canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

「生きること自体がつらい」と言ったら驚かれたので。

どうやら、「生きるのがつらい」と思うことはあっても「人生すなわちつらい」と日頃から思っている人はそんなに多くないらしい。
それなら、なんで「人生すなわちつらい」になるのかを文章にしてみるのもまた一興と思った次第。世の中にはたくさんの人が、たくさんのことを考えて過ごしているからね。
その中の1つと思っていただければ。

 

▼人生すなわちつらい、の流れ

・基本的に人は、生まれたくて生まれてきたわけではない

・だからといって、死のうと思ってもなかなか死ねない

・生とは自分でどうにもできない(終わらせることしかできない)という点で本質的に理不尽である。

・理不尽を受け入れるのも1つ。だが、80年理不尽に耐え続けて生きるべきか。せめて、楽しさや幸福といったプラスの気持ちを持ちたいと願う。

・気晴らし的な楽しさや幸福はすぐに飽きる。本当に楽しさや幸福を得ようとするなら、何がしかの努力をしなければならない。

・努力とは常に今の自分を超えることである。それには変化に伴う苦痛が生じる。(たとえ後から振り返ったときに美談になるとしても)

・楽しさや幸福を得るためには苦痛を積極的に作り出す必要があるということになる。

・人生とは理不尽に耐え続けるか、さもなくば苦痛を積極的に作り出すことである。


多分、上記を変えるポイントは3点あって、

・自分の生は自分で変えられる、決して理不尽なものではないと信じる

・気晴らし的な楽しさや幸福をうまく使って、プラスの気持ちを増やす

・努力を苦痛と思わない仕組みをつくる

ぐらいができれば、今すぐにでも断ち切れるお話。
ただ、これを断ち切るには、現実的に何らかの習慣を作らないといけない。そしてその習慣は、自分ひとりで作るのはなかなか難しい。必ず、誰かからの影響が必要になる。
つまり、外部の影響によって自分が変わるという経験が必要になる。

賢者は歴史に学ぶという言葉があるが、今はあんまり信じていない。たぶん、その賢者も止むにやまれぬ思いがあって、救いを歴史に求めたんだろう。その思いは、必ず経験として立ち現れているに違いない。

経験値とはよくいったもので、経験から自分のパフォーマンスを向上させることの重要性はいかばかりか。それが身につくのは、いったいどのぐらいの年齢までなのか。

そんなことを考える月曜日の夜。大丈夫か、自分。

【ズートピア観覧記】"Try Everything"という言葉から省略されたもの。

 ズートピア、面白い映画でしたね。
進行上納得いかなかった点や心に落ちてこない部分はありましたが、それでもまぁ、面白い映画だったと思います。

ただ、良い映画だったか?と言われると、前評判ほどではなかったな~という感触でした。期待値上がりすぎちゃったかな。

 

批判したいわけではないのでその辺りは省略しますが、1つだけ書き留めたいなぁと思ったのが、タイトルの「"Try Everything"という言葉から省略されたもの」という内容でした。
主題歌"Try Everything"という、ジュディの心を歌ったかのような、明るくて元気な歌。
日本語だと「やるのよ 何度も」と訳されていて、挫けそうな人に力を与えてくれそうな曲でした。

 

でも、映画を見て、この曲を聴いていると、すごく重要な内容が省略されているように思うのですね。
それは、Try Everything "if you want anything you want to do"ということ。
つまり「やってみたら。『やりたいことがあるのなら』」ということ。

 

ここから思考の垂れ流し。
ジュディは「世の中をよくするため」に警察官になりたかったし、ニックもやりたいことがあった。

そのために苦労したり傷ついたり苦労したこともあったけれど、少なくともやりたいことがあって、そのために頑張っていた。
おそらく、他の「ズートピア」に来ている人もそう。自分たちの出身地ではできないことがあって、決められた生き方に飽きて、何でもできるズートピアにやってきた。そこではもちろん、普通の「現実」が待っているのだけれど。

 

ズートピア」自体は、非常に整って綺麗な世界ではあるが、その語感から想像される「理想郷」とはほど遠い。そこを理想郷として語るのは、あくまで憧れている地方の人でしかない。
現実が理想郷になるのは、ジュディがやりたいことのために、自分の力をフルに出し切って、誰かに屈することなく、強く生きていくからだ。
あと、(これが何より重要なのだが、)無茶苦茶運がいいってのもある。自信を無くした時に事件が起きるのは、主人公の特権だ。モブキャラには、そこまでのボーナスステージはなかなか起こらない。(ニックと一緒に詐欺やってたキャラとか。)

 

では、そこまで強く自分の「やりたいこと」を持つ理由はなんだろう?
普通の両親、多くの兄弟と一緒に生きる中で、自分の目指すものを心折れずに貫き通せたその芯はどこで育まれたのだろう?
もちろん、それは映画の中では触れられていない。たぶん、ジュディがそういう子だったから、が1番分かりやすいだろう。そこが少し残念ではあった。

 

話は飛ぶ。
いったい、普通に生きていて、ここまで「やりたいこと」を貫き通せる芯を持つことができるだろうか?
「未来化する社会」という、今後起こりうるパラダイムシフトについてヒラリー・クリントンの元参謀という人が書いた本がある。様々な未来を記述したうえで、1番大事な仕事は「親であること」と言い、あとがきで世界中のVIPたちが、自分の子どもたちに何を与えているかを書いている。

 

