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canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

発達し続けるテクノロジーに、個人としてどう向き合うべきか?

昨年バズった「10年後になくなる仕事」の記事(下記リンク参照)や、30年後の世界から2015年を見つめるNHKのNEXT WORLDなど、ご覧になった方も多いと思います。
これらの記事や番組では、テクノロジーの発達により仕事や日常生活など、あらゆる場面がこれまで以上に変化することがどんどん示されています。
衝撃的なのは、その変化が未来予測ではなく、現実として生じつつあるということです。

オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」702業種を徹底調査してわかった | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

現状、この変化は一方通行であり、速度が鈍くなることはあれど、テクノロジーが無くなる方向に進むことはないでしょう。

テクノロジーが変われば、環境が変わります。
当然、環境が変わればその中で生きる人間も変わらざるを得ません。
そこには大きな混乱や、苦痛や、絶望が伴うでしょう。
例えば、ラダイト運動を起こした熟練工や、ペリー来航に戸惑ったかつての日本人のように。

往々にして、人は環境が変わる際に「政治を変えるべき!」「制度を変えるべき!」と言いがちです。
しかし、訪れることが確実な変化ならば、「自分が変わるべき!」という意識を持った方がいいのではないかと思っています。
自分の仕事や大切にしているものが、急に無価値になるその時に、慌てないためにも。

というわけで今回は、テクノロジーがもたらすもっとも大きな変化、つまり「死の克服」という現象を考えてみたいと思います。
記憶の完全なバックアップを取れたり、自分そっくりのアンドロイドを作れたり、機械で弱った身体を補強したりできるようになることは、とっても良いことのはず。
ですが、どこかしら不安を感じはしないでしょうか?
その理由を明らかにしつつ、「では、どうすればいいのか?」についても、少しだけ考えてみたいと思います。

その前に、「死」というものを定義したいと思います。ここの捉え方が、1番重要ですので、「何を言っているんだコイツは」と思っても、ぜひしばし、お付き合いください。

突然ですが、私は現在の「人間の死」には3つの種類があると思っています。 
(しばし、お付き合いください!)

1つ目は、肉体的な死です。
いわゆる「死」と言われているもので、老衰や事故死などを含みます。
法律的に「死」と言われるものは、主にここに分類されますし、他の生物の死もこうしたものがほとんどでしょう。

2つ目と3つ目は、同一直線上の両端にあるものです。
前者が「個人的な死」で、後者が「社会的な死」です。
歴史のある時点で生み出されたと考えられるこれらの死は、対比しながら考えると分かりやすいかもしれません。

まず、人は「誰かと一緒にいたい」と思うときもあれば、「一人でいたい」と考えることもあるでしょう。
この欲求を「同化の欲求」と「孤立化の欲求」と名付けます。

ここで、わかりやすさのために順番を入れ替えますが、「孤立化」を極限まで進めていくと「社会との無関係」という状態が発生します。
つまり、「他社と一切関わりを持たずに生きている」という状態です。
厳密には違いますが、戦死したと思われていたにもかかわらず、無人島で生きていた日本兵の方などを想像するとわかりやすいかもしれません。
たまたま発見されたから「生きていた」ものの、永遠に見つからなければ間違いなく「死んでいる」と思われていたでしょう。
他者とのあらゆる関係性が失われてしまうこと。これが「社会的な死」です。
主観的には「生きて」いますが、それが報われるのは、社会的なつながりを回復したときだけです。

一方、「同化」を極限まで進めていくと、「集団への埋没」ということが発生します。
つまり、「自分ととある集団が、境界がわからないくらい一緒になってしまう」ということです。
少しわかりづらいかもしれないのですが、もしその人が本当に「自分と集団の境界がわからない」と感じているならば、「個性」というものはなくなり、その人を動かしているものは「外部の規律」だといえます。
なぜなら、その思想や行為が集団と完全に一致するということは、個人としての思想や行為が存在しないことと等しいからです。
自己という存在を完全に失うこと。これが「個人的な死」です。
永遠に洗脳され、ないしは発狂している状態、と考えてもいいかもしれません。

