canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

問題そのものではなく、自らが生み出した問いと格闘せよ。

アインシュタインの有名な言葉が、問いと解決の関係について、非常に重要なことを示している。

 

いかなる問題も、それを作りだした時と同じ意識レベルで解決することはできない。

The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.

つまり、意識の階層を上げなければその問題の本質は見えないし、当然解決策も出てこないということだ。
では「意識の階層を上げる」とは何かと言えば、それはその問題をより包括的に捉え、違う文脈に置き換えたりこれまでとは違う切り口で分解したりできるような糸口を見つけるということだ。

 

例えば、死の恐怖に怯える人が「死ぬとはどういうことか」という問いを立てたとする。
このままでは何ともとっかかりがないが、死の対義語として生があると思えば「生きるとはどういうことか」という問いに変わる。
これも格闘するにはふわふわとした相手だが、ここからより考えを進めて「生きるとは万人にとって同じ体験なのか?(違うはずだが、それを前提に考えていないか?)」「死ぬことで何を失うことが怖いのか?それは生きている間に大事にすべきものか?(大抵の場合本当に大事なものは別にある)」「これまで死んでから生き返った人はいないのか?(臨死体験というものがあるようだ)」などと色々な問いを立てていけば、少なくとも幽霊を相手に取っ組み合いをするようなことにはならないだろう。

 

ここで行ったのは「生は死を含む概念である」という意識の変更であり、死そのものではなく生の中にある死を捉えることで、最初の「死ぬとはどういうことか」に答えようとするものだ。

この正しさは別にして、一応「逆転」という発想を用いているのでオズボーンのチェックリスト的にも間違っていないと思われる。

 

オズボーンのチェックリストを使ってアイデアを自動的・強制的に出す方法

 

また、この「問いの質を上げる」ということについては、安宅さんの「イシューを見極める」という考え方が役に立つ。
それは「具体的な仮説を正確な言葉にすること」だ。

言葉にすることで「最終的に何を言わんとしているのか」をどれだけ落とし込めているかがわかる。言葉にするときに詰まる部分こそイシューとしても詰まっていない部分であり、仮説を持たずに作業を進めようとしている部分なのだ。

 

例えば先ほど「死」という言葉を何気なく使ったが、この言葉も非常に曖昧だ。
漠然と考えると老衰による死を考えるが、事故死もあるし自殺を考えることだってできる。
法律上は「失踪して7年間経ったのち、失踪宣告の申立ができ、認められれば死亡」と認められる。
つまり、現代社会には肉体的な死と制度的な死があることがわかる。
基本、生きている人が恐れるのは前者だが、後者を知ることで、前者の死をより相対的に見ることができる。

 

個々人にとって「理解する」とは「納得する」とほぼ同義(ここを分けて行動できる人もいるが)であり、そのための方法は人それぞれだが、人間は比較と直感の2つで物事に対して納得すると思っている。
つまり「AはBより良い」か「Aは感覚的に素晴らしい」のどちらかである。
多くの人は、感覚的に素晴らしいものを後付けで比較し「やっぱりAが良い」という納得感と選択した意識を持つものだ。

 

さて、話が逸れた。
今回言いたいことは全てタイトルに現れているから、実はこれ以上書くこともない。
死について書きたかったがためにこのテーマを後付けで思いついたとしたら、ここまで読んでくれた人はどう思うだろうか。
しかし、それすらも別にどうでもよく、自分にとって「現時点での死」はすでに過去のものになっていることが再認識できたことが重要だ。
もう少し「死」が身近になった時、また取り組むテーマになるのだろう。

 

そろそろ次の問いに取り組むべき時が来ている。
ベーシックインカムの話はその一部ではあるが、本当に戦いたい相手とは少し違う気もしている。
新しい問いを探索する。この時間が楽しいことを、どれだけの人が共感してくれるだろうか。