曰く「アフリカの貧困地域に行って、世界の問題をその目で見て実感すること」。それこそが、世界中のVIPが自分の子どもたちに与えると、1番良い影響が出ると思っていることだ。
なぜなら、現実を自分の中に取り込まないと、やりたいと思ってもすぐに心が折れて、決意なんてものはすぐに捨てられてしまうからだ。

 

今の時代の先進国であれば、過去のどんな時期と比べても、やろうと思えばやれる時代であることは間違いない。身分で住処を決められることもないし、親の仕事を継ぐ義務があるわけでもない。だから、やりたいことが出来る時代であることは間違いない。
でもそれは、自分の中にやりたいことがあって、それを大事に育み続けて、他人との相互作用の中で「それは大事なもので手放しちゃいけないものだ」と思えたことだけでしかない。
「現実を見なさい」「そんなものは捨てなさい」と言われたら、通常であればすぐに消えてしまっているはずのもの。だから、それを捨てなかったジュディは凄い。

 

・・・結局のところ、自分のやりたいことが貫けなかった人間の、たいしたことのない後悔録になってしまった。たぶん自分は、過去に自分を貫かなかったことを悔やんでいるし、今後もそういう生き方をしそうなことに恐怖を抱いている。
今の世の中、自分を知って自分を大事にして自分を貫くこと以上に、社会的にも経済的にも成功する道は無いというのに。

 

おそらく、ズートピアにそこまで感情移入できなかったのは、ニックが思ったよりも良いやつすぎたからかな。12年間詐欺師として生きているのに、きらきらした心は忘れていなかった。あるいは、ジュディの純真さに惹かれすぎたのか。いずれにしても羨ましい。

 

「やりたいこと探しに逃げるな」という言葉もあるけれど、やはりそれは諦めてしまった人たちの言葉で、ジュディの両親と同じだ。そこに与することはできない。
なぜなら、人が死の間際に1番後悔するのは「もっと自分の思う通りに、誰かの意見に左右されずに生きればよかった」ということだからだ。
これが本心なのか、世の中的にそういうことになっているかは分からない。ただ、誰もが後悔することが分かっていることを、自分も後悔する必要はない。

 

やりたいこと、諦め、後悔、羨望。不思議なキーワードが出てきた。
もう少し、自分自身に素直になれればという思いも込めて。

100歳になったとき、人はどんな言葉を伝えられるか。

たまにはゆるい内容でも書いてみようと思います。テレビで見かけて、印象に残った話です。

少々前ですが、NHKのとある番組で日野原重明さん(104歳の医師)と篠田桃紅さん(103歳の芸術家)の対談番組がありました。日野原さんは知っていたものの篠田さんは初耳でしたが、番組を見ているだけでも本当に精力的な方だと感じました。

下記ページでも、本の内容として「百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません」などと仰られていて、本当は人間こうであるべき(人生を自分で創造して生きていくべき)と感じずにはいられませんでした。

103歳美術家が語る、「歳をとらなければ見えてこないこと」とは? - 新刊JPニュース


さて、番組後半で「一般の方の声にお二人が答える」というものがありました。
いくつかの世代の声が取り上げられていて、たとえば60代の「死ぬのが怖い。身体に不調がでてきた」という声に対して「寿命はあるから受け入れなきゃ」ということを話されていたのですが、中でも10代後半の人への反応が秀逸でした。

内容としては「やりたいことがない。将来が見えない」だったのですが、それに対して篠田さんは「我々世代がダメなのかもね。生き生きとしているように見えていなくて、世界に希望がないんでしょうね」と仰っていたのです。

通常であればゆとりだの無感動だの意欲が無いだの、10代の人の価値観が悪いなどと言われがちなところ、あくまでも自分たちの側の責任として「今の若い人が羨ましい、楽しいと思える世界を作れなかったのでは」とお話しする姿は、非常に凛としておりました。
特に「答え」が提示されるものではありませんでしたが、100歳を超えた人が真摯に、ありがちな問いをありがちにせず話されたことは、自分の中で少し救いになった気がします。

 

もしも自分が100歳になったとき、10代や20代の人に何かを話して通じるような、時代感をもって生きていられるか。そんなことを考えた番組でした。
……こんなことばかり考えているから目の前のことが疎かになるのだ、というお叱りは、甘んじて受け入れつつ。

世界はもはやイノベーターの時代ではない。狂者の時代である。

突然ですが、あるものを突き詰めるとは一体どういうことでしょう。
スポーツであれ、学問であれ、芸事であれ、非常にニッチな趣味であれ。
何かを極限まで突き詰めると人はどうなるのでしょうか。

そのとき、その人はきっと狂ってしまっているでしょう。

「狂う」の語源は、何かに取り憑かれたように平衡感覚を失い「くるくる」としている様にあるようです。
ある対象にのめり込み、自分とその対象がまるで溶け合うかのように感じられるとき、その人は普段の感覚を失っているのであり、それは「狂っている」と言って差し支えないもののように思われます。

 

さて、現代において、「狂い」の持つ価値は、いよいよ増しているように思います。
変化が激しく、次々と新しいものが生まれていると言われる時代。
昨日の勝ちパターンが今日の常識になり、明日の負けパターンになる時代。
そんな時代に、「狂者」たちは競って未来を創っています。

 

つい数年前まで、環境は「乗り越えるもの」でした。
イノベーションという言葉が持て囃され、既存の常識を疑い、次の常識を創りだすことが、最先端の価値でした。

ですが、今、世界で最先端の価値を出していると思われる事象は、果たして環境を乗り越えた結果なのでしょうか?

