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canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

創造性の根源が「違和感」と「我慢のできなさ」であることの残酷さと滑稽さ。

突然の結論である。
創造性の根源は「違和感」と「我慢のできなさ」である。そして、それは残酷であり滑稽である。
なぜか。

 

そもそも、今回はハーバード・ビジネス・レビュー11月号の瀧本哲史氏の「未来を希望に変えるのは誰か」から刺激を受けている。

そちらによれば、未来を希望に変える始まりは「違和感を大切にする」ことだという。
これ自体は、多くの人が納得できるものだと思う。改善とは現在を超えることであるならば、今自分が生きている世界に「なんか違うな?」「もっと良くする方法はないのかな?」という直感を得る必要がある。
(ちなみに、文中ではその例としてナイチンゲールが挙げられており、彼女が現場のデータから権力者を動かしたという話は非常に面白い。)

 

さて、文中でも一応は触れられているのだが、違和感を感じるだけでは当然「違和感で終わってしまう」ので、「その違和感を見過ごさず、育てていく」ことが必要となる。
つまり「なんか違うから、それを正しくするために何かをしなきゃいけないな?」ということを繰り返して、それを自分の中で問題視したり、周囲の人にも関心を持ってもらうことが必要となってくる。

それは言うなれば、自分の直感と今の現実のギャップに「我慢ができなくなっている」ということである。自分の直感に世界を近づけるために「行動せなばならない」と思っている状態である。

 

さて、ここで少し考えてみる。
「自分を取り巻く環境に満足せず」「それを自分の思うように変えたいと思う」人のことを、一般的な言葉ではなんと呼ぶだろう?

 

そう、「ワガママな人」である。それは決して、褒め言葉ではない。
ワガママな振る舞いは、基本的には抑制される。曰く「分別を知る」や「相手のことを考えて」という言葉によって。

 

しかし、創造性の根源は「違和感」と「我慢のできなさ」なのである。つまり、ワガママなことなのである。
そして困ったことに、特定の場面において「ワガママ」というのは褒め言葉になるのである。創造性を発揮し未来を切り拓く、という場面において。

 

さて、ここにおいて何が起こるかというと「一生懸命周囲に自分を合わせ、自分を律して『良い子』として生きてきた人の価値が不足する」ということである。
こういう人は、学校という環境の中で早めに「こうすれば楽に生きていける」と分かってしまった人たちの中に、一定数いる。

仕事の場面において「『良い子』は言ったことはやるがそれ以上のことはできない」といった話を聞くことがある。
それは当然のことで、20年近く「周囲に合わせて我慢して生きればいいんだ」ということを学習した人が、いきなり「違和感を持って我慢せずに自由に動いてみなよ」と言われても、「え、今更それ言っちゃうんですか?」という話である。
彼らにとって、やっと見つけた処方箋こそが「違和感を覚えず、我慢をして生きる」ことだったのだから。

 

右肩上がりの資本主義と、それを前提とした終身雇用という制度の終わりが見えるにあたって、自分の人生を自分で切り拓く必要性は強調してもしきれない。
しかし、それが必要な人たちは、学校教育において「環境を受け入れ」「周囲に合わせる」という経験を通じて、その根源的な力を奪われている。

結果、社会は人材不足を嘆き、個々人は生きるために仕事をすることを嘆く。
(こういった人たちが、実際にどの程度いるかは分からない。自分の周囲(20代前半~後半の、比較的学歴が高い人たち)には多い気がするが、その下の世代はもうこの問題を抱えていないこともありうる。)

 

これは横道にそれる話だが、よく今頑張っている人の紹介をする際に「○○という辛い経験や挫折を味わったのに、ここまで頑張っている」という説明を聞くことがある。

それは「それほど辛い経験をしたなら沈んで動けなくなってしまうところ、逆境をバネにして動いていて偉い」ということなのだろうが、むしろそれは逆で、そんな辛い経験をしたからこそ今の自分の置かれている環境に満足できず、我慢ができないから頑張れるのだと言うべきだろう。

しかし、こうした発想は「不幸な出来事があった方が人生にとってプラスではないか」という「不幸への憧れ」を生み出してしまう。

「いっそ戦争でも起きてくれれば自分も本気出すのに」というのは、真実ではないがまったく中身のない言葉というわけではない。ただ、こうした感覚が広まることを良しとするわけにはいかない。

 

本筋に戻る。
結局、未来を切り拓くのはワガママな人である。しかし、集団生活において鬱陶しがられ抑圧されるのもまた、ワガママな人である。

 

「反骨心がある人がよい」「はみ出しものに寛容であれ」「生意気ぐらいがちょうどいい」

すべて人事の業務中に聞いた言葉である。しかし、学校教育も会社組織も、基本的にはこのようには動いていない。規則に従わない人は、その集団内で過ごすことすら困難になる。

 

残酷さと滑稽さが現れるのはここである。
ある程度未来を考えている人は、違和感を感じ我慢をしない人を求めている。

その一方で、多くの人は規則に従う従順な人をも求めている。
だから、求められる側の人たちも「規則に従う従順な人」を演じてしまう。
そうすれば、今の世界で安心して生きていけると信じて。

 

しかし、それももはや限界のように思う。
従順な人を演じているなかで、安心して生きている人を見たことがない。
たいていの人が「こんなはずじゃなかった」と思っている。
未来を切り拓きたい人たちにとっても、損失と言ってしまえば言葉にできないぐらいものすごい大きな損失だろう。

 

この問題に対しては、職場環境でいえば「当事者が自分で認識のスイッチを切り替える」「上の人が熱を与え続けスイッチを切り替える」という解決策しか思い浮かばない。
結局、誰かの違和感が他の誰かに燃え移り、「そいつぁ我慢できねぇぜ」と立ち上がる「準ワガママな人」が増えるしかない。

誰もが自分のことを第一にし、自分の価値観に従って好きなことをやる「価値観型社会」が理想だと考える理由もここにある。自分勝手な人だけが、周囲の近い価値観を持った人に火をつけて、自分たちにとっての良い社会を作り出せる。

誰かにとっての良い社会は他の誰かにとっての悪い社会かもしれないが、テクノロジーがこのまま進歩し世界レベルで近い価値観の人が連携できるようになれば、それを是正したいと思う自分勝手な人も出てくるだろう。

すべてが是正されることはないかもしれないが、多数の人が自分を偽って既存の規則に縛られた結果の未来よりは、自分の価値観を表明してその実現のために進んでいき、衝突を繰り返していく未来の方が、その時に生きる人類にとって有益なはずだ。

 

ここまで書くことで「日々生きることは、良く生きるための制約条件でしかない」という言葉に行き着いた。
元々「なぜ人はただ生きるだけでは満足できないのか」というテーマでブログを書こうとしていたのだが、期せずして自分の中の問題意識がつながったことになる。

國分氏の「暇と退屈の倫理学」のなかである程度すでに語り尽くされていると思うのだが、近いうちに今一度「ただ生きるだけでは足りない」という問題に関して、自分なりに考えてみたい。