食べ物がその人の身体を作るなら、音楽がその人の心を作るということはないか。

自分は音楽が好きで、その中でも「オリジナル女性ボーカル同人音楽」という、非常にマニアックな領域にかれこれ15年近く存在しています。

もともとは兄の影響で「ゆず」「布袋寅泰」とかを普通に聴いていて、その後ゲーム音楽からケルト系の民族音楽にハマり、何とか無料でいい曲が聴きたい!とPCゲームの主題歌を漁っていたらKOTOKO真理絵さん、志方あきこさんに行き着き、そこからは同人音楽の世界にどっぷりです。
僕が「本当に好きなものは何?」と聞かれたとき、唯一自信を持って答えられるのが、オリジナルの同人音楽なのです。*1

 

で、僕は大学の卒論で聴覚について書いたのですが、それはひとえに「音楽が人に与える影響って一般に思われている以上に大きいんじゃないか?」と思っているのです。
というか、ビートルズのように音楽が世界を変えた例もあるので、正確には「昔は凄かったと思われている音楽の力だけれど、別に今でも十分凄いんじゃないか」と思うのです。
確かにCDは売れなくなりオリコンもどうなの?と思いますが、それは音楽の視聴環境が時代に合わなくなっただけであって、ストリーミングサービスは盛り上がり、youtubeのMVの再生回数は(喜べないかもしれませんが)数百万回を軽く超えるではないかと。

 

例えば、音楽のテンポ(bpm)というだけでも、非常に興味深い話が色々と出てきます。

 

2010年代のJ-POPのテンポが「高速化」してるという話 - 日々の音色とことば
くるり(bpm72)やフジファブリック(bpm130)からチームしゃちほこ(bpm190)、ハチ(米津玄師)さん(bpm250)まで、色々な曲を取り上げながらそのbpmと与える印象について教えてくれます。
関係ないけど、ハチさんのドーナツホールは名曲だと思う。

 

で、タイトルは微妙だけど、bpmが速い曲は集中力を阻害する研究もあるとか。

仕事中にBGMを流す人は無能!英大学の研究で判明 | ハーバービジネスオンライン

これはある種当然で、曲=リズムなわけだから、音楽を聴くというのは非常に身体的な活動ですよね。
集中したいときに身体を速く動かすなんてことはあり得ないわけで、その身体的刺激が脳にフィードバックされたら、そりゃ落ち着かないでしょうというのが個人的な見解です。

 

そして、音楽を聴くのが身体的な経験ならば、それがその人の心(=外界に対する反応のパターン)に影響しないわけもなく。

好きなジャンルで性格もわかる? 「音楽と人間」の研究 | ライフハッカー[日本版]

これは半分眉唾ですが、感覚的には本当だと思うんですね。
ある程度選り好みして音楽を聴く人なら、その曲を知ればその人のことがわかるはず。
ただ、音楽は聴いたことがないと絶望的に想像できないので、浅いコミュニケーションツールとしては難しいのですが。

 

とまぁ、そんなわけで最後に、最近1番好きな「にゃーろんず」の曲を貼りますね。
やくしまるえつこさんとか岡崎律子さんとか、そのあたりのウィスパーボイスが好きな人は気に入るんじゃないかな。


「いのち短し恋せよ乙女」short ver.

 

そして、この曲が好きな自分の心とは一体どんなものなのか……。
そんなことを考えてみると、楽しい連休が過ごせると思います。たぶん。

*1:東方や二次創作系も一時期は聴いていましたが、追いかけきれないので今は一切追わなくなりました。

終戦100周年の年を、僕らはどんな気持ちで迎えるだろう。

第二次世界大戦が終わってから、もうすぐ72年が経ちます。
8月は様々な式典がありますし、お盆もあって必然的に先祖について考える機会も増えますから、曽祖父母の生きた戦争の時代に想いを馳せることも多くなります。

 

100という数値に本質的には意味はないけれど、それでも2045年には、第二次世界大戦が1世紀前の出来事になります。
今から100年前の1917年の日本はまだ大正時代ですし、第一次世界大戦の最中で、ロシアでは革命も起きています。
あと28年後の人たちは、今の人が大正時代を思う気持ちで、昭和を思っているでしょう。

 

各地で紛争や内戦は起き続けていますから、決して戦争は過去のものとは言えません。
ただ、世界大戦ということを考えるなら、あと28年間何も起こらなければ、僕らは「100年間戦争を経験しなくて済んだ国」として喜んでいられるでしょうか。*1