 

イーロンマスクはロケットを飛ばし、電気自動車を走らせ、ソーラーパネルも作っています。
スティーブジョブズは電話を再発明し、Appleを世界一の会社にし、多くの人に情熱を与えました。

 

他にも世界で様々な人が、これまでにない価値を生み出しているでしょう。
さて、では、これらの人たちは、果たして既存の環境を乗り越えた結果、価値を生み出しているのでしょうか。

たしかに、イーロンマスクほど効率よく、スティーブジョブズほど洗練された製品を開発することは、常識を超えていると言えるでしょう。
しかし、ロケットも電気自動車も携帯電話も、すでに世界には存在したのであり、馬車が自動車になったほどの常識破りではありません。当時、鉄の塊が走るなんて、それこそ理解の範疇を超えていたはずです。

 

つまり、今世界で生じている最先端の価値は、人の理解を超えることから生まれているのではありません。
それでは、一体何から生まれているのか。

 

それは、ある狂者が信じ、創りだす環境から生まれているのです。

 

イーロンマスクは、人類が火星に行くことを信じ、それを突き詰める過程で様々なビジネスを形にしています。
スティーブジョブズはそれほど明確ではないですが、「貪欲であれ、創造的であれ」という言葉の通り、世界中の人々が創造的である世界を創りだそうとしていたことは、それほど間違っていないでしょう。

 

そう。もはや環境とは「自分で創りだすもの」であり、自分が創りだした環境で生きていくことこそが、最先端の価値を生み出す源泉と言えるのです。
そして、環境と自分自身が一体化しているならば、それは自分の人生を自分で突き詰めたということであり、「人生に狂っている」と表現しうる状態になるのです。

人生に狂うことで、新たな価値を生み出せる。
自分の中にあるものを突き詰めていくことで、ほかの誰にもできないことで生きていける。
こうした世界は、決して悪くはないものでしょう。

 

さて、ここまでは明るい話です。ここからが暗い話です。
ここに、一人の狂った少年がいます。
彼はあるものに非常に心惹かれており、いつでもそのことを考えていて、周囲の人にもその楽しさを伝えます。
その時、周囲の人はどんな反応をするでしょうか?
「彼は今自分の環境を自分で創りだしているんだ」と思ってくれるでしょうか?

現実的には、話が通じず、敬遠され、集団の輪から外れていくでしょう。
場合によっては「そんなものに興味を持つのはやめなさい!」と言われてしまうかもしれません。
ですが、それだけであれば、まだ悲劇も少ないのです。

 

さて、自分で自分の環境を創りだせなかった少年は、環境に自分を合わせたり、自分に環境を合わせたり、環境から自分を遠ざけようとしたりします。
それぞれ、クラスメイトの中に加わる、波長が合う子とだけ遊ぶ、空想の世界に引きこもる、などでしょうか。
この中で1番推奨されるのは、おそらく「クラスメイトの中に加わる」でしょう。
誰だって子どもには、できることならみんなと仲良くしていてほしいはずです。

 

しかしこの場合、少年の内部で様々な変化が起きていることは、案外知られていません。
もともと、彼は狂っていたのです。話が通じず、歯がゆい思いをしていたのです。
そんな彼がクラスメイトの中に加わるためには、環境に合わせて自分を創り直し、それを絶えず修正していくプロセスが必要です。
少年は環境ではなく、自分自身をつくりあげてしまうのです。
そうして、「狂った少年」から「環境を読み解き、周囲と合わせることが出来る少年」になるのです。

 

さて、彼が大人になった世界を見てみましょう。少年も今や、立派な社会人です。
周囲と合わせることが出来るようになったとはいえ、それは自然にできることではありません。
一生懸命つくりあげ、ボロが出ないように過ごしてきたのです。

そんな中、気がついたら自分が過ごす環境のルールが変わっていることに、ある日ふと気づくのです。
環境に合わせるだけでは、自分の居場所がなくなってしまう環境に。
自分の突き詰めたものを信じ、それを形にしている人が、最先端の価値を生み出し、賞賛されている世界に。

 

元狂者だった彼は、現狂者が最先端にいる姿をみてこう思うのです。

「自分も、あのまま狂わせておいてくれればよかったのに」と。

 

さて、色々と書いてしまいましたが、現代が狂者の時代であることは、ほぼ間違いないと思っています。
逆に言うと、自分が突き詰めたいと思ったことをビジネスに結びつけマネタイズし、それを周囲も支援でき環境が整いつつあるのが現代だということです。
一方で、多くの教育者は子どもたちに対して、幅広い人と交流し、多くの分野の知識を身につけることを求めます。
そうしないと、社会で生きていけないと思われているからです。
ここに、現代(日本)の小さな悲劇の源泉があると考えています。
なぜなら、こうした歪みで傷つくのは、いつだって少数派の個人であるからです。

 

世界はもはや、過去を乗り越えることからは始まりません。
全存在を賭けた人間同士が、自分の領域において文字通り人生を使い果たすことで、新しい未来が作られる世界です。
そうした人が世界に十分に増えたとき、それは国家というシステムの消失を導くでしょう。
なぜなら、人々は生まれや血筋ではなく、その人が人生を賭ける「何か」により、つながることができるようになるからです。

 

