canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

変遷1.周囲の人を尊敬できるということ

今でもたまに言われるのですが、自分には少し生意気なところがあるようです。
確かに、高校生の頃部活の先輩に「お前、俺のこと尊敬してないだろ」と言われたことがあります。
そんなことを言われたのは初めてでしたから、「そんなことないですよ!」と言いつつも「なんで1年早く生まれただけで人を尊敬せにゃならんのだ。偉人レベルになってから出直してこい」と思うくらいには、生意気な時代もありました。

 

どうしてそんな風に思っていたかというと、「他人と自分は違う」と考えることで自分を保っていたのですね。
これは「自分を正しく持つ」という前向きな話ではなく、例えば以下のように考えていたのです。

 

・あいつは運動ができるけど、自分は勉強ができるから大丈夫
・あの人は話が面白いけど、自分はゲームが上手いからほぼ一緒
・彼は異性からモテるけど、自分は恋愛より大事なものを知っている*1

 

今から思うと恥ずかしくなりますが、要は自分に自信がないので、勝手に負けず嫌いになって他の人の良いところを認めることができなかったのです。
これは誰かの良い(得意な)部分と自分の悪い(苦手な)部分を比べるということですから、結構苦しい状態でした。

 

この状態から抜け出せたのは、仕事を始めて3年経ったくらいかと思います。割と最近ですね。
なぜかというと「ある目的に対して、それを達成する手段は何でも良い」ということに気づけたからだと言えそうです。
もう少し詳しく書きましょう。

 

新卒で入社した会社の役員から聞いた、印象に残っている言葉があります。
それは「俺はたとえヤカンでも誰にでも売れる」というもの。
営業の仕事について話していた際の言葉ですが、当時の自分は「ヤカンなんか売られても相手が困るだけだろ」と思っていました。
「そういうことを言っているわけではない」と気づいたのは、その会社を辞めてからのことです。

 

「ヤカンを売る」という目的に対して、その手段は色々な方法が考えられます。
あるいは、ヤカンを売るのはより大きな目的の一部でしかない、といったこともあるでしょう。
ヤカンの実用的な価値を伝えるだけではあまりにも芸がなく、その前後の関係性や取引の全体性、および将来性を含めたあらゆる状況を考慮して本当は必要でないヤカンが売れるなら、それはとても凄いことだと、やっと納得できるようになったのです。*2

 

そうやって周囲を見渡してみると、大きなことから小さなことまで、自分なりのやり方で成し遂げている人がいることが見えてきました。
そして、色々な理由をつけて斜に構えて、何も成し遂げていない自分が恥ずかしくなってきたのです。
そこまで来ればあとは自然の成り行きで、「自分が何も形にしていないこと」を自覚し、考えるだけではなく行動することの重要性を感じられるようになりました。
その結果、何かを形にしている人は、無条件で尊敬できるようになったのです。

 

自分の中で考えるだけではなく、実際に行動し形にし、周囲の人の目に見えるように自分の成果物を出すこと。
周囲の人を尊敬し、できない自分を受け入れ、必要以上に自分を卑下しなくなったこと。
この2つが、自分なりの「人生での相手との関わり方」が変わった瞬間の1つだったように思います。

 

★てれれれってってってー♪意識レベルが1高まった!★

 

それはそれとして。
このブログを続けるにあたり、「汝自身を知れ」という格言は至るところに影響すると思います。
この格言の持つ重さを噛み締めながら、明日からもキーボードを叩き続けていきましょう。

*1:当時考えていたことは、それはそれで面白いのでどこかでもう少し詳細に書きたいと思います。

*2:知ることと納得することは大きく違います。それについても近いうちに書きたいです。