東洋経済ではつい昨日、こんな記事も出ていました。

 

100年人生は「戦争くらい起きる」と考えよう | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

「不慮の事態に備えて生きる」という話と「不慮の事態が起こらないように最善を尽くす」という話は全くの別物です。
ただ、こと戦争においては、個人でできることは投票権を行使することくらいしかありません。

 

もちろん、意見を表明して仲間を集めることはできます。
ただ、もしも実際に日本にミサイルが撃ち込まれたり、第3次世界大戦が起きそうになり防衛が必要となったりした際に「戦争はやめよう!」という声がどこまで響くものか、自分には分かりません。
「参戦か被支配か」という現実を前に「戦争反対」という話だけで後者を選ぶことは、国家としては不可能でしょう。

 

現実に「戦争」という手段を選びたくなる状況になったとしても、いかにしてそれを回避するか。
それ以外の方法でなんとか片をつけるような方法を考え出すために、日頃から知恵をしぼることができるか。
そんな芯の強さを、多くの人が持つことができるか。

 

「戦争を経験しなかった国」でももちろん素晴らしいことですが、例え何かあったとしても「戦争をしない選択をした国」でありたいし、それを誇れるような未来にしていかないとと思ったのでした。*2

*1:近年の海外派遣に関して「本当に戦争を経験していないか?」というと微妙かもしれません。ただ、少なくとも2015年までは「戦闘で1弾も発射せず、テロの犠牲以外には1人の戦死者も出していない」ようです。

戦後70年、1人の戦死者も出さず黄金時代を生んだ平和主義を検証する | 田岡俊次の戦略目からウロコ | ダイヤモンド・オンライン

*2:個人的には、過去起きた戦争に今の時代の価値観で良し悪しを語るのは間違っていると思います。ただ、未来に起きる戦争については、どんな理由であれ他の選択肢が存在するはずだし、その可能性を捨てないでほしいと思っています。

必要なことだけでは生きていけない贅沢人間の話。

つくづく、自分は「必要なことだけをして生きていく」ことができないなぁと思う。
今の仕事は楽しいし私生活も順調だが、そうなるといつも必ず「この日常を壊したい。無意味なことをして気分転換したい」という気持ちになる。
なんと贅沢なことだろうか。


遊び、戯れ、余剰、無駄。
こうしたものは、通常生きていくためには別段必要ではないが、自分の人生にとっては非常に重要なものだ。

 

そんなわけで、今やりたいことを5つあげて見た。
いや、別にやりたくもないものも混ざっているのだけれど、やったら少し楽しそうな気持ちになれそうだ。
特に「適当な建物内をうろつく」は、以前教会や神社でよくやっていたので、改めてやりたいと思う。

 

・創作ダンス(音に合わせた適当な動き)を動画に撮る。動画は3ヶ月後ぐらいに見たらきっといい感じに死にたくなるだろう。

 

・電車でとりあえず終点まで向かう。街をうろつき、珍しいものを3つ発見したら帰れることにする。

 

・怒られるギリギリのところまで適当な建物内をうろつく。「よくわからないビルの屋上に登る」は、以前誰かに教えてもらって非常に素敵な遊びだと思った。

 

・近所のデパ地下に行って、美味しそうなものをかたっぱしから食べる。普段は手が出ない値段のものも、ここぞとばかりに買う。

 

・友達の家に押しかけて本棚を漁る。そのまま宅飲みにつなげられればベスト。

 

幸い、今週来週は連休もあるし、仕事も落ち着き気味である。
全部とは言わずとも、1つくらいはきちんと行動に移していこうではないか。

正解が分からない。自分らしさが出せていないと思ったとき。

そんなときは、まず「正解などない」ということを認めてしまう。
「自分というのは乗り越えるものだ」ということを信じてしまう。
そうすれば、問いは「今の自分を乗り越えて、より望ましい未来を現実にするために、何を選択するべきか」というものに変わる。
問いが具体的になれば、行動も具体的になる。
全ては、そこから始まる。

 