そして、その世界は決して安穏とした幸せな世界ではないことも、十分に伝わるかと思います。
元々人間には、それほど強い意志を持つ必要がありません。なのに、強い意志を持った人が増え、力を持ち、集団化していく。
そうした世界は、一部が大衆を支配している時代とは、全く異なる世界です。
無条件に支配してくれる有難い存在は、あまり魅力的でないものとなるでしょう。

 

だいぶ飛躍しながらここまで来てしまいました。
この文章を読んでいただいたことに感謝をしつつ、
・現在は狂者の時代であること
・狂者の時代に悲劇を感じている人がいること
の2点をどうかご理解いただければ、これに勝る喜びはありません。

それではどうぞ、また会う日まで。

幸福について本気を出しすぎて考えたら、マズローの自己実現理論を更新して世界平和を希望していた話。

この1年間、気づけば「幸福について考える」というのが、自分の大きなテーマだったように思います。
最初は「どうすれば幸福になれるのか?」という問いを立てていたのですが、漠然としすぎて考えが深まらなかったので、具体的には下記2つの問いを考え続けていました。

■幸福とは何か?
■どうして人は幸福になりたいと思うのか?

考えていたら道は開けるもので、少し前に、この2つの問いに自分なりの答えが出せたので、それをまとめることで2015年の総決算としたいと思います。
いつも以上に長いかもしれませんが、年末のお供に、よかったら読んでみてください。
※以下に「幸せ」という言葉も登場しますが、幸福と同義だとお考えください。

 

■幸福とは何か?

幸福については、過去様々な人が独自の定義を打ち出していますが、どれもイマイチだなと思っていました。
wikipediaの「幸福論」をご覧になるとわかるとおり、キリスト教的な神との関連が強すぎて馴染めなかったり、幸福になるための方法論だけで「幸福な状態そのもの」に関しては何もわからなかったりするためです。

幸福論 - Wikipedia

 

他にも、Amazonのランキング大賞に選ばれた『嫌われる勇気』。きっと読まれた方も多いかと思いますが、そこで紹介される「アドラー心理学」では、幸福の要因として3つの原則が挙げられています。

 

1.自分が好き

2.他人を信頼できる

3.社会や世の中に役立っているという貢献感がある

 

3つの原則については納得しますが、これも「幸福とは何か?」という問いに答えてくれるものではありません。幸福が何か分からなければ、それを追い求めることもできません。

さて。前置きが長くなりましたが、ここでまず結論をお伝えします。

 

幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」です。
あっけない定義ではありますが、これが必要十分で、全てです。

 

たとえば、幸福について考えている中で、こんな問いにぶつかることがありました。

・どうして客観的には幸せそうに見えるのに、幸せでない人がいるのか?
・何も考えていない人は幸せそうだ。考えないことが幸せの秘訣なのか?

こうした問いに、上記の定義は簡単に答えを出してくれます。

客観的には幸せな環境(例えば、人やお金や幸運に恵まれている)でも、それを維持したりうまく活用したりする方法がわからず、ましてや悪事の果てに得た環境であれば、思い悩むことは尽きません。結果として、どんなに恵まれた環境にいても、思い悩む理由を排除できる自分にならない限り、幸福にはなれません。
莫大な資産を受け継いだ2代目が幸福になりづらいとするなら、その要因はここにあります。

一方で、思い悩まない=考えないことは一見幸福に見えますが、外部環境が伴わなければ、いずれ辛い現実に直面する日がやってきます。つまり、幸福と「現実逃避」や「思考停止」や「隷属」は、非常に近い関係にあると言えるのです。
ある男女が共依存関係にあるとして、本人たちはこの上なく幸せだと思っている状況は、ここから生まれます。

もちろん、この定義からもわかる通り、幸福とは徹底的に主観的・相対的なものです。
自分が「満たされている。悩みなど何もない。」と思えばどれだけ貧しく厳しい暮らしをしていても幸福でしょう。
しかし、根本的に人は他人と比較しないと自分を把握することができません。そして、SNSがこれだけ浸透した現代において、他人の状況は嫌でも流れ込んできて、比較対象としての他人をアップデートし続けます。

もし現代が幸福になりづらいとするなら、「他人の環境が分かりすぎる結果、自分の環境が実は満たされていないことが分かったり、なぜ他人よりも劣っているのかと思い悩んだりしやすい状況になっているから」だと言えるでしょう。

さて、ここに来て、最初の問いである「どうすれば幸福になれるのか?」という問題がより切実になってきました。けれども実は、幸福を定義したことで、この問いにもすでに答えは出ています。幸福になるためには下記のような問いを立てて検討すればよいのです。

・今の自分は何に満たされている/いないのか?
・本来、自分はどんな時に満たされている/いないと感じるのか?
・今の自分は何を思い悩んでいるのか?
・将来的にそれは解決可能か?可能ならどうやって解決するか?不可能であればどうしたら思い悩まないか?

もちろん、この問いに答えることは簡単ではありません。ですが、まったく手探りで進むよりは、これらの問いを道しるべに進んでいく方が、充実した日々を過ごせるはずです。

さて、困ったことに、元々の問いに早くも答えが出てしまいました。しかし、本気で考えた成果は、ここから発揮されていきます。

 

■どうして人は幸福になりたいと思うのか?

