canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

ゆとりとくつろぎを感じたのは、とても非効率的な珈琲店でした。

今日はお昼をイノダコーヒーで食べたのですが、随所がとても非効率的でびっくりしました。
ただ、その非効率さゆえに、機会を見つけて僕はまたイノダコーヒーに行くでしょう。

 

最初に違和感を覚えたのは、お手洗いに立ったとき。
お店の外にあるというので出口に向かったところ、側にいた店員さんがすっと動いて、自動ドアを開けてくれたのです。

 

いいですか。「自動ドアを先に開けてくれた」のです。
黙ってても開くのに。それが自動ドアのいいところなのに。

 

そして、席に戻ってお冷やを飲み干すと、当然のように店員さんが回って来てくれます。
ちょうど喉も渇いてたし、お代わり欲しいタイミングで気が利くじゃないかと思っていたら、グラスごと交換してくれたのです。
足してくれればいいのに。洗う手間も増えるだろうに。
何なら、その後もう1回交換してくれたので、1人に対して3つのグラスを洗っているわけです。

 

よくよく店内を見てみると、ホールスタッフの数も多い。
基本的には、どの席からも声が届く範囲にスタッフがいる配置になっていました。
これだけ人員に余裕があれば、自動ドアをスタッフが開けたりお冷やをグラスごと交換することも可能でしょう。

 

おそらく、お店を回すだけなら2/3の人数でいけそうです。
その方が人件費という観点から考えたら効率的だし、自動ドアは開ける必要がないし、お冷やも水差しを置いておけば何度も交換する必要はありません。
経費的な効率を考えれば、その方が「正解」な気もします。

 

ただ、自分が凄いなと思い、感動したのはその非効率な部分でした。
決して高級店というわけではないのに、様々な余裕から生じる細かな気遣いや他のお店とは違う待遇に、とても心地よさを感じていたのです。

 

世の中の流れとして、労働人口の減少や機械化を踏まえて生産性向上・効率化が重視されています。
もちろん、製造業のようにそれこそが企業の生命線、という業種もあります。
無駄な作業をやる必要がないように、自動化することも必須だと思います。

 

ただ、数字を切り詰めて余裕や遊びがなくなったとき、その組織や集団はあまりにも無味乾燥で、魅力のないものになると思うのです。
必要なことだけやるのなら、それこそ機械にやらせてしまった方がミスも少ないし、品質も均一になります。
接客でいえば、その最たるものが自動販売機で、注文の聞き間違いもつり銭の渡し間違いも基本的にはありません。
それが起こる場合は、必ず人為的なミスが影響しています。

 

ただ、世の中のお店が全て自動販売機のようになったなら、それはそれで物足りないと思うのです。
人が注文を受け人が食事を作り人が運ぶというのはよくよく考えると非常に非効率ですが、せっかく外食をするのならせめておもてなしを受けたいと思うのです。
それが人間に普遍的なものなのか、時代によるのか個人的なものなのかは、もう少し考える必要があるかもしれませんが。

 

機械が全てを整えてサポートしてくれる未来は、ユートピアでありディストピアでもあるように語られます。
おそらく、人は人と何らかの形で関わっていないと生きにくくなるような仕組みが、どこかに備わっているのでしょう。
社会学や人類学を紐解けば、すでに研究もされている気もします。

 

イノダコーヒーの素敵な接客のおかげで、改めて余裕があることの大切さを学ぶことができました。
一方で、それと生産性や効率性をどう両立するかという問いも持つことができました。
きちんと利益を出して、会社の体力をつけて、余裕を持って(一見)非効率的な遊びのあることをやって、それをきちんと利益につなげる。
このサイクルを回すために自分は何をすべきなのか、日々考えていかないとなぁと思うのです。

朋あり 15分のために遠方より来る

京都滞在も5日目なわけですが、1日3回は「やっぱり京都はいいなぁ、暑いけど」と若干関西弁のイントネーションで言いながら過ごす日々を送っています。

 

そんな中で、昨日はとても嬉しいことがありました。
仕事終わりに大学時代の友人から連絡が飲まないか、と連絡が来たのですが、実はそのあと別の飲み会が入っていたため「1時間なら」とやり取りをしたのです。
彼も快諾してくれたのでその場でお店を決めて先に入っていたのですが、待てど暮らせどやってこない。

 

