canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

トンデモ未来妄想記。あるいは100年後の人類について。

4日目にして、過去の話を真面目に書くことに飽きてきました。
難しい話とか真面目な話ばっかりしていると、反動でどうでもいいことを考えたくなるのです。
というわけで、何事もバランスだよなぁと思いまして、今日は未来の話を妄想で書きます。

 

どのぐらい未来の話を妄想しましょう。
ざっくりと100年くらい先が良いかもしれません。

 

この100年、色々な技術の発展があると思いますが、方向性として1つあるのは「身体の機械化」だと考えています。
これまで人類は「身体を外部化する」ことを続けてきました。
望遠鏡(視覚)や電話(声と聴覚)などはその分かりやすい例ですが、自分の身体が持つ機能を拡張したり外部に置き換えてきました。
その結果、宇宙の果てを観測したり世界中どこにいてもリアルタイムでコミュニケーションできるなど、様々なことができるようになっています。

 

この「身体を外部化する」流れはウェアラブルバイス等で引き続き進みますが、今後はそれよりも「身体自体が機械化する」流れが強くなると思います。
すでに身体の一部(腕や脚)を機械に置き換えて(あるいは機械を装着して)生活している人もいます。
イーロンマスクによれば、これから5年程度で「脳とコンピュータが直接繋がる時代が来る」と言い、そのための会社も立ち上げています。*1

 

脳とコンピュータが繋がって意味を持ち始めるのが5年後ですから、100年後には途方もないことが起きていそうです。
子どもは体外受精が基本となり、生まれた瞬間から臓器が機械で補助され、確実に健康体として生まれてくる。
この場合母親の負担もないので、出産によるキャリアへの影響も起こり得なくなる。
それどころか、卵子精子は他の細胞から作り出せるので、男同士・女同士での出産(もはや言葉も変わっているかもしれませんが)も可能になっている。

 

いや、そもそも子どもを産むか自分のクローンを作るかを選択できるようになっていて、人類は史上初めて「種の滅亡を心配しなくて良い生物」になるかもしれない。
その頃には星間移動も可能でしょうし、エネルギー効率も今の何万倍にもなっていておかしくありません。

 

身体の機械化から話が逸れました。
ここからもう少し考えたいのは、もし将来的に本当に身体が機械に置き換わるとしたら、人々の倫理観や人生観は今とまったく異なったものになるだろうということです。

 

例えば、ものすごく卑近な話をすると「足が速いからモテる」という要素がなくなります。
つまり「身体的に優れた異性に魅力を感じる」という生物としての本能が変わってしまう可能性まであります。
なぜなら、その時代に優れた身体能力を持っているのは「より対価(お金というよりは電子的な何か)を出して身体を機械に変換している人」であり、その人の生物・遺伝的な要素は一切関係なくなるからです。
そうなると、異性を選ぶ基準もかなり変わってくるかもしれません。

 

そもそも「生まれたままの姿で生きる」ということ自体が時代に沿わない可能性もあります。
一部は原理主義者的に、一切機械化せずに生きる人たちもいるでしょうが、大半の人は「昔は生まれたそのままの骨と肉とで生きてたんだって。不便だよねー。」くらい言っているかもしれません。
スマホがなかった時代って待ち合わせで出会えないことがあったらしいよ。不便だよねー。」と言うのと、同じくらいの感覚で。

 

逆に、将来の人類には「人間の肉を通じて何かに触れる感覚」が理解できなくなるかもしれません。
指で油の温度が上がる天ぷら職人、触り心地で木材の良し悪しをみる大工なんて人たちは、もう存在しないかもしれません。
それは「職人が消える」という話ではありません。
「個人による身体的な体験の差がなくなる」、つまり「個という存在を定義づけるものが1つ減る」ということを意味していると、そう思うのです。

 

思ったよりも長くなってきたので、この辺りにしておきましょう。
個人的には「未来はどうなるか」といった漠然としたテーマには、あまり興味がありません。
それはなるようになるし、そのスピードが速いか遅いかの違いだけだと思うからです。
それよりも「もし科学技術が超発達した場合、その時代の人間の常識はどうなっているか」というテーマの方が興味深いですし、そんな話ができる飲み会ならぜひ開いてみたいなぁ、と思うのでした。