ここまででも十分、色々な悩みは解決できるのですが、そもそもどうして人は幸福を求めるのでしょうか?足るを知り、現状に満足してしまえばそれで良いのに、自分も含めて多くの人があてもなく幸福を探して彷徨い、つらく苦しい思いをしているのはなぜなのでしょうか?
つまり、「幸福なんか求めなければ、それが1番幸福」なのではないでしょうか。

これも、結論からお伝えしましょう。

 

人が「幸福になりたい」と思うのは、それが「根本的な欲求の1つ」だからです。
「お腹がすいた」「認められたい」と同じように、人は「幸福になりたい」と思ってしまうのです。

 

おそらく、「幸福を求めることが欲求」と言われてもよくわからないと思います。ここで、幸福という現象をもう少し別の言葉で言い換えてみましょう。
先ほど、幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」と定義しました。これを分かりやすく、かつ時間軸を加えて説明すると「衣食住が満たされ、自分の尊厳や価値も感じられ、他者に対しても同様の気持ちを持っており、これからも持ち続けることが確信できている」という状態に他なりません。
一言で言えば「思い通りに生きるために必要なものは全部持っているし、今後も持ち続けられる」ということです。

つまり「幸福を求める」ということは「自分の思い通りに生きるのに必要だと思うものを全部揃えていく」という過程であり、最終的には「他者や外部環境も巻き込み、自分の望む通りの世界を形作ること」だと言えるのです。
なぜなら、物質的なものであれ思想的なものであれ、自分が「こうだ!」と思うものを他人も大事にし、ましてや社会も尊重し続けているならば、それは自分にとって非常に好ましく、生きていきやすい世界だと言えるからです。
(ここに、以前書いた「価値観型社会」の片鱗が立ち現れてきます。)

 

それはさておき、仮にこの「自分の望む通りの世界を形作る」という欲求を「世界実現欲求」としたとき、実はマズロー自己実現理論と重ね合わせて、説明を行うことが可能です。
ご存知の方も多いと思いますが、マズローは人間の基本的欲求を5段階にわけ、生理的欲求~自己実現の欲求まで、ある程度の段階を経て人は欲求を満たしていくという理論を唱えました。

自己実現理論 - Wikipedia

 

この理論には様々な批判もありますが、感覚的にわかりやすく、かつ話を形式化しやすいという点で、実用的な理論だと思います。
ここまでは多くの方が知っていると思いますが、マズローが晩年に、自己実現の欲求の上位にある6段階目の欲求を提唱していたことは、あまり知られていません。
その欲求を、彼は「自己超越欲求」と名づけています。

背景としては、「自己実現」までだと個人と社会とのつながりが説明できず、奉仕の精神や隣人愛といった概念が扱えなかったために、こうした新しい段階が生まれたようです。
これは仏教や禅の思想にも通じていて、自己超越の段階になると「何ができるか」ではなく「どう在るか」とか「全体とはなにか」といったレベルで生活ができるのだそうです。

 

この「自己超越欲求」について、個人が確立された後に、望ましいあり方で社会と関わっていくという流れに関しては、特に異論はありません。
ただ、この「自己超越」という言葉は、非常に西洋的で日本人にはなじまないと思っています。ここで暗黙的に想定されているのは「近代以降の合理的個人が、その合理性を高めることで神=絶対的な存在に近づく」という流れであり、理想として目指すべき存在が想定されていると感じられます。
ですが、本当に「理想とすべき存在」は1つだけなのでしょうか?人種も生活環境も違う個々人が、すべて同じ理想を求めて生きているなど、現実としてあり得るのでしょうか?

残念ながら、私はそうは思いません。ここでの問題は、この「自己超越」という言葉では6段階目の欲求を示すのに不適切で、適用範囲が狭いことなのです。
(だから日本で広まってないのだと、個人的には思っています。)

 

ではここで「世界実現欲求」という言葉を考えてみましょう。
「自己超越」とは、「どう在るか?」といった概念的なレベルで世界と関わっていく姿勢でした。つまり、その人の何らかの思想や経験、個人的素養を踏まえた結果「自分や他人、そして世界はかくあるべし」という世界観を形にすることだと捉えられます。

一方で、そんな小難しいことは考えずとも「とにかく人が互いにやさしい世界になればいい」と友人との付き合いを経て、コミュニティを作りそこに加わっている人が楽しそうにしているという「自分なりの幸福な世界」を作っている人もいっぱいいます。
そこには「自己を超越する」というニュアンスはありませんが、自分ができることを精一杯行い、自分が望む「世界を実現する」という行為は、十分に達成されています。

 

つまり、本来「自己実現」を達成した個人が向かうべき欲求は「自己超越」ではなく「世界実現」であり、その規模の大小や善悪に関わらず、それこそが「幸福を求めるという一人の人間としての根本欲求である」ということなのです。

この「世界実現欲求」の重要な部分は、それ自体では道徳的・倫理的な判断ができないという部分です。もし「世界は憎しみに満ち溢れるべき」といった、昔のRPGゲームのラスボスみたいな人がいても、その欲求を否定することはできません。
また、駆け出しのバンドマンやクリエイターのように「俺は世界を変えるぜ!」といったところで、それだけの説得力や実力がなければ現実は何も変わらず、「この世界は間違っている」といった逃避につながってしまうこともあります。

ちょっとふざけて書きましたが、結局は「適切に愛情や承認欲求を満たし、自己実現をの過程で自分ができることを見極められなければ、人が幸福な世界をつくるハードルは非常に高いままである」ということです。

 

さあ、だいぶ幸福についての検討が進んできました。
ここで、今一度これまでの話を整理してみましょう。

 