結局彼が来たのはその40分後で、15分しか時間がなかったのですが、とりあえず乾杯をして軽くつまんでばーっと話をして、予定通りの解散時間に「じゃ、また!」と言って別れました。

 

何でもないことですが、これができる京都という街、大学時代に出会った友人らが本当に有難く感じた瞬間でした。
東京だと、いざ向かおうと思っても電車の時間が合理的に決まりますから、間に合わない時は絶対に間に合いません。そこは個人がどうこうできるものではない。
ただ、京都なら(もちろん、他の街でも)自分が自転車を速く漕げばそれだけ早くつく可能性がある。
そこには、自分の意思と行動力で何とかできる余地が存在している。

 

また、たまに酒の席で話しますが、自分は「友達を作る理由がない」と思っていた時期があり、周りとのコミュニケーションに振り分ける労力を最小限にして過ごしていました。
そんな自分に、こんな風に15分のために自転車で汗だくになってやって来てくれる友人がいる。

 

たまに「自分が京都好きなのは、取り戻せない大学時代に囚われているだけなのでは」と思うこともあるのですが、こうした出来事に触れ、今も楽しい出来事が積み重なるにつれ、「ああ、やっぱり京都で暮らしていきたいなぁ」と思うのです。

 

東京にも素晴らしい友人が(本当に有難いし、信じられないことに!)たくさんいるので寂しい気持ちはあります。
ただ、それはそれ。
別に地球の裏側に行くわけでもないので、東京-京都の二重生活を最大限うまく活かして生活できるよう、動いていければと思うのです。
関西の仕事も増やして、会社の利益にもつながれば一石二鳥だし。
改めて、進みたい方向に向かって頑張ります。

自分にとって「ブログを書くこと=一人の遠出」だと気づきました。

現在、大丸京都店にて新サービスの展示をしながら妻の実家に宿泊しているのですが、途端にブログが書けなくなりました。
書く時間を取るのが難しいというのもありますが、テーマが絞れないのが1番の要因です。

 

ふと、その理由が「自分の役割が増えていること」に起因しているのではないかと思ったので、それをテーマにしてみました。
自分がいかに「ブログを書いている時に役割から解放されているか」に気づくきっかけになったので、思ったことを少し整理してみようと思います。


まず、これは完全に言い訳なんですが、東京で仕事をしている時にはせいぜい2つくらいの役割しかないんですよね。
「会社で仕事をする」と「妻に対する夫である」という。

 

ただ、今は「大丸京都店のスタッフである」とか「義父に対する義理の息子である」とか普段は対応していない役割が加わっていて、うまく流れが作れていません。
普段はオフィスにいて、たまにイベント現場に立つ方はわかると思うんですが、イベント中って次の企画のような、他の物事を考えようと思っても全然進まないんですよね。
同じように、妻の実家にいるとまずご家族とコミュニケーションを取らねばと思うので、ブログのテーマを考えても思いつかなかったり、そもそも部屋にこもっていられないので書く時間も取れなくなります。

 

そんな現実を通じて、以下の2つのことに気づいたわけです。

1.自分がある役割を担っているとき、他の役割のことをするのは非常に難しい。
2.ブログを書いているとき、自分は役割から解放されている

1に関しては逆説的ですが、だから仕事ができる人は担う役割が広くなるのだなと思いました。
つまり、役割を分けてしまう(○○部長兼△△統括兼・・・)よりも1つで担う(CXO)方が、自分の役割のままで幅広いことに対応できるので、組織の力学という観点以外でも、役割が広がることに合理性があるのだなぁと思いました。

 

2に関しては自分に関する新しい発見でした。
毎日ブログを書くというチャレンジをしていますが、書けない時に「なんか息苦しい」という気持ちになるとは思いませんでした。
確かに、自分がブログを書いているときは自分に向き合っている時で、その時は周囲のことはほとんど考えていません。
それこそが自分にとっての安らぎであり、役割を手放したところにある素の姿なんだなぁと、初めて認識できました。

 

こう書くと「じゃあこれまでは何で役割を手放していたんだ」となりますが、そういえば一人で散歩に出かけたり電車に乗って遠くに行ったり、そんなことをしていました。
最近はブログを書くことが一人の遠出の役割を担っていたようで、人間、自然にバランスを取るものだと感心しました。

 

