canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

自分を幸せにする手段を選んで表現する、ということ。

一緒にブログ企画をやっているYSさんが、昨日以下の記事をアップされていました。

 

「好き」を語ることは人を幸せにするのか否かserayumi.wordpress.com

 

タイトルを見て本文を読んだ瞬間に「あ!視点が自分と全然違う!」と驚いてしまいました。
なぜなら、語る主体としての自分(しかも「自分の好きなこと」を!)の幸せではなく、聞く相手の幸せを気にしているという視点自体が新鮮なものだったからです。

 

だって、素朴に考えたら、自分の好きなことくらい好き勝手に話してもいいじゃないですか。
それなのに、その行為が相手の幸せに影響するかを考えるという……しかもそれが、自然に表現されている。
これって凄いことだと思いますし、逆に自分は無意識的に「語る人(書く人)と聞く人(読む人)の幸せは別にある」と思っていたことに気づかされました。

 

さて、最終的には「書いたらいいと思う。それで自分が幸せになるなら。」という結論に落ち着きますが、元々「人と人の相互作用」という感覚に疎かった自分を整理するためにも、もう少し書き進めてみましょう。

 

さて、自分はどんな立場なのかと言えば、好きなことを語るのも聞くのも好きです。
ただし、いつでも好きというわけにはいきません。
これから少し細かくしてみます。

 

まず、語る方から。
これには、話す人や話題によって大きく2つのパターンがあると思っています。
それは「好きなことを好き勝手に気持ちよく話せること自体が幸せ」と「好きなことを通じて共感・理解しあい深められることが幸せ」というものです。

 

前者の場合、話し手がフォーカスするのは「いかに気持ちよくしゃべれるか」です。
この場合、話題としては恋愛や友人関係など、身近な出来事が選ばれがちです。
聞き手としては「いかに気持ちよく喋らせるか」が重要ですから、ここで必要なスキルは「傾聴」です。
しっかりと頷いたり相手の話を遮らないことで、話し手の舞台を整えてあげること。
それが理想的な関係だと言えるでしょう。*1

 

一方で後者の場合、話し手は「いかに深く理解しあえると感じられるか」にフォーカスします。
この場合の話題としては、趣味や学問など、少し込み入ったテーマとなるでしょう。
ここで聞き手が「傾聴」のスキルだけを使っていては、話し手としては不満です。
自分の話をどれだけ聞いてもらったところで、相手の反応がないと「理解しあえた」という感覚に至らないからです。

 

ここはやはり「見識や常識」といったスキルを発揮してもらって、宇宙の話であれば「そう言えばイーロン・マスクが太陽系に植民地を作るって言ってるけどどう思う?(最新事情についての理解)」とか、魚釣りの話であれば「この前○○川に釣りに行ったけどあそこはいいよ(釣り好きは次に行く場所を探しているはずという予測)」などと返してほしいものです。
いわゆる、エスプリの効いたトークと呼べるものがこちらかもしれません。

 

次に聞く方。
こちらには「楽しい・面白い話を聞いているのが幸せ」と「楽しそうに話している人と一緒にいるのが幸せ」の2つがあると思っています。
もちろん両方重なるのが一番ですが、上記のうちどちらを選ぶかは結構人によってわかれるのではないでしょうか。

 

さて、冒頭で私は「語るのも聞くのも好き」と言いました。
もう少し詳しく言うと、語る場合は後者の「深く理解し合う」ことを求めます。
身近にあった話などはあまり興味がなく、お互いに関心がある事項について深め合えているとき、とても楽しい気持ちになります。

 

聞く方に関しては「楽しそうに話している人と一緒にいるのが幸せ」です。*2
自分語りであれ小難しい話であれ、「自分が相手の幸せに一役買っている」というのは悪い気はしませんし、「自分の問いかけにより相手の思考が深まっている」というのも、非常に喜ばしいことです。

 

逆に言えば、どれだけこちらが反応しても「好きは好きだけど不満や愚痴も多い話」は聞いていて面倒くさくなりますし、「レベルが違いすぎて反応のしようがない」場合には、聞き手として申し訳なくなります。

 

一般の会話だとそこまで語り手・聞き手がはっきり分かれることはないかもしれません。
ただ、個人的には「好きなことを語ることで幸せになれるのなら、どんどん語ったらいいじゃない」と思います。
「そんな風に振舞っているあなたを見ると、こちらも幸せになってくるんですよ」と。

 

ましてや書き物であれば、読むも読まないも、反応するもしないも自由ですから、余計に書き手のエゴを出したらいいと思うのです。
より多くの人に読んでもらうとか、ネガティヴな反応がこないとかは、好きなことを書くこととはまったく別の次元の話です。

 

書き手は読者を想定すべきというのはその通りですが、その想定した結果が100万人の大衆なのか、どこかにいるかもしれない、たった一人の同じエゴを持つ相手なのかを選ぶ自由はあるはずです。

 

個人的な反省として、好きなことだけ書いていても共感してくれる人は現れないという現実があるため、伝え方は非常に重要だと思っています。
しかし、だからと言ってそれが書き手のエゴを否定する根拠にはなりません。
書くことと伝えることは、まったく別の行為だからです。

 

ここまで書いてくると、私は結局文章を書くことが好きだし、それを通じて誰かが少しでも「面白いなぁ」とか「なんかいいなぁ」とか思ってくれていれば、趣味のブログとしては十分に幸せです。
ただ、書くことがそれほど好きでなかったり、苦手な人にとっては、また別の捉え方があるのだと思います。
それこそ「何のために語るのか」や、「何を求めて聞くのか」と同じように。

 

もしそうであれば、好きなことを語るのにあえて「書く」という手段を取らなくてもいいのかもしれません。
絵を描いてもいいし、独白を録音してもいいし、詩を作ったっていい。
そうして、自分がしっくりとくる方法で好きなことを表現できるのなら、それが一番「幸せ」なのではないかと思うのです。
その領域においては、絵の上手い下手だとか、音声は聞きづらいとか、そういった指摘は野暮ってものです。

 

自分がもっとも幸せになれる表現の手段を持っているということ。
それを通じて、幸せになってくれる人がいるということ。
それって何だか、とても素敵なことだと思いませんか。

*1:アドバイスはいらないからとにかく黙って聞いて共感だけしてね、というのがこちらの典型です。

*2:もちろん時間的な限度や、相手との関係性というのはあります。