・幸福とは「満たされた環境にあり、他に思い悩む必要がないこと」である。
・幸福であり続けるには「満たされた環境」を他者や社会も巻き込んで実現し続けていくのが手っ取り早い。
・この「自分が望む環境=世界を実現したい」というのは人間の根本的な欲求であり、人が幸福を求めてしまう要因でもある。

 

ここまで来れば、「どうして組織では権力が発生するのか?(自分が満たされている環境を実現したいから)」「宗教で人は救われるのか?(望む世界を外から取り込める場合には救われる)」「自己実現を求めても幸せになれないのはなぜか?(幸せはその先の欲求から生まれるから)」というように、いろいろな問いに答えることが可能です。

そう考えると、結局この世は、思うとおりに生きたいという個人が、望む世界を実現するために戦う仮想的な陣取りゲームのようなものだと言えるかもしれません。

ですが、それを否定する気も、悲観する理由もありません。
前提として「人がこの世に生まれた理由はないが、楽しく生きる権利はあり、その理由を追い求める自由もある」と思っているので、むしろ「絶対的な幸せはこれこれである」という世の中の方がおかしいと思っています。

そして、この幸福の定義であれば、それぞれの人が自分の望ましい世界に向けて、思いっきり頑張ることが肯定できます。「世界平和を望む人が偉い」とか「自分の身の回りのことしか考えない奴はダメだ」とか、そんな区別は一切ありません。
どちらも、自分にとっての幸福を追い求めているだけだからです。その方が、現実的な考え方だと言えるのではないでしょうか。

 

ただし、現実的であることを重視するなら、1つだけ気をつけなければならないことがあります。
それは、世の中には「満たされた環境」を望むことすらできないほど悲惨な状況におり、「思い悩む」だけの知識や経験も持つことができず、日々生きるだけで精一杯だという人が、大勢いるのが現実だということです。
それは遠い国の話ではなく、日本国内にだってそうかもしれません。

とするならば、まずは誰もがこの欲求に自由に従い、幸福を求めることができる世界になることを望むことは、それほど間違いではない「次の時代の世界平和」の形だと言えるのではないでしょうか。

 

このように考えてくると、昨今言われている「『顧客』ではなく『個客』」とか「人工知能によって人のやることがなくなる」といったビジネスや生き方についての言説も、幾分理解がしやすくなると思います。
もし「自分にもこの考え方が役に立った!」などという方がおられましたら、ぜひどんな場面で役立ったかをお教えいただけたら、とても嬉しく思います。

 

【追記】
2年経って、改めて幸せに関する記事を書きました。
よろしければこちらも併せてご覧ください。

幸せになるための3ステップと9+1の問いかけ - canno-shiのすこしみらいを考える

「資本・価値観主義社会」の到来

ここ数ヶ月、暇を見つけては「将来の社会はどうなるのか?」ということを考えていました。
情報センサーの低価格化、IoTの進展、データの収集・分析力の向上、それら全てにより「人間の生活を全て把握できてしまう」という状況の中で、いったい人々は何を大切にし、重要に思い生きていくのだろうか、という疑問があったからです。

そうした中で、少し前からイメージとしては持っていたのですが、色々な記事や下記の本を読んで「今後間違いなく、個人の『価値観』が最重要になる社会がやってくる」と確信をした次第です。

それは、資本主義の次のステージである「資本・価値観主義社会」と言ってもいいものだと、個人的には考えています。

 

■シンギュラリティ大学が教える飛躍する方法
http://www.amazon.co.jp/dp/4822251039

 

ここで言う「個人の価値観が重要になる」という言葉には、下記3つの意味が含まれています。

①働き方:法人や団体も価値観を持つようになっており、その構成員もスキルや技能に加えて適切な価値観も求められている。
②対人関係:個人への信頼の基礎が、その人の価値観に置かれるようになる。
③自身の幸福:個人としての価値観を持たなければ、個人としての幸福を得づらくなる。

それでは早速、それぞれについて見ていきましょう。


①働き方:法人や団体も価値観を持つようになっており、その構成員もスキルや技能に加えて適切な価値観も求められている。

現在の日本の採用市場においても、その人が「社風」に合うか?というのは大きな判断基準になり得ます。

特に、その人のポテンシャルを見るしかない新卒採用では、「人物面でのマッチング」がより重要になります。学生側の内定承諾の基準も、最終的には「人で決めた」という回答が最も多いのです。

しかし、中途採用においては、いまだに「スキルでのマッチング」が主体です。
社内で拡大したい、あるいは人が足りない事業や業務に対して、それが担当レベルで回せるかどうか?が重要視され、多少面接時に人物面で難があったとしても、それを根掘り葉掘り確認することはそれほど多くないでしょう。

ところが、今後の就業環境においては、その「人物面でのマッチング」こそがより重要になる予兆が、色々なところで出ています。
それは「先進企業だけがそうしている」ということではなく、「企業として自身が世界に提供する価値や姿勢を明確にしなければ、今後市場で選んでもらえない」という時代が、明確に迫ってきているということです。

みずからを、「靴を売ることになった顧客サービス企業」と称すザッポスは、その分かりやすい企業の形でしょう。東洋経済の記事にこうあります。

ザッポスの企業文化さえしっかりしたものにすれば、広告などにおカネをかけなくても、ブランドや売り上げは後からついてくると考えた。社員をハッピーにし、ハッピーな社員が顧客にサービスを尽くすことで顧客もハッピーになるという、よい循環を起こすのだ。