さて、まだ役割から抜けきってないので、かなり文章が怪しい感じになっています。
関東に戻ったら文章も戻ると思いますが、しばしこのような形でお付き合いくださいませ。

【後編】ベーシックインカムというフィルターを通して見た5つの世界。そこには何が映るのか。

前回はベーシックインカム(BI)について、「国家、会社と市場、家族、個人、国際社会」の5つの観点から考えることを提示した。

 

【前編】ベーシックインカムというフィルターを通して見た5つの世界。そこには何が映るのか。 - canno-shiのすこしみらいを考える

 

今回は後ろの3つについて書いていくが、その前になぜこの5つについて考えようと思ったのか、簡単に補足したい。

 

まず、この2つの記事でやりたいことは「現状とBIを導入した社会を対比させ、現在を相対化し、未来を考えるきっかけを作ること」だ。
BIは非常に広範囲かつ抜本的な施策であり、最大限うまく機能すれば「誰もが幸福を掴める社会」というユートピアを実現できる可能性もある。
一方でその実現には、財源や運用方法はもちろん「誰もが働かずとも食べていける社会に対する受け入れにくさ」など、人々の心理的抵抗といった大きなハードルもある。

 

このハードルに対して、5つのレイヤーごとにBIの効果や課題点を挙げることで、現在の社会をより掴みやすくしようというのが、今回の試みである。
もちろん、ここでは扱い切れない問題や詳細まで立ち入れない課題もあるため、非常に拙い内容になってしまうことは避けられない。
ただ、ブレグマンも本文中で書いてある通り「ユートピアは、将来の展望よりも、それが想像されていた時代について多くを語る」。
ともすれば将来の見通しが立たない悲観論に囚われそうになる今の時代で、未来に何を求め得るのか。
BIという軸を立てることで、このことを深く考えていきたいと思っている。

 

では、さっそく残り3つについても見ていこう。

 

▼家族(生活を共にする最小単位)

家族の問題は、5つの中でも非常に難しいと思っている。
なぜなら、その在り方や人々の捉え方が変化しつつあるものだからだ。
様々な観点が考えられるが、その中でもここでは「子供を産む人数」と「他人との共同生活」の2つについて考えてみよう。

 

・子供を産む人数

まず、男女が結婚して子供を産むことを想像する。
BIが実現した場合、子供が生まれるたびに世帯収入が増えることになる。
1人8万円の支給額の場合、夫婦に子供が3人いれば月額40万円の収入(しかも非課税!)であるから、児童手当等がなくても生活はできそうである。

 

ここで自然に生じる疑問は「子供をどんどん産むようになって、しかもその子供は将来的に働かない可能性があるのだから、制度自体が破綻するのではないか?」というものだ。
産めば産むほど世帯収入が増えるなら、埋めるだけ産んだ方が得、という考え方である。

 

これについては「そうする人もいるだろうが、それ自体で制度が崩壊することはない」というのが、現実的な回答だと思う。
まず、数百人規模でBIを試した場合、子供の出生数が極端に増えることはなく、むしろ1人1人の教育の質を向上させる方向にお金を使うようになった、という結果がある。「働かなくても生きていける」とは言え、働いて収入をプラスすることでより良い生活ができるのだから、労働に対するモチベーションは0にはならない。
かつ、不必要な労働は無くなっていくのだから、よりその子供が得意とし、より多く稼げる仕事に就かせようというインセンティブが働く。
その結果、親が自分の子供のことをよりよく理解し、その子供が行うに値する仕事に就けるように支援するという流れが生じるだろう。
(もちろん、親にそのように子育てを行うリテラシーが必要にはなるが、親が自由に使える時間も増えているので夢物語ではないはずだ。)

 

また、人口が増えれば市場のパイが広がり、財源となる税収も増えていく。
あるいは「○人目以降は支給額が少しずつ減る」という制度を考えても良い。
「金持ちでなければ望むだけの子供は産めないということか!」という反論もありそうだが、収入に応じた暮らし向きになることは今でも同じなのだから、制度の不用意な濫用を避けるための措置としては問題がないはずだ。

 

・他人との共同生活

先ほど「男女が結婚して子供を産むことを考える」と書いた。
今後は、そうではない形の家族(生活の最小単位)が増えていくと考えられる。
例えば、いまシェアハウスにいる若者たちはあくまでも住環境の共有が主だが、BIが実現すればベースの収入を共有し、より共同体としての性格を強めることができる。
自分にやりたいことがある場合、1人で生きるよりも複数人で8万円のBIを共有しプールして管理していけば、それ自体が怪我や病気の際の保険にもなり、やりたいことに自由に打ち込める可能性が高くなる。

