canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

オリンピックが終わった後、僕らの中には「感動した」以外の何かが残るべきか?

リオオリンピック、すごいですね。

今日は朝から吉田選手の話題が溢れていたし、水谷選手や福原選手も物凄く話題になったし、女子バドミントンも金メダルを獲得したし。
もともとスポーツにそれほど強く興味があるわけではないのですが(スポ根は大好きですが)、自分自身、吉田選手の記事や福原選手のインタビュー映像を見てるだけでも少し泣きそうになりました。

でもですね、たぶん皆思ってると思うんですけど、ニュースが多すぎて速すぎて、感動の消費があまりにも急激に行われている気がしませんか。
柔道男子の全種目メダル獲得、内村選手の金メダル、錦織選手の96年ぶりのメダルなどなど喜ばしいニュースがたくさんある分、1つ1つの感動があまりにも、簡単に拡張されて消費されすぎてやいないですか。
そんなことをつらつらと考えていたのが、今日の吉田選手の銀メダルに対する反応を見て、決定的になりました。

いったいどれだけの人が、今日の試合のことや確かに感じた感動を、来週まで覚えていられるんだろうかと。
もっと言うと、日々のtwitterfacebookの投稿のネタ以上のものに、オリンピックはなっているのだろうかと。

もちろん、所詮はスポーツであって、パンとサーカスの「サーカス」に過ぎないとも言えると思います。テレビで観戦していれば、娯楽番組と何ら変わらない見方もできます。
それでも、周囲の人が本気で感動していたり、実際に泣いてしまっていたり、会ったこともない人の言動や戦う姿に心を動かされている現実を目の当たりにして、これすらも日々生み出されては消費されていく娯楽の1つになってしまうのではないかという予感が、堪らなく悲しく思えるのです。

問題は(twitterfacebookという)表現される場所にあるのかもしれません。日々新しい情報が更新されるのであれば、少しでも最新の情報に乗っかるのは当然です。
その一方で、半年ぐらい先に「何か知らないけどふとした瞬間にあの時のオリンピックの試合を思い出して泣きそうになった」という人がいても、僕は全然良いと思うのです。

オリンピックに出るような人たちは、恵まれた才能とそれを活かす努力や周囲の支えがあって、文字通り人生を賭けて身一つで戦っている人たちです。
そのような人たちの真摯な姿や競争-何十年も賭けたものを一瞬で出し尽くすその凝縮された時間-でさえ1日で消費し尽くしてしまうなら、僕らはいったい、何に心を預けて生きていけばいいのでしょうか?
日々更新される、面白くもないがつまらなくもない情報を食べつくして、貪りながら生きていくしかないのでしょうか?

オリンピックが終わった後、僕らの中には「感動した」以外の何かが残るべきか?
この問いに、明確な答えはありません。別に何も残らなくても、そもそも感動なんてしてなくても良いと思います。
ただ、人が本当の意味で感動しその喜びを分かち合えなくなってしまうとするならば(感動が意味的に消費される娯楽にすぎなくなってしまうのならば)、それは本当に悲しいことだと思うのです。

何かを表現するということが、自己顕示欲以外の気持ちから出ているということに、信頼がある世の中でありますよう。