そのために、新たに雇用する社員はこのコアの価値に合うかどうか、合わせる気持ちがあるかどうかで厳しく選抜し、雇った後も合わないとわかればすぐに解雇する。解雇するのに報酬を与えるというのも、有名な話だ。報酬は、在籍した年数に合わせて2000〜5000ドルだ。
http://toyokeizai.net/articles/-/45650?page=2

差別化の経済が勢いを弱め、個別化の経済が強くなっている昨今、顧客をハッピーにできない企業=顧客に我慢を強いて売上を上げている企業は、どんどん競争力を失うでしょう。

なぜなら、テクノロジーの進化により、不便を便利にする力学が、今後より強まるからです。宿泊先がなかなか見つからないホテルに不満を持つ人は、Airbnbの恩恵を今後より強く感じることでしょう。

さらに、最近「アライアンス」という企業と個人のフラットな契約の形が注目を浴びているように、終身雇用が前提とならない社会では、「我慢して働く」ことのインセンティブが下がります。我慢の先に報酬や地位といった見返りが約束されているわけではないからです。

こうした様々な理由により、企業も従業員も、その「価値観」を土台とした交渉や契約を行うようになるでしょう。それが経済的にも合理的であり、時代の流れに沿っている以上、この動きは長期にわたって続くと思われます。

 

②対人関係:個人への信頼の基礎が、その人の価値観に置かれるようになる。

近頃、環境の変化が速いと言われます。その渦中にいると実感は湧きませんが、下記のような話を聞くと、その変化が少し感じられるのではないでしょうか。

 現在の世界のデータの90%はここ2年間に生み出されたもので占められているという。

 世界のデータ量は毎年40%、そして2020年までには50倍にまで増加すると予想されている。

(いずれもhttp://thebridge.jp/2015/01/worlds-data-volume-to-grow-40-per-year-50-times-by-2020-aureus-20150115-2

 仮に、現時点の全世界のデータを100とすると、ここ2年で生まれたものが90であり、過去数千年の蓄積は10にすぎない。さらに、5年後にはデータの総量がなんと5,000にも達するというのです。
(もちろんデータの増加=環境の変化ではないですが、「人が処理できないほどのデータが生まれている」という事実は感じられると思います。)

こうした状況により、対人関係にも変化が生じると考えています。もっとも、これは今でもそうでしょうが、人は一貫性のあるもの、安定しているものを生来的に好みます。
そうした中で、ある人が技術や地位(=変わりやすいもの)によって信頼を得られる期間はどんどん短くなり、代わりに趣味嗜好や価値観(=変わりにくいもの)が重視されるようになるでしょう。

そして、「磨かれた価値観」や「向上し続ける価値観」というものを持つ人が尊敬・信頼され、「同じ価値観をもつ人」を集めることが様々な場所で起きるはずです。
こうした集まりが「企業」になることも、当然今後増えるであろう事象の1つです。
①により企業が価値観を持ち始めると同時に、そもそも同じ価値観を持つ人が企業や団体を作るということが、より一般的になるでしょう。

 

③自身の幸福:個人としての価値観を持たなければ、個人としての幸福を得づらくなる。

①と②により起こることは、数え切れない影響を個人に及ぼします。
突き詰めて考えれば、ある価値観を持っていないことが理由で、ある経済活動に参加できなかったり、あるサービスを受け取ることができなくなったりするかもしれません。なぜなら、企業や団体は同じ価値観を持つ人を仲間にし、特定の価値観を持って自社の商品やサービスを展開するからです。

しかし、実はこのことは、大きな問題ではありません。なぜなら、自分の価値観と大きく異なる商品やサービスを利用できないからといって、個人にとっては特に困ったことにはならないからです。

例えば、ザッポスのように「社員や顧客をハッピーに」という価値観を良いと思う顧客であれば、社員が劣悪な環境で働かされている企業の靴は、どれだけ品質が良かったとしても、おそらく欲しいと思えないでしょう。
一方で、「安ければよいのだ」という価値観を企業と顧客が持ち、従業員も「過酷だが高給」などといったモチベーションがあるのであれば、安い靴が流通する経済も、一定の水準で続いていくでしょう。

このように、「資本・価値観主義経済」では、市場が富裕層・一般層といった資本力だけではなく、価値観によっても区別され、かつそれぞれが互いに重なり合うという状況が発生してくるはずです。

ここで、価値観が重視される世界の、個人にとっての大きな問題が発生します。
それはつまり、「自分の価値観が分からなければ、どの市場に参加してよいかが分からなくなる」ということです。
もっと言えば「生きているだけで自分の価値観が強烈に問われる世界になりうる」ということなのです。

しかし実はこれすらも、実は深刻な問題ではありません。
なぜなら、「今の日本では価値観を問われることが非常に少なく、結果として自分の価値観をきちんと把握し磨いている人も少ない」ものの、価値観は大人になってからでも努力次第で変えることが可能であり、子どもであればなおさら教育の問題で解決できるからです。
ただし、これからも「周囲と協調するのが一番よい」などと言いながら、自分で自分の優先順位を決められないような人が育てられ続けるのであれば、将来は悲劇で溢れるといわざるを得ないでしょう。
自分で価値観を選択できない人の集団が起こしたのがバブル経済であり、今後の世界は、お金よりもダイレクトに自分の心に働きかける価値観が、あらゆる商品やサービスを通じて届く世界なのです。その際、自分自身の選択基準を持たない個人は、市場の奴隷になるしかないのです。