 

こうなった場合、「結婚や子育て」が個人の生活に対して、もはや割に合わなくなる可能性すら出てくる。
もちろん、割に合うから結婚しているわけではないだろうが、もし「結婚しなくても好きな人たちと自由に好きなことをして生きている人」が増えてくれば、結婚の重要性は薄れてしまうだろう。*1

 

▼個人

BIが個人に与える影響は、果てしなく大きいものになる。
なぜなら、これまでの生き方に対する常識や価値観を一変させる可能性があるからだ。
まったく働かない場合に生活レベルは下がるとしても、半分の労働時間でも今と同じ生活ができる可能性は十分にある。
この時、あなたは何をするだろうか。
あなたの大事な人は、どんな生き方を選択するだろうか。
世の中では何が売買され、人気となり、何にお金と時間を使っているだろうか。

 

その問いの詳細は暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)に譲るとして、1つだけ書きたいことは「世の中の変化は気がついたら起きている」ということである。
明治維新にせよシンギュラリティにせよ、大きな流れが生まれれば、個人としてそれに抗うのは難しい。
現時点でBIは「大きな流れ」とまでは言えないが、今後世界中で実験が行われる中でその有効性が証明されれば、一気に舵が切られる可能性もある。

 

人類は途方も無い年月をかけて集団生活を進歩させてきたが、その最先端の成果として「対価を払わずとも飢えない社会」を実現できる可能性が生まれている。
これを望むか望まないかを考えること自体が、自分の将来や在り方を整理することに繋がるのではないだろうか。

 

▼国際社会

ここで扱うのは、主に国内外の出入りの話である。
まず、国内に来る話としてはBI目当ての入国が考えられる。
例えば日本の国籍を持つ人だけにBIを給付するとしても、偽装結婚やBIを目的にした出産などが行われる可能性がある。
また、就業ビザなどで滞在する外国人への給料・社会保障制度・住環境などなどの扱い方については、日本人を基準に考えることができないため、非常に難しくなるだろう。

 

一方で、国外に出る話としては、企業や富裕層が考えられる。
BIの財源を確保する場合、法人税の向上や累進課税による富裕層からの徴税が増す可能性が高い。
この場合、日本よりも税金が安い国に移転・移住する選択肢は十分にありえるだろう。
(法人の場合は個人に支払う給料も減るはずなのでそこまで影響はない可能性もあるが、資産家などにとっては過ごしづらい国になる可能性がある。)

 

駆け足で書いてしまったため、かなり荒い論調になってしまった。
ただ、BIとそれに対する影響の概観はある程度整理できたのではないかと思う。
ここから世の中をどのように捉え、いかに対応していくかは個々人の決断となる。

 

近いうちに、こうした世界観をもとに自分がどのように世の中に対応しようとしているのかも書いてみたい。
それは今の自分の働き方や様々な動き方にも影響を与えているため、自分の取扱説明書のようになるだろう。
これを明文化することで、自分をより自分らしく扱う手助けになる気がしている。

 

最後に、ニーチェの言葉の中で好きなものを1つ引用して終わろうと思う。
超然とした生き方が良いとは思わないが、個人としては、彼の思想に含まれる高潔さの1%でも見習って生きていきたいものである。

 

世間にありながら、世間を超えて生きよ。
世のなかを超えて生きるとは、まずは、自分の心や情のその都度の動きによって自分があちらこちらへと動かないということだ。
情動に振り回されない、自分が自分の情動という馬をうまく乗りこなすということだともいえる。
これができるようになると、世間や時代のその都度の流れや変化に惑わされないようになる。そして、確固たる自分を持ち、強く生きることが出来るようになるのだ。

 

*1:個人的には、他人と非常に深く向き合うという替えの効かない経験ができるので、恋愛〜結婚に至る流れには価値があると思っている。

【前編】ベーシックインカムというフィルターを通して見た5つの世界。そこには何が映るのか。

ブレグマンの『隷属なき道』を読み、ベーシックインカム(BI)についてどの観点から書くべきか、この2日間ずっと考えていた。

 

本を読んだりネット上にある色々な方の寄稿文やブログ、twitterのやり取りを読んだりしていると、数年間にわたりBIが検討の対象になり、物議を醸していることが分かる。
中には「BI賛成者は算数もできない、単純化した話に惑わされるバカだ」といった意見もあった。
さすがにその意見はどうかと思うが「世の中の複雑さを考慮せず単純な話に飛びつこうとしている」という指摘は一理あるようにも思う。
なぜなら、BIの考え方が驚くほど単純だからである。

