canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

いいね!が壊す個人の世界〜facebookからおもしろいことは生まれません〜

facebook(以下FB)を1、2年使っていて、やっと納得できたことがあります。
それは、ここはあまり多くを期待してはいけない、公の場なのだということです。

FBは、ゆるいつながりを生成・維持するには、本当に素晴らしい場です。
仕事を始めてから、本当に多くの方と友達になり、つながりをさらに深めるきっかけになっています。

ただ、そこにおもしろさ、エンターテイメント性を求めると、途端に味気なく、まったく魅力的でない場になるのです。
なぜなら、FB自体に、おもしろさを打ち消す仕組みーそいつの名こそ、いいね!ーがあるからです。

今日は、どうしていいね!がおもしろさを打ち消すのだろう?というお話です。
(ここで言うおもしろさとは、個人に帰属する独自性や意外性の高い体験や考えが含まれていること、とお考えください。)

いいね!が多くつく投稿には、いくつかのカテゴリーがあるのは、皆様もお気づきだと思います。
ここでは便宜上、それを下記の3つに分けてみました。

1.写真(食べ物、子ども、動物、集団、風景など)
2.前向きに終わる後ろ向き発言(今は苦しいけど、この経験も大事にして幸せになるよ的なもの)
3.ライフイベント(恋愛、結婚、(前向きな)転職など)
※記事の転載などは、その人自身から出た表現とは区別するため、上記のカテゴリーから除いています。

大前提として、人は他者からの反応がなければ、生きている実感が持てない生き物です。
無視、つまり徹底的な無反応がもっともひどい存在の否定であることを思えば、理解いただけるかと思います。
(もちろん、暴力等もひどい仕打ちであることには変わりありませんが、存在自体を否定しきれてはいません。)

逆に言えば、他者からの反応は、生きている実感を得る一般的な手段です。
いいね!が増えると何だか幸せな気持ちになって、あの人にもこの人にも認めてもらえているような気がするのは、まさにこの理由によります。

当然、生きている実感はないよりはあった方が良いものです。
と言うことは、いいね!もないよりはあった方が良いと考えられます。
だから、いいね!は、あった方がいいのです。


……ところが、これはあくまで、個人単位で見たときの話です。
これを集団で見たときには、想像される通り1〜3のカテゴリーのものばかりが目につくようになります。
それでは、同じような投稿が溢れるから、おもしろみに欠けてしまうのでしょうか?
実は、問題の本質はそこではありません。

その本質とは、投稿者がいいね!を求めると、必然的に見た人が嫌な気持ちにならない、お利口さんの投稿をしてしまうことにあるのです。
今一度、1〜3を見てください。
基本的に、誰も傷つく人がいない表現であることが理解できるかと思います。
誰かへの誹謗中傷、同情するのも困難な悲惨な事件や妬んでも妬みきれない幸運は、そこには現れてきません。
それこそが、誰にでもある個人的で大切な経験であるにも関わらず、です。

ここで、いいね!の意味は逆転してしまいます。
自分の表現したいことそのものではなく、見た人を不快にしないための投稿ですから、基本的にはその反応が悪いものであるはずがありません。
しかしそのために、「あなたを認めているよ」というプラスのメッセージだったはずのいいね!が、ここでは「見てはいるよ」というナチュラルな意味合いとなります。
すると、いいね!が無いということが「見てない」から「見たけど何も感じなかった=無視」まで、あらゆるマイナスのメッセージを持ち始めるのです。

つまり、いいね!の持つ意味合いが、「あなたの気配りは間違っていないよ」という免罪符にまで変わり果ててしまうのです。

こうして、個人的な気持ちを個人的に出せるSNSという幻想は破れ、多くの人が、誰かの目を気にしながら投稿を続けるという事態が発生するのです。
当然、みんなのために気配りしながら投稿される諸々のものに、おもしろいものが含まれているはずもありません。
それは誰も傷つけないもの。
つまり、心に残らないものだからです。

もちろん、FBの投稿の中には、おもしろいものもあります。
しかしそれは、その人が意志を持って、恐らく批判も受け取る覚悟でそのことに取り組んでいて表現しているからであって、FBの仕組み自体が生み出したおもしろさではないのです。
(最近、あえて少し極端なスタンスを取った投稿に共感が集まるのは、FBの仕組みを活用した例と言えるでしょう。個人的には、あまり好きではありませんが。)

本日の結論は、上記のようなFBの特徴を踏まえてうまく付き合っていきましょう、ということです。
世の中にはFB疲れなる、FBをすることで逆に疲弊してしまう人たちがいると聞きます。
それは、FBが公の場であれば当然のことです。
リアルでもネットでも誰かに気を遣い続ける生活は、個人、その人自身を、どこか遠くに追いやってしまうのです。

それでは、私的な感情や考え、誰もがもっとも大切な存在とすべき自分自身は、どこでなら満たされることができるのか?

問いは、まだまだ続いていきます。

※追記
TwitterInstagramとは何が違うのか?という質問をいただいたので、少し文章を増やしてみます。
ただ、これらはじっくりと使ったことがないため、偏見が含まれている可能性もあります。予めご了承いただければ幸いです。

まず、FBとTwitterInstagramでは、その場の持つ意味合いが異なるため、当然にいいね!やfavoriteの意味合いもまた異なると考えられます。

そもそもInstagramは写真ですから、他者を傷つけうるものではないため、確執を生むこともありません。
また、写真は芸術の分野に属するという理解もあり、そもそもすべての人が良いと思うことを、前提としていないため、いいね!がない=たまたま好みに合わなかった、という理由付けが可能です。

Twitterに至っては、匿名性がある程度担保されていることと、多数の人の言葉が同時に目に入ってくることによりfavのハードルが上がるため、favがつかない=無視されている、という意識が浮かびにくいものと思われます。
そもそも、生活の一挙一動を呟くなかで、全てに反応がもらえるとは期待してもいないでしょう。
期待がなければ失望もないということで、Twitterのfavはまだ、プラスの意味合いを持ち続けていると言えるでしょう。

ただし、最近はハッシュタグ文化が起こったため、表現方法は同じなのに話題になる人、ならない人が分かるようになってきました。
そこに対して、反応を求めて表現をしている人は、もしかしたら気遣いをしているのかもしれません。

このように見てみると、FBのいいね!による問題は、誰にとっても口当たりの良いものを提出した結果、そこに反応がなければ自分自身にその責任を求めざるを得ないという、まさにその内にあると考えることも可能かもしれませんね。