canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

「資本・価値観主義社会」の到来

ここ数ヶ月、暇を見つけては「将来の社会はどうなるのか?」ということを考えていました。
情報センサーの低価格化、IoTの進展、データの収集・分析力の向上、それら全てにより「人間の生活を全て把握できてしまう」という状況の中で、いったい人々は何を大切にし、重要に思い生きていくのだろうか、という疑問があったからです。

そうした中で、少し前からイメージとしては持っていたのですが、色々な記事や下記の本を読んで「今後間違いなく、個人の『価値観』が最重要になる社会がやってくる」と確信をした次第です。

それは、資本主義の次のステージである「資本・価値観主義社会」と言ってもいいものだと、個人的には考えています。

 

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http://www.amazon.co.jp/dp/4822251039

 

ここで言う「個人の価値観が重要になる」という言葉には、下記3つの意味が含まれています。

①働き方:法人や団体も価値観を持つようになっており、その構成員もスキルや技能に加えて適切な価値観も求められている。
②対人関係:個人への信頼の基礎が、その人の価値観に置かれるようになる。
③自身の幸福:個人としての価値観を持たなければ、個人としての幸福を得づらくなる。

それでは早速、それぞれについて見ていきましょう。


①働き方:法人や団体も価値観を持つようになっており、その構成員もスキルや技能に加えて適切な価値観も求められている。

現在の日本の採用市場においても、その人が「社風」に合うか?というのは大きな判断基準になり得ます。

特に、その人のポテンシャルを見るしかない新卒採用では、「人物面でのマッチング」がより重要になります。学生側の内定承諾の基準も、最終的には「人で決めた」という回答が最も多いのです。

しかし、中途採用においては、いまだに「スキルでのマッチング」が主体です。
社内で拡大したい、あるいは人が足りない事業や業務に対して、それが担当レベルで回せるかどうか?が重要視され、多少面接時に人物面で難があったとしても、それを根掘り葉掘り確認することはそれほど多くないでしょう。

ところが、今後の就業環境においては、その「人物面でのマッチング」こそがより重要になる予兆が、色々なところで出ています。
それは「先進企業だけがそうしている」ということではなく、「企業として自身が世界に提供する価値や姿勢を明確にしなければ、今後市場で選んでもらえない」という時代が、明確に迫ってきているということです。

みずからを、「靴を売ることになった顧客サービス企業」と称すザッポスは、その分かりやすい企業の形でしょう。東洋経済の記事にこうあります。

ザッポスの企業文化さえしっかりしたものにすれば、広告などにおカネをかけなくても、ブランドや売り上げは後からついてくると考えた。社員をハッピーにし、ハッピーな社員が顧客にサービスを尽くすことで顧客もハッピーになるという、よい循環を起こすのだ。

そのために、新たに雇用する社員はこのコアの価値に合うかどうか、合わせる気持ちがあるかどうかで厳しく選抜し、雇った後も合わないとわかればすぐに解雇する。解雇するのに報酬を与えるというのも、有名な話だ。報酬は、在籍した年数に合わせて2000〜5000ドルだ。
http://toyokeizai.net/articles/-/45650?page=2

差別化の経済が勢いを弱め、個別化の経済が強くなっている昨今、顧客をハッピーにできない企業=顧客に我慢を強いて売上を上げている企業は、どんどん競争力を失うでしょう。

なぜなら、テクノロジーの進化により、不便を便利にする力学が、今後より強まるからです。宿泊先がなかなか見つからないホテルに不満を持つ人は、Airbnbの恩恵を今後より強く感じることでしょう。

さらに、最近「アライアンス」という企業と個人のフラットな契約の形が注目を浴びているように、終身雇用が前提とならない社会では、「我慢して働く」ことのインセンティブが下がります。我慢の先に報酬や地位といった見返りが約束されているわけではないからです。

こうした様々な理由により、企業も従業員も、その「価値観」を土台とした交渉や契約を行うようになるでしょう。それが経済的にも合理的であり、時代の流れに沿っている以上、この動きは長期にわたって続くと思われます。

 

②対人関係:個人への信頼の基礎が、その人の価値観に置かれるようになる。

近頃、環境の変化が速いと言われます。その渦中にいると実感は湧きませんが、下記のような話を聞くと、その変化が少し感じられるのではないでしょうか。

 現在の世界のデータの90%はここ2年間に生み出されたもので占められているという。

 世界のデータ量は毎年40%、そして2020年までには50倍にまで増加すると予想されている。

(いずれもhttp://thebridge.jp/2015/01/worlds-data-volume-to-grow-40-per-year-50-times-by-2020-aureus-20150115-2

 仮に、現時点の全世界のデータを100とすると、ここ2年で生まれたものが90であり、過去数千年の蓄積は10にすぎない。さらに、5年後にはデータの総量がなんと5,000にも達するというのです。
(もちろんデータの増加=環境の変化ではないですが、「人が処理できないほどのデータが生まれている」という事実は感じられると思います。)