 

簡単に説明しておくと、BIとは「区別も選別もなく、一律に生活に必要な最低限のお金を直接受益者に給付しよう」という施策である。
区別も選別もないので、生活保護と異なり自分の収入を証明する必要もないし、働いても金額が減ることはない。
一律のため、年金と違って未納により給付金が下がるという概念もない。
お金が直接受益者に渡されるため、その用途も特に制限もされない。

 

一言でいえば「働かずとも食べていける金額のお金を対象者(地域住民や選ばれた人、国民など)に与えよう」というものである。
これだけ単純すぎると、BIへの反対意見も様々な角度から出すことができる。

 

例えば、日本で全国民に年120万円を支給するとなると約150兆円のお金が必要になるが、その財源はどう確保するのか。(実はそこまで不可能な話でもないという試算もある。詳細は脚注*1を参照)

または、働かなくても良い社会では、労働力が減少し現在の市場規模や成長率を維持できず、制度自体が破綻するという指摘。(これも、実際はそれほど労働者は減らないという話が『隷属なき道』で紹介されている)

 

このように、もっともらしい指摘→克服できる、あるいはそこまで問題ではないという反論→実証されていないから議論にならない、という平行線が起きているのがBIの話である。
それゆえにフィンランドでBIが実施されていることは、社会実験(言葉が気に入らなければ先進的な事例)として非常に注目されているのだ。

 

さて、自分が感じているBI周辺の話を書いたわけだが、今回書きたいのはBIそのもののことではない。
タイトルにあるように「BIが実現した世界に映るもの」である。
これを整理しなければ、BIの議論は本質的な深まりが得られない。
なぜなら、実現した時のイメージが多くの人に共有されていない限り、ある人は希望的観測により過度に楽観的に肯定し、またある人は現状維持の観点から極度に悲観的に否定するからである。

 

さらに、BIはその単純さゆえに、現在の常識や価値観からすると受け入れがたい面もある。
実際、ブレグマン氏も奴隷制や女性の参政権の話を引き合いに出して「ある時は明らかにおかしいと思われていたことが、その後当たり前になることがある」ことを示している。
BIについて言えば「働かずとも食べていける」を、何の思考もなく「いいね!」と言える人はそこまで多くないはずだ。
だが、感情的に「それはおかしい」と思っているだけでは、議論は前に進まない。
なぜ当時は常識だった奴隷制が廃止されたかを考えるのと同じように、なぜ「働かないという自由を積極的に選べないのか」を考えるべきだ。

 

以下、自分が「BIを通して見た世界」を国家、企業と市場、家族(生活を共にする最小単位)、個人、国際社会の5段階に分けて記載していく。
穴のある部分や思考が及ばない部分も多いだろうが、それはぜひ指摘いただいて、この5つレイヤーで起こることをより精緻化していきたい。
それこそが、BIにまつわる議論の混乱を少しでも減らす役に立つのではないかと思う。*2

 

▼国家

いうまでもなく、国家はBIを実施する主体の最有力候補である。
地方自治体が特区を作るという可能性も0ではないが、少なくとも日本で考える限り、BIを実施するのは国だろう。

 

国家がBIを導入するメリットとしては、マクロ的に見た際の各種コストの削減がある。
『隷属なき道』でも、犯罪率や医療費の低下、教育環境の改善による将来的な社会へのリターンなど、実例を元に様々な財政的メリットがあることを示している。

 

膨大な調整や審議、選挙などを経て(ここが1番難しいのだが)BIが実現されたとして、国家が担うべき役割は大きく3つだと考えられる。
それは「財源の継続的な維持」と「制度の運用」と「施策の効果検証」だ。

 

まず、財源の維持についてはここでは深く立ち入らない。
BIはその性質上、社会保障費の簡素化(年金や生活保護、児童手当を一本化できる)も兼ねるため、現在の費用をうまく充て、いくらかの税金を上乗せすることで実現できるという試算もある。(詳細は脚注1のリンクを参照のこと)
ただし、そもそも「月いくらが妥当か?」という議論も未成熟なままで数字の辻褄だけを合わせても仕方がない。
ここでは「BIを通して世界を見る」ことが目的なので、BIは継続的に実現しうると仮定して進めさせていただく。

