canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

正解が分からない。自分らしさが出せていないと思ったとき。

そんなときは、まず「正解などない」ということを認めてしまう。
「自分というのは乗り越えるものだ」ということを信じてしまう。
そうすれば、問いは「今の自分を乗り越えて、より望ましい未来を現実にするために、何を選択するべきか」というものに変わる。
問いが具体的になれば、行動も具体的になる。
全ては、そこから始まる。

 

これは自分にとって一種の諦めであり、敗北宣言でもある。
できることなら唯一無二の正解がある世界にしたかったし、今の自分を大事にして変化など無しに生きていける方が楽だと思っている。
将来的にそうなったらいいのになぁという期待も、まだ捨てていない。

ただ、少なくとも今自分が生きている環境において、より自分なりに良い人生を送ろうと思うなら、自分の思想が現実に敗れたことを明らかにした上で、そこから新しい思想を積み上げていく方が有益だと思っている。
そして、これこそが「自分の乗り越え」であり「世界に対して開いている」ということだと考えている。

 

ただし、この思想だとふと、自分が固定的なモノとして存在していないことに、不安を覚えることがある。
つまり、自分というのは「常に乗り越えられるべき過去と、乗り越えようとする今と、乗り越えた先の未来を含む動的な存在」だと言えるのだが、それは非常に不安定なはたらきで、ともすると「自分などない」という思想に切り替わってしまう。

 

いや、「自分などない」というのは正しい思想なのだが、こと現実世界をよく生きるためには、「自分」というものを具体的な対象として捉えていた方がやりやすい。
なぜなら、生きている自分はまさにこの分け前としての「自分」しかないのであり、それが人生を「良い」とか「悪い」とか、主観的に判断しているからである。

 

ところで、人生を乗り越えだとすると、実は良し悪しだけでは判断基準にならないことに気づく。
昨日の良しは今日の悪しであり、今良いものを選ぶより、将来的により乗り越えの可能性が広がるものが良いと言える。
それは、今の時点では悪いものかもしれない。
つまり、時間軸が基準に盛り込まれる必要がある。

 

これは難しい話で、基本的に人間は未来予測が得意ではない。
直線的な変化は認識できるが、非線形的な(2乗ずつ増えるような」変化を認識するのは不得意だ。
そして、現代は物事が非線形的に変わっていく時代である。
よって、人間は現代を生きるのが得意ではない。

 

このロジックは適当なものだが、次の言いたいことを引き出すには十分だと思う。
つまり、未来を良し悪しで語るのではなく「自分の良しとする未来を語る」方が重要だ、ということだ。
それこそがここ数年で1番重要な思想であり、人々が受け入れなくてはならない不安なのだ。
なぜなら、この不安を諦めて受け入れることでしか、今の行動は変わらないからだ。

 

気づけばブログも20日を超えた。
あと1週間ちょっと、もっと密度のある文章が書きたいと思う。