こうした状況により、対人関係にも変化が生じると考えています。もっとも、これは今でもそうでしょうが、人は一貫性のあるもの、安定しているものを生来的に好みます。
そうした中で、ある人が技術や地位(=変わりやすいもの)によって信頼を得られる期間はどんどん短くなり、代わりに趣味嗜好や価値観(=変わりにくいもの)が重視されるようになるでしょう。

そして、「磨かれた価値観」や「向上し続ける価値観」というものを持つ人が尊敬・信頼され、「同じ価値観をもつ人」を集めることが様々な場所で起きるはずです。
こうした集まりが「企業」になることも、当然今後増えるであろう事象の1つです。
①により企業が価値観を持ち始めると同時に、そもそも同じ価値観を持つ人が企業や団体を作るということが、より一般的になるでしょう。

 

③自身の幸福:個人としての価値観を持たなければ、個人としての幸福を得づらくなる。

①と②により起こることは、数え切れない影響を個人に及ぼします。
突き詰めて考えれば、ある価値観を持っていないことが理由で、ある経済活動に参加できなかったり、あるサービスを受け取ることができなくなったりするかもしれません。なぜなら、企業や団体は同じ価値観を持つ人を仲間にし、特定の価値観を持って自社の商品やサービスを展開するからです。

しかし、実はこのことは、大きな問題ではありません。なぜなら、自分の価値観と大きく異なる商品やサービスを利用できないからといって、個人にとっては特に困ったことにはならないからです。

例えば、ザッポスのように「社員や顧客をハッピーに」という価値観を良いと思う顧客であれば、社員が劣悪な環境で働かされている企業の靴は、どれだけ品質が良かったとしても、おそらく欲しいと思えないでしょう。
一方で、「安ければよいのだ」という価値観を企業と顧客が持ち、従業員も「過酷だが高給」などといったモチベーションがあるのであれば、安い靴が流通する経済も、一定の水準で続いていくでしょう。

このように、「資本・価値観主義経済」では、市場が富裕層・一般層といった資本力だけではなく、価値観によっても区別され、かつそれぞれが互いに重なり合うという状況が発生してくるはずです。

ここで、価値観が重視される世界の、個人にとっての大きな問題が発生します。
それはつまり、「自分の価値観が分からなければ、どの市場に参加してよいかが分からなくなる」ということです。
もっと言えば「生きているだけで自分の価値観が強烈に問われる世界になりうる」ということなのです。

しかし実はこれすらも、実は深刻な問題ではありません。
なぜなら、「今の日本では価値観を問われることが非常に少なく、結果として自分の価値観をきちんと把握し磨いている人も少ない」ものの、価値観は大人になってからでも努力次第で変えることが可能であり、子どもであればなおさら教育の問題で解決できるからです。
ただし、これからも「周囲と協調するのが一番よい」などと言いながら、自分で自分の優先順位を決められないような人が育てられ続けるのであれば、将来は悲劇で溢れるといわざるを得ないでしょう。
自分で価値観を選択できない人の集団が起こしたのがバブル経済であり、今後の世界は、お金よりもダイレクトに自分の心に働きかける価値観が、あらゆる商品やサービスを通じて届く世界なのです。その際、自分自身の選択基準を持たない個人は、市場の奴隷になるしかないのです。

さらに、もしもこの「資本・価値観主義社会」という考え方が非常に強く進むのであれば、それは企業や市場だけではなく、地域や国家の姿も変えていくでしょう。例えば、「この町に住む人は、競争よりも調和が大事だと思っている必要がある」というように。

これは言いすぎかもしれません。が、今よりも世界的に貧富の差が解消され、交通の利便性(モビリティ)向上が行われれば、世界がこのような形に向かう可能性も十分にあると考えています。
なぜなら、魅力的な価値観は人をひきつけ、団結させる力を持つからです。各種の宗教やキング牧師の例を引くまでもなく、価値観とそれに基づくビジョンは、人を動かす力を持ち続けています。

 

ここまで偉そうに書いてきましたが、1つ告白すると、私はまだ「自分の価値観」というものがよく分かっていません。
だからこそ、価値観を作るために必要なものが分かります。
それは「意味のある現実との間に『インプットー処理・解釈ーアウトプット』を作り続けること」です。

非常に不明瞭かつ、自分自身噛み砕けていないことですので、詳細の説明は割愛いたします。
ただし、「価値観」という一見ふわふわとした不確かそうに見えるものが、必ず「意味のある現実」と結びついていなければならず、その間には「神経系による情報のやり取り」が行われているという仮設は、色々な示唆を与えてくれると思うのです。

本日書いたことは、ともすると「当たり前」のことかもしれません。「その人の価値観が大事」というのは、誰も疑いようがないことだろうからです。

ただし、その「大事」という言葉意味が「経済活動に参加できないこと」「人から一切信頼されなくなること」「市場の奴隷になること」とまで拡大できるということは、あまり考えないことではないでしょうか。

ちなみに、「価値観」をここまで中核に据えたのは、過去の偉人や支配者、経営者の生き方を調べる中で「自分の価値観を現実世界に反映させることが幸福につながるのではないか?」という仮説が生まれたからです。このことについては、より詳しく考えていきたいと思っています。