 

次に制度の運用である。
実は、ここに1番のコスト的なメリットがあると考える人もいる。
なぜなら、年金・生活保護・児童手当・失業給付などなど、各種支援施策を行うにはそれぞれ異なる団体や仕組みが必要だが、これらを全てBIに一本化できれば担当する組織は1つのみでよくなる。
また、BIは対象者を選別しないし条件もないから、書類による審査や定期的なチェックも必要なく、その運用は実にシンプルだ。
これならBIの運用に関わる人の数は限定的でよく、非常にスマートに運用ができる施策となる。


ただし、波頭亮氏が2011年時点で指摘しているように、こうした簡素化は官僚制と非常に相性が悪い。
そのためにBIが導入されないとは思わないが、反対意見が噴出するのは避けられないだろう。

 

最後に、施策の効果検証について。
これは統計の話になるが、統計は恣意性が高いものでもある。
『隷属なき道』のニクソン大統領の例でも出ていたように、もしBIに反対する者がその統計を担った場合、あるいは政権が変わり100兆円近いBIの財源を他の施策に使いたいと思った場合、「BIには効果がなかった」という報告書が出てくる可能性は避けられない。
そういう意味では、この検証は国ではなく第三者機関が行うべきかもしれないが、そこまで大規模な調査を国以外が行うことは現実的ではないだろう。

 

▼企業と市場

企業によって、BIに対する反応は様々なはずだ。
まず、BIによって人々は会社を辞めやすくなり、企業もまた従業員を解雇しやすくなる。
これにより労働市場は活性化するが、そこで求められる仕事は「自分が行うに値する仕事」だけになる。
最低限の生活が現金で保証される以上、人々はやる意義が感じられない、不当に勤労条件が悪い仕事を選ばなくなる。
結果として、過労死やストレスによる体調不良(保険料の増加)の問題が解決に向かい、世の中には「意義のある仕事や会社」だけが残る可能性がある。

 

一方で「社会的に重要だがきつい仕事」の扱いが難しくなる。
例えば公共性の高い仕事(ごみ収集・処分、遺体処理、清掃など)や労働環境が厳しい仕事(介護、教師など)である。
この場合、これらの仕事の給料を上げるか、意欲のある個人に期待するしか、BI実施下でその職務を全うしてもらうことはできない、

 

だが、例えばニューヨーク市でごみ収集の担当者が誇りを持ち、かつ高給で働いているように、本来的には社会の存続や成長に繋がる仕事に高い給料が払われるべきだ。
ある意味では、BIの実現によって仕事と給料のバランスが適正になる可能性だってあるのだ。

 

あるいは、ある産業に人が集まらないことでAI・ロボット化が一気に進むことも考えられる。
「AIが仕事を奪う」という話もあるが、BIが実現していれば何も困ることはない。
機械が作る安い製品を、毎月支給されるお金で買って生活し、空いた時間で少し小遣い稼ぎをして、あとは好きなことをして過ごす。
そうした世界がより早く実現するという循環すら、BIの実施により起こりうるのだ。

 

また、市場という観点で言うと、BIには消費を促す力がある。
毎月定期的に入ってくるお金は、生活費や娯楽費や教育費など、あらゆる場面で使用される。
BIの財源は税金だから、富の再分配の効果が高く期待できる。
結果、少子化が進み消費が冷え込んでいるというトレンドにおいても、一定量内需を確保し続けることができる。
企業がいくら生産をしサービスを提供しても、購入する消費者が市場にいなければ全てが無駄である。
BIは、良質な消費者を安定的に市場に供給するという意味でも、前向きな効果を発揮するだろう。

 

さて、残る3つは「家族、個人、国際社会」だが、今日のところは一度ここで切ろうと思う。
おそらく、この3つについて語るにはこれまでと同じだけの文量が必要だ。
書く方も読む方も、それは少し辛いというものだ。

 

ここまでで、BIやそれを取り巻く世界について少しでも視野が広がってくれていると嬉しい。
そして、そこから現在の自分や社会を見たときに、何に手を加えるべきで何は残すべきなのか。
そういったことを考えるきっかけになるよう、後編も書き散らしていきたいと思う。

 

*1:ベーシック・インカム(その2)

