canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

理性至上主義者が感情に意味を見出すまでの物語

 

あるところに、一人の少年がいました。

 

彼は、人類が何千年もかけて技術や思想や社会制度を進歩させてきたことに比べ、個々の人類がほとんど進歩していないように思えることを、とても不思議に思っていました。
彼なりに考えた結果、その根本原因は「感情に振り回され、理性を正しく使えていないからである」という結論に辿りつきました。

 

「恋愛は不合理だ。一時の感情で特定の人間を好きだの嫌いだのというのは理解に苦しむ。好意を抱くなら抱くとして、他人にも納得できる理由を明らかにすべきだ」

 

「感情的になるから判断を誤るのだ。常に理性が優先すればこそ、最適な解にたどり着く」

 

「政治家を理性的に選ばずして何が民主主義か。タレント議員などという言葉が生まれること自体、現代社会の未成熟さの現れである」

 

こうして少年は、あまり立派でない理性至上主義者になりました。

 

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やがて少年も月日を重ね、世の中的には大人と言われる年齢になりました。
様々な出会いから、その偏った思想は和らぎつつありました。
それでも彼は、理性至上主義者であり続けていました。

 

感情的な人を見ると「なんでこの人はこのように感情を公にできるのだろう。理解に苦しむ」などと、これまでとは別の意味で残念な考えに至りました。
「感情が人を癒すことは認める。だが、感情は人を救うことはない。救いは理性による」といった、中世のスコラ哲学者もかくやという思想も健在でした。

 

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ところが、やがて彼にも転機が訪れます。
ついに、理性を至上の座から引き下ろし、感情の方がとは言わないまでも、理性と感情を同列に扱うこともやぶさかではないという思想に至るのです。
その転機は、以下の3つの事項を了解することから生じました。

 

1.理性もそれほど万能ではない。それどころか、自分自身を欺くことすらある。
2.理性だけでは、選択はできても決断はできない。決断とは感情の産物である。
3.理性で全て上手くいくことは理想的だが現実的ではない。そして現実は理想ではない。

 

果たして、何が彼を変えたのでしょうか?
それは、理性に対する新しい捉え方の発見によるものでした。

 

彼は、理性という言葉を「思考、論理、順序立てられた考え、精密なシステム、明朗さ」と言った言葉と関連づけて考えていました。
つまり、理性的であるとは「あるほころびのないシステムに生き、論理の力を使いながら思考し、その考えを明朗に順序立てて提出すること」なのでした。

 

ただ、そのうちのいくつかは、思っていたよりも信頼が置けないものだということが分かったのです。
例えば、人間の思考はその人自身と無関係に生じることがあります。
目を閉じて「何も考えないように」と思っていても、明日の天気が気になったりやり残した仕事のことを考えたりしてしまうものです。
つまり、人間の思考には「自発的に行ったもの」と「自動的に浮かんでくるもの」の2つがあり、その区別は非常に難しいのです。

 

また、論理も万能ではありません。
いくつかの選択肢がある場合、論理的にその良し悪しを検討し、選ぶことは可能です。
ただし、現実においてあらゆる選択肢が提示されることはなく、様々な制約条件の中で不十分なものを自己の責任において選ぶことを「決断する」行為が必要です。
この場合、論理的に考えれば、文字どおり「何も選べない」ことになります。
ここで必要なのは感情、もっと言えば私情であり、それをもって自分の責任で完遂したり、周囲の協力を得たりするものです。
(さらに言えば、論理だけで誰かにお願いをした場合、感情を伴う場合よりも大抵は非常に受けが悪いという「現実」もあります)

 

さて。こうして少年は大人になり、理性至上主義を捨てることになったのです。
しかし、彼には新しい野望がありました。
それは、理性と感情、双方の影響下にある意思決定を最適化するメカニズムを明らかにすることです。
まるで料理のレシピのように「200℃に熱したオーブンで15分間焼いた理性に、きめ細かくなるまで混ぜた感情をかけた時がもっとも良い意思決定ができます」なんて話ができたら、素敵だと思いませんか?

 

こうして彼は今日も、自分の理性と感情を題材に、人類の進歩について考えるのでした。

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