canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

東京に出てきて「あ、いま少し心が死んだ」と思った瞬間の話。

久々に終電まで飲んだ金曜夜、満員の京浜東北線に乗ったところで思い出したので書きます。
これは、それなりの田舎で18年間暮らしたのち関西のそこそこ都会の大学に通い、東京という彼の地元の70倍の人口密度を誇る大都会で仕事を始めた男の子の話です。

 

彼の地元は、当然のように車文化でした。
駅というのは県外に出るために行く場所であり、それ以外の移動はもっぱら車によって行われていました。
大学では自転車が主要な移動手段となり、同じく電車に乗るのはアルバイトか、競馬場に行くときくらいのものでした。


彼が初めて関西で電車に乗ったとき、不幸にも時間通りに目的地に着けませんでした。
なぜなら「普通」と「準急」と「急行」と「特急」の違いがわからず、とりあえず「普通なら間違いなかろう」と思って乗った結果、全然進まなかったからです。
おかげでアルバイト先に遅刻してこっぴどく怒られることとなるのですが、一体何が悪かったのか、当時の彼には分からなかったのです。

 

さて、話は東京にまで移ります。
4年間、そこそこの都会で過ごし電車にも慣れていた彼は、自分に自信を持っていました。
「もう俺も電車に乗れない田舎者じゃないぞ。普通と急行の違いだって分かっている」と、意気揚々と通勤電車に乗り込むのです。
いえ、この言葉には少しだけ嘘が混じっています。
人が多すぎて乗れる気がせず、彼は電車を見送ってしまうのです。

 

彼は思いました。
「きっと今の電車が混んでいただけだ。1本待てば空いた電車がやってくるに違いない」
しかしその後、待てど暮らせど一向に空いた電車はやってこないのです。
それどころか、その乗れる気がしない電車に、多くの人が身を投げ入れるではありませんか。
これが都会か……と彼が実感するには、一往復の通勤で十分でした。

 

さて、ここまででもだいぶ心にダメージを受けていましたが、「死ぬ」という言葉を使うまでではありませんでした。
彼の心が死ぬのはまさにこの後。
実際に電車に乗った時に起こるのです。

 

話を分かりやすくしていきましょう。
彼の心が少し死ぬのは「不特定多数の人と触れ合って移動していること」が原因になっていたのです。
満員電車は言うまでもなく、普通に座っていて隣の人と肩が触れ合うのも、彼にとっては驚きでした。
「なんでゼロ距離で見知らぬ他人と過ごさねばならんのだ」と、気恥ずかしいやら気まずいやら、彼の心はかき乱されていったのです。
自分の肩や背中にいる人の顔をそれとなく見てみると、全員が一様に諦めたような表情で、何も感じていない様子だったのが、さらに彼の心に傷をつけました。

 

「なるほど。ここでは『見知らぬ人と身体が触れ合う』というのは特別なことではないのだ。だから相手は遠慮なく体重をかけてくるし、自分が掴んでいるつり革を平気で掴んでくるのだ」と、彼は一人納得したのです。
そうして数ヶ月が過ぎた後、彼もまた「誰かと密着していても何も感じない心」を手に入れました。
その時にこう思ったのです。「あぁ、俺の心は今、少しだけ死んだのだ」と。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

もしも「都会の人は冷たい」という話ができるなら、その一端は満員電車にあるのではないかと、少しだけ本気で思っています。
周りへのチャンネルが開いている人には耐えられない空間が、周囲への鈍感さを増す要因になっている。
そうして鈍感になった個人は、見知らぬ他人への興味を無くしていく。
その結果、無関心で冷たい個人が出来上がる。

 

とはいえ、今日も道端で倒れたご老人を周囲の人がさっと助ける場面に遭遇しましたし、「都会の人は冷たい!」というのも正しいとは思いません。
ただ、細かな変化に気づいたり、自分の感覚を研ぎ澄まし大事にしている人というのは、そんなにいないのではとも思います。

 

このブログは深夜2時の川辺で書いていますが、風の音や虫の声、流れる水の匂いなど、様々な刺激を受けています。
仕事中のオフィスでそういった音や匂いを意識することは、ほとんどありません。
こうした状況を打破し、五感を大事にして日々を過ごすこと。
これもまた、最近大事にしていることだったりするのです。