*2:専門家でもない一個人のブログなので、そこまで役に立つとも思えないが、整理して悪いこともないと信じて書く。

隷属への道と隷属なき道

前者はハイエクであり、後者がブレグマン。

解説で「ハイエク本歌取りした」とあるが、原題の『Utopia for realists(現実主義者のための理想郷)』の方が当然ながら内容に即している。

ちなみに、ベーシックインカムの話は筆者の主張の軸ではあるものの一部で語られるだけで、AIに至ってはほとんど話として出てこない。

それでも、この本は間違いなく今年に入って読んだ中で1番面白い本だった。


ベーシックインカムというか、この本を中心としてきちんと書くのは明日にしようと思う。

読んだ後、他の色んな本を参照したくなり、ネットでも様々調べていた結果、考えをまとめるどころの話ではなくなってしまった。

この本自体は物凄く有益とは言えないが、社会保障や働き方など様々な領域に誘うポイントが散りばめられている。

不思議な本だと思う。


さしあたって今日、インプットをした直後として書き残しておきたいのは「人が自分の考えを改めたり点検したりするのはとても難しい」ということだ。


何かを批判するためには、その対象とは異なる意見や価値観が必要になる。

例えそれが「私はそう思わない」でも最悪構わない(時と場合による)が、いわゆる常識というものは、この「異なる意見」が存在しないことが問題となる。


「常識を疑え」というのが常識となりつつあるる中で、何かを疑うだけではもはや価値がない。

自分なりに何かをしたいと思う人にとって重要なのは「自分なりのアイデアを出せ」であり「そのアイデアを磨き続けろ」であり「それを実現すべく従って行動せよ」である。

やっている人はやっているし、やっていない人はやっていない。ただそれだけのことである。


では、なぜある人はやっていて別の人はやっていないかといえば、たまたま機会に恵まれたり、近くにそれを実際にやっていたり後押ししてくれる人がいたりするからであって、個々人の能力は二の次のように思う。

つまり、たまたま見知ったことで人はできていると言える。


ベーシックインカムという概念も、現時点では世界の常識ではない。

フィンランドではすでに実現しているが、それはアメリカで銃が合法だというのと変わらない。

ただ、自分がそれについて書くことで、たまたまベーシックインカムやそれにまつわる事象を知って、自分の中にない考えに触れたり、すでにあるものを再検討してもらえるのなら、それはとても嬉しいことだと思う。


結局、世の中を面白くするのは新しいアイデアが提示されたとき、それに変な人たちが群がって形にしていく、その動きそのものだ。

とするなら、自分が一度でもいいから、生きているうちにそのアイデアを提示していきたいと願うのも、また道理ではなかろうか。


ベーシックインカムについて、ここらでちゃんと考えるぞ!という宣言。

ここ1年間くらいベーシックインカムの可能性についてアレコレ考えているのですが、本日も大変興味深い記事に出会いました。

 

オランダの歴史学者兼ジャーナリストという、ルドガー氏の講演要約とのこと。
bunshun.jp


この人がどんな人か分からないし、1番気になる「本当に全国民にベーシックインカムを付与した場合の財源」に関する観点には触れられていなかったので、まずは本を読まねばと思っています。

 

以下のような発言から考えると、ベーシックインカムの課題は財源というよりもその適用範囲と関連する分野の広さにあるのだなと思います。
教育、医療、労働、年金などなど、幅広い領域をまたいだ問題解決につながる可能性がありますが、それゆえに誰がどうやって推進していいか分からないという非常に残念な状況なのではないか、と。

 

「費用対効果という見方も必要だと思います。医療費の増大や犯罪率の上昇、子供のドロップアウトの増加など、貧困のコストは安くありません。」

「1人当たり8000ドルから9000ドルの給付に対し、生活状況の改善で節約できた公共支出の額は1人当たり1万ドルを超えていました。」

 

なぜ自分がベーシックインカムについて考えているかというと、この制度は人類の生き方や価値観をガラッと変えるものだと思っているからです。
「いかに明日の食料を得るか?」でも「いかに働くか?」でもなく「いかに生きるか?その手段として何を選ぶか?」が当たり前の問いになる時代が、間も無くやってくるかもしれないのです。
それは人類が目指してきた、誰もが最低限の生活と信頼を維持できる世の中であり、誰もが想像しなかった、個々人の趣味や狂気こそが価値を持つ狂乱豊かな世の中なのだと思うのです。

とりあえずこの方の本と、この辺の記事を参考にしてまたブログを書こうと思います。
久々に深掘りしたいテーマを見つけて、楽しくなってきましたよ。

 

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