canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

世界はもはやイノベーターの時代ではない。狂者の時代である。

突然ですが、あるものを突き詰めるとは一体どういうことでしょう。
スポーツであれ、学問であれ、芸事であれ、非常にニッチな趣味であれ。
何かを極限まで突き詰めると人はどうなるのでしょうか。

そのとき、その人はきっと狂ってしまっているでしょう。

「狂う」の語源は、何かに取り憑かれたように平衡感覚を失い「くるくる」としている様にあるようです。
ある対象にのめり込み、自分とその対象がまるで溶け合うかのように感じられるとき、その人は普段の感覚を失っているのであり、それは「狂っている」と言って差し支えないもののように思われます。

 

さて、現代において、「狂い」の持つ価値は、いよいよ増しているように思います。
変化が激しく、次々と新しいものが生まれていると言われる時代。
昨日の勝ちパターンが今日の常識になり、明日の負けパターンになる時代。
そんな時代に、「狂者」たちは競って未来を創っています。

 

つい数年前まで、環境は「乗り越えるもの」でした。
イノベーションという言葉が持て囃され、既存の常識を疑い、次の常識を創りだすことが、最先端の価値でした。

ですが、今、世界で最先端の価値を出していると思われる事象は、果たして環境を乗り越えた結果なのでしょうか?

 

イーロンマスクはロケットを飛ばし、電気自動車を走らせ、ソーラーパネルも作っています。
スティーブジョブズは電話を再発明し、Appleを世界一の会社にし、多くの人に情熱を与えました。

 

他にも世界で様々な人が、これまでにない価値を生み出しているでしょう。
さて、では、これらの人たちは、果たして既存の環境を乗り越えた結果、価値を生み出しているのでしょうか。

たしかに、イーロンマスクほど効率よく、スティーブジョブズほど洗練された製品を開発することは、常識を超えていると言えるでしょう。
しかし、ロケットも電気自動車も携帯電話も、すでに世界には存在したのであり、馬車が自動車になったほどの常識破りではありません。当時、鉄の塊が走るなんて、それこそ理解の範疇を超えていたはずです。

 

つまり、今世界で生じている最先端の価値は、人の理解を超えることから生まれているのではありません。
それでは、一体何から生まれているのか。

 

それは、ある狂者が信じ、創りだす環境から生まれているのです。

 

イーロンマスクは、人類が火星に行くことを信じ、それを突き詰める過程で様々なビジネスを形にしています。
スティーブジョブズはそれほど明確ではないですが、「貪欲であれ、創造的であれ」という言葉の通り、世界中の人々が創造的である世界を創りだそうとしていたことは、それほど間違っていないでしょう。

 

そう。もはや環境とは「自分で創りだすもの」であり、自分が創りだした環境で生きていくことこそが、最先端の価値を生み出す源泉と言えるのです。
そして、環境と自分自身が一体化しているならば、それは自分の人生を自分で突き詰めたということであり、「人生に狂っている」と表現しうる状態になるのです。

人生に狂うことで、新たな価値を生み出せる。
自分の中にあるものを突き詰めていくことで、ほかの誰にもできないことで生きていける。
こうした世界は、決して悪くはないものでしょう。

 

さて、ここまでは明るい話です。ここからが暗い話です。
ここに、一人の狂った少年がいます。
彼はあるものに非常に心惹かれており、いつでもそのことを考えていて、周囲の人にもその楽しさを伝えます。
その時、周囲の人はどんな反応をするでしょうか?
「彼は今自分の環境を自分で創りだしているんだ」と思ってくれるでしょうか?

現実的には、話が通じず、敬遠され、集団の輪から外れていくでしょう。
場合によっては「そんなものに興味を持つのはやめなさい!」と言われてしまうかもしれません。
ですが、それだけであれば、まだ悲劇も少ないのです。

 

さて、自分で自分の環境を創りだせなかった少年は、環境に自分を合わせたり、自分に環境を合わせたり、環境から自分を遠ざけようとしたりします。
それぞれ、クラスメイトの中に加わる、波長が合う子とだけ遊ぶ、空想の世界に引きこもる、などでしょうか。
この中で1番推奨されるのは、おそらく「クラスメイトの中に加わる」でしょう。
誰だって子どもには、できることならみんなと仲良くしていてほしいはずです。

 

しかしこの場合、少年の内部で様々な変化が起きていることは、案外知られていません。
もともと、彼は狂っていたのです。話が通じず、歯がゆい思いをしていたのです。
そんな彼がクラスメイトの中に加わるためには、環境に合わせて自分を創り直し、それを絶えず修正していくプロセスが必要です。
少年は環境ではなく、自分自身をつくりあげてしまうのです。
そうして、「狂った少年」から「環境を読み解き、周囲と合わせることが出来る少年」になるのです。

 

さて、彼が大人になった世界を見てみましょう。少年も今や、立派な社会人です。
周囲と合わせることが出来るようになったとはいえ、それは自然にできることではありません。
一生懸命つくりあげ、ボロが出ないように過ごしてきたのです。

そんな中、気がついたら自分が過ごす環境のルールが変わっていることに、ある日ふと気づくのです。
環境に合わせるだけでは、自分の居場所がなくなってしまう環境に。
自分の突き詰めたものを信じ、それを形にしている人が、最先端の価値を生み出し、賞賛されている世界に。

 

元狂者だった彼は、現狂者が最先端にいる姿をみてこう思うのです。

「自分も、あのまま狂わせておいてくれればよかったのに」と。

 

さて、色々と書いてしまいましたが、現代が狂者の時代であることは、ほぼ間違いないと思っています。
逆に言うと、自分が突き詰めたいと思ったことをビジネスに結びつけマネタイズし、それを周囲も支援でき環境が整いつつあるのが現代だということです。
一方で、多くの教育者は子どもたちに対して、幅広い人と交流し、多くの分野の知識を身につけることを求めます。
そうしないと、社会で生きていけないと思われているからです。
ここに、現代(日本)の小さな悲劇の源泉があると考えています。
なぜなら、こうした歪みで傷つくのは、いつだって少数派の個人であるからです。

 

世界はもはや、過去を乗り越えることからは始まりません。
全存在を賭けた人間同士が、自分の領域において文字通り人生を使い果たすことで、新しい未来が作られる世界です。
そうした人が世界に十分に増えたとき、それは国家というシステムの消失を導くでしょう。
なぜなら、人々は生まれや血筋ではなく、その人が人生を賭ける「何か」により、つながることができるようになるからです。

 

そして、その世界は決して安穏とした幸せな世界ではないことも、十分に伝わるかと思います。
元々人間には、それほど強い意志を持つ必要がありません。なのに、強い意志を持った人が増え、力を持ち、集団化していく。
そうした世界は、一部が大衆を支配している時代とは、全く異なる世界です。
無条件に支配してくれる有難い存在は、あまり魅力的でないものとなるでしょう。

 

だいぶ飛躍しながらここまで来てしまいました。
この文章を読んでいただいたことに感謝をしつつ、
・現在は狂者の時代であること
・狂者の時代に悲劇を感じている人がいること
の2点をどうかご理解いただければ、これに勝る喜びはありません。

それではどうぞ、また会う日まで。