなわけで、僕たち私たちは「今すぐ死にたい」から「永遠に生き続けたい」の狭間の中で、他者や社会とうまく関わりながら、それらに依存せず自らの「善く生きる」を確立するという、非常に難しい仕事を与えられているわけです。
重要度と緊急度でマトリクスを組んだ時、緊急度が低く見えるから毎日は取り組んでいないだけで。気づくのは大体何か大きな事件が起きた時で、それまでの人生を変えなきゃいけないぐらいの場面なのですけれど。

 

最初の毒の話から、だいぶ遠くまで来てしまいました。
そこに関連性があるとすれば、世の中に毒を広めることと個人として社会の中で善く生きることが、矛盾しているように見えることでしょう。
この矛盾を解消するには「この毒はいずれは薬となり、社会全体が善い方向に進む」というものを見つけ、それを確信にまで高める必要がありそうです。
一見世の中に害がありそうなものを「きっと世の中の役に立つから」と突き進めて行くのは、良くて自己弁護でしかありません。
ただ、それすらできなければ、自分は「世の中で正しいとされていること製造マシン」にしかならないのです。
「それの何がいけないの?」と言われれば「あなたはそのまま真っ直ぐ生きてくださいね」と言うしかないのですけど。

 

20代も終わりに近づいて、いまだに大したことも成し遂げていない自分が「世の中」を語るのは非常に小っ恥ずかしい話なのですが、たまにはホラでも拭いていないと出来ることも出来なくなりますので。
12月はこんな感じで思考を自由に動かして、来年取り組むテーマをいくつか見つけられたら良いなと、こう思うのです。
さ、今年も残りあと1ヶ月。大胆かつ丁寧に過ごしていきましょう。