これは自分にとって一種の諦めであり、敗北宣言でもある。
できることなら唯一無二の正解がある世界にしたかったし、今の自分を大事にして変化など無しに生きていける方が楽だと思っている。
将来的にそうなったらいいのになぁという期待も、まだ捨てていない。

ただ、少なくとも今自分が生きている環境において、より自分なりに良い人生を送ろうと思うなら、自分の思想が現実に敗れたことを明らかにした上で、そこから新しい思想を積み上げていく方が有益だと思っている。
そして、これこそが「自分の乗り越え」であり「世界に対して開いている」ということだと考えている。

 

ただし、この思想だとふと、自分が固定的なモノとして存在していないことに、不安を覚えることがある。
つまり、自分というのは「常に乗り越えられるべき過去と、乗り越えようとする今と、乗り越えた先の未来を含む動的な存在」だと言えるのだが、それは非常に不安定なはたらきで、ともすると「自分などない」という思想に切り替わってしまう。

 

いや、「自分などない」というのは正しい思想なのだが、こと現実世界をよく生きるためには、「自分」というものを具体的な対象として捉えていた方がやりやすい。
なぜなら、生きている自分はまさにこの分け前としての「自分」しかないのであり、それが人生を「良い」とか「悪い」とか、主観的に判断しているからである。

 

ところで、人生を乗り越えだとすると、実は良し悪しだけでは判断基準にならないことに気づく。
昨日の良しは今日の悪しであり、今良いものを選ぶより、将来的により乗り越えの可能性が広がるものが良いと言える。
それは、今の時点では悪いものかもしれない。
つまり、時間軸が基準に盛り込まれる必要がある。

 

これは難しい話で、基本的に人間は未来予測が得意ではない。
直線的な変化は認識できるが、非線形的な(2乗ずつ増えるような」変化を認識するのは不得意だ。
そして、現代は物事が非線形的に変わっていく時代である。
よって、人間は現代を生きるのが得意ではない。

 

このロジックは適当なものだが、次の言いたいことを引き出すには十分だと思う。
つまり、未来を良し悪しで語るのではなく「自分の良しとする未来を語る」方が重要だ、ということだ。
それこそがここ数年で1番重要な思想であり、人々が受け入れなくてはならない不安なのだ。
なぜなら、この不安を諦めて受け入れることでしか、今の行動は変わらないからだ。

 

気づけばブログも20日を超えた。
あと1週間ちょっと、もっと密度のある文章が書きたいと思う。

打ち上げ花火、その本質は 音か光か

アニメ映画、オリジナルかと思ったら原作があったんですね。

世の中には知らないことがいっぱいです。


さて、昨晩は近くで行われていた打ち上げ花火を見に行きました。

会場まで行こうかどうしようか……と迷っていたところ、途中の橋に小さな人だかりができていて、高い建物もなくとても綺麗に見えたので、縁石に座ってゆっくりと見ていました。


自分は花火を見ていると幸せな気持ちになるのですが、その本質は音にあると思っています。

よりきちんと言うと、太鼓やベースのような、身体に響く波の圧力と言いましょうか。

感動することを「心が震える」と言いますが、まさに花火の重低音は身体と心を直接震わせにかかるものだと思うのです。


ただ、ふと思うのは、とは言えあの色鮮やかな光が無ければ、花火はもはや空胞でしかないよな、ということです。

花火の構成要素として音と光、どっちが大事だろう?と考えましたが、30秒で「光」と答えが出ました。

では、花火の本質は光なのだろうか……?