先ほど私は「人は『誰かと一緒にいたい』と思うときもあれば、『一人でいたい』と考えることもある」と言いました。
これは、本来的には「『個人的な死」から逃れるために集団から離れたくて『孤立化の欲求』が生じ、『社会的な死』から逃れるために集団と交わりたくて『同化の欲求』が生じる」ということ。
つまり、両方の「死」から逃れるために矛盾した行動を取らざるを得ないという、まさにその中から生じる現象なのです。
(もしこの世界に自分1人しかいなかった場合、そもそも自己という存在を認識することができません。したがって、「個人的な死」もあくまで集団との関係性の中で生じることとなります。)

ここまでで、2つの死が「同一直線上の両端にある」という意味がご理解いただけたのではないかと思います。

さて、この3つの死を定義したことによって、「テクノロジーによる『死の克服』に不安を覚えるのはなぜか?」という問いの回答は、かなりスッキリしました。

それは、「現在発達しているテクノロジーでは『肉体的な死』は克服できるけれども、同時に『個人的な死』と『社会的な死』の問題をより強めるものであるから」という回答です。
「肉体的な死」の部分は分かりやすいと思いますので、後半の文章について、もう少し詳しく見てみましょう。

まず、「個人的な死」についてです。
テクノロジーの発達により、これまで以上に「個性とは何か?」という問題が目の前に突きつけられてしまいます。
「このかけがえのない、たった1つの存在としての自分」という前提は、まったく同じ記憶を持ち反応パターンを示す人工知能を、姿形を再現したアンドロイドに組み込むことで簡単に崩れ去ります。
このとき、自分の独自性というものはなくなり、自己という存在の確かさを支えるものは消え去ってしまいます。
こうして、「個人的な死」はとても身近な存在になります。

一方、「社会的な死」については、問題はもっと深刻です。
現在ですら、生きようと思えば他社とほとんど関わらずに生きることが可能です。
ましてや、身の回りの世話をほぼ全てやってくれる機械ができ、仕事もなくなり、生きていくのに困らなくなれば、機械だけと関わっていれば、不満のない日々を送ることができるでしょう。
しかしこれは、上記の定義から言って、まちがいなく「社会的な死」を迎えた人間の姿です。
余談ですが、私には、動物に限らずぬいぐるみや小さな機械にすら感情を見出し関係性を作り出せてしまうということそのものが、人間の「社会的な死」への抗いにあるように感じられます。

さて、これまで見てきたように、テクノロジーの発達は1つの問題を解決しますが、同時に2つの問題を深刻にしてしまうことがわかりました。
しかし、この流れは止まりそうにない。では、個人は何を変えるべきなのか?

それは、「自己の喪失」と「関係性の喪失」を反転させたもの。
すなわち「集団と関わり合いながら、個性を確立し、社会性を身につけていく」というものになります。
自己啓発本やビジネス書などでさんざん扱われているテーマですが、「そうすれば上手くいく」ではなく、「そうしないと(定義上)死んでしまう」という意味で、その必要性はより切実になっていると言えるでしょう。

こればかりは、ツールとしてのテクノロジーがどれだけ進歩しようとも、それを使用する人間が発達しない限り、決して解消できない問題です。
なぜなら、「個性」や「社会性」はもともと存在するものではなく、生きて生活しながら自分で編み上げていくものだからです。
(効率的に上記を達成する方法は幾つか考えられますので、それはまたの機会に書きたいと思います。)

最後に、今回のテーマとは外れますが、現在の「自殺」は、この「個人的な死」と「社会的な死」の両方を経験してしまうこと(正確には、片方の死が既にあって、もう片方がそこに加わること)で生じるのではないか、と思っています。
逆に言えば、「個性が確立されている」「安心できる社会的関係がある」が担保できていれば、「自殺」は減らせるのではないか……と思いつつ、その具体的施策に苦心されている方々には、本当に頭が下がる思いです。