たしかに「月に叢雲花に風」という言葉があるように、目で楽しむ文化はそこかしこに見られます。

しかし一方で、鹿おどしや「岩にしみ入る」の俳句のように、耳で楽しむ豊かな感受性も持っています。


ある文化に対して「分かりづらい」というのは致命的な評価です。

分かりづらいものを理解するだけの余裕を持たない時代にあって、それは「存在しない」ことと同義になってしまうからです。


しかし、幽玄や妙と言うような「何とも表現し切れないが確かに優れているし心にしみ入る」という体験があることもまた事実です。

それは決して言葉では言い尽くせず分かりづらいですが、個々人のより深い部分に残ります。


海外の花火は、音楽に合わせて花火が打ち上がり、まさに音と光のアートのようになっているようです。

実際に見てみたら、それはそれは素晴らしく、楽しい気持ちになるでしょう。


ただ、やはり自分の中の花火は、光の後に音の余韻を残すもの。

破裂音が四方に広がり、波のように夜空を揺らす、そんな花火なんだよなぁと思うのです。

そしてもしも願いが叶うなら、そんな分かりにくいものを新しく形にしていきたいなと、そう思うのでした。



ゆとりとくつろぎを感じたのは、とても非効率的な珈琲店でした。

今日はお昼をイノダコーヒーで食べたのですが、随所がとても非効率的でびっくりしました。
ただ、その非効率さゆえに、機会を見つけて僕はまたイノダコーヒーに行くでしょう。

 

最初に違和感を覚えたのは、お手洗いに立ったとき。
お店の外にあるというので出口に向かったところ、側にいた店員さんがすっと動いて、自動ドアを開けてくれたのです。

 

いいですか。「自動ドアを先に開けてくれた」のです。
黙ってても開くのに。それが自動ドアのいいところなのに。

 

そして、席に戻ってお冷やを飲み干すと、当然のように店員さんが回って来てくれます。
ちょうど喉も渇いてたし、お代わり欲しいタイミングで気が利くじゃないかと思っていたら、グラスごと交換してくれたのです。
足してくれればいいのに。洗う手間も増えるだろうに。
何なら、その後もう1回交換してくれたので、1人に対して3つのグラスを洗っているわけです。

 

よくよく店内を見てみると、ホールスタッフの数も多い。
基本的には、どの席からも声が届く範囲にスタッフがいる配置になっていました。
これだけ人員に余裕があれば、自動ドアをスタッフが開けたりお冷やをグラスごと交換することも可能でしょう。

 

おそらく、お店を回すだけなら2/3の人数でいけそうです。
その方が人件費という観点から考えたら効率的だし、自動ドアは開ける必要がないし、お冷やも水差しを置いておけば何度も交換する必要はありません。
経費的な効率を考えれば、その方が「正解」な気もします。

 

ただ、自分が凄いなと思い、感動したのはその非効率な部分でした。
決して高級店というわけではないのに、様々な余裕から生じる細かな気遣いや他のお店とは違う待遇に、とても心地よさを感じていたのです。

 

世の中の流れとして、労働人口の減少や機械化を踏まえて生産性向上・効率化が重視されています。
もちろん、製造業のようにそれこそが企業の生命線、という業種もあります。
無駄な作業をやる必要がないように、自動化することも必須だと思います。

 

ただ、数字を切り詰めて余裕や遊びがなくなったとき、その組織や集団はあまりにも無味乾燥で、魅力のないものになると思うのです。
必要なことだけやるのなら、それこそ機械にやらせてしまった方がミスも少ないし、品質も均一になります。
接客でいえば、その最たるものが自動販売機で、注文の聞き間違いもつり銭の渡し間違いも基本的にはありません。
それが起こる場合は、必ず人為的なミスが影響しています。

 

ただ、世の中のお店が全て自動販売機のようになったなら、それはそれで物足りないと思うのです。
人が注文を受け人が食事を作り人が運ぶというのはよくよく考えると非常に非効率ですが、せっかく外食をするのならせめておもてなしを受けたいと思うのです。
それが人間に普遍的なものなのか、時代によるのか個人的なものなのかは、もう少し考える必要があるかもしれませんが。

 

機械が全てを整えてサポートしてくれる未来は、ユートピアでありディストピアでもあるように語られます。
おそらく、人は人と何らかの形で関わっていないと生きにくくなるような仕組みが、どこかに備わっているのでしょう。
社会学や人類学を紐解けば、すでに研究もされている気もします。

 

イノダコーヒーの素敵な接客のおかげで、改めて余裕があることの大切さを学ぶことができました。
一方で、それと生産性や効率性をどう両立するかという問いも持つことができました。
きちんと利益を出して、会社の体力をつけて、余裕を持って(一見)非効率的な遊びのあることをやって、それをきちんと利益につなげる。
このサイクルを回すために自分は何をすべきなのか、日々考えていかないとなぁと思うのです。