さらに、もしもこの「資本・価値観主義社会」という考え方が非常に強く進むのであれば、それは企業や市場だけではなく、地域や国家の姿も変えていくでしょう。例えば、「この町に住む人は、競争よりも調和が大事だと思っている必要がある」というように。

これは言いすぎかもしれません。が、今よりも世界的に貧富の差が解消され、交通の利便性(モビリティ)向上が行われれば、世界がこのような形に向かう可能性も十分にあると考えています。
なぜなら、魅力的な価値観は人をひきつけ、団結させる力を持つからです。各種の宗教やキング牧師の例を引くまでもなく、価値観とそれに基づくビジョンは、人を動かす力を持ち続けています。

 

ここまで偉そうに書いてきましたが、1つ告白すると、私はまだ「自分の価値観」というものがよく分かっていません。
だからこそ、価値観を作るために必要なものが分かります。
それは「意味のある現実との間に『インプットー処理・解釈ーアウトプット』を作り続けること」です。

非常に不明瞭かつ、自分自身噛み砕けていないことですので、詳細の説明は割愛いたします。
ただし、「価値観」という一見ふわふわとした不確かそうに見えるものが、必ず「意味のある現実」と結びついていなければならず、その間には「神経系による情報のやり取り」が行われているという仮設は、色々な示唆を与えてくれると思うのです。

本日書いたことは、ともすると「当たり前」のことかもしれません。「その人の価値観が大事」というのは、誰も疑いようがないことだろうからです。

ただし、その「大事」という言葉意味が「経済活動に参加できないこと」「人から一切信頼されなくなること」「市場の奴隷になること」とまで拡大できるということは、あまり考えないことではないでしょうか。

ちなみに、「価値観」をここまで中核に据えたのは、過去の偉人や支配者、経営者の生き方を調べる中で「自分の価値観を現実世界に反映させることが幸福につながるのではないか?」という仮説が生まれたからです。このことについては、より詳しく考えていきたいと思っています。

「我思う、ゆえに我在り」に、少しだけ含まれている嘘。

近頃、自分がブックマークしているブログで続けて「スーパーメタ社会」とか「自分の思考について思考える」というテーマが取り上げられており、
具体と抽象の行き来がより激しく、かつ重要になってきているなということを、改めて実感します。

 

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 「スーパーメタ社会」を生きるビジネスパーソンに必要な3つの能力とは何か?

ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド: DESIGN IT! w/LOVE

 

ただし、この辺の重要感が気軽に共有できるかというと、そうではないなとも感じます。
なぜなら、「自分が××のように考えているのは実は△△が原因だ」という思考は普通に生きている中でする必要が無いですし、
そもそもこのように考えること自体、自分が自分でなくなるような不安感につながってしまうからです。

一方で、もし多くの人が「なぜ自分はこのように考えるのか?」という問いを立てることができれば、より複雑で意見が分かれてしまう問題
(例えば自衛隊の扱いや同性愛に関する意見の食い違いなど)
にもっと建設的で、互いに歩み寄れる立場の人が増えるのではないかと思っています。

私自身、こうした問題に思うところはありますが、有名人でもない限りとかく「声が大きい人が勝つ」「極端なことを言ったほうが注目される」ネットの世界で、
これらについて発言する気は起こりません。
ただ、より多くの人が、ある物事に対して自分が感じる違和感や気持ち悪さ、
怒りや戸惑いの根っこに何があるのか?を考えられることが、
ネット上の議論を意義のあるものにする1つの手段だろうと考えています。

 

前置きが長くなりましたが、ここからがやっと本題です。
ちょっと大げさすぎる取り組みではありますが、タイトルにある「我思う、ゆえに我在り」という言葉を通じて、
自分の思考について考えるということの意味を考えてみようというのが、今回の趣旨です。
誰もが知っている格言のような言葉の裏に、まだ疑問を感じるべき部分があるということを見ていきましょう。
(以下、哲学・歴史の説明に関してはだいぶざっくりと書いています。
詳しくご存知の方からすると首をかしげる部分もあるかもしれませんが、今回の主題を分かりやすくするためという意図を汲んでいただき、どうぞご容赦ください。)

さて、この言葉がデカルトのものであるということは、あまりにも有名だと思います。
ただ、その意図するところとして「自分が考えてるんだから自分はいるでしょ」ということにとどまらず、
「あらゆるものを疑った結果、疑い得ないものとして、疑っている自分というものは絶対に残る」という「絶対的なものを探す」という取り組みがあります。

そこから「その疑い得ない自分をもとにして、論理的に矛盾無く証明できたことは真実である」との考えから、
「神の存在証明」までデカルトは成し遂げています。

さて、疑い得ない自分がいるということで基本的にはめでたしめでたし、
なのですが、ここで1つの疑問を思い浮かべることができます。
それは「なぜデカルトはすべてを疑って、絶対的なものを探さなければならなかったのか?」という疑問です。

世界史を勉強した方ならご存知と思うのですが、デカルトが生きた16世紀~17世紀は、宗教改革宗教戦争が激化した時代でした。
それまでもキリスト教の世俗化や権威の弱化は続いていましたが、ルターが1517年に95か条の誓文を出し、プロテスタントが広がり、
1618年から始まった三十年戦争により、カトリックプロテスタントの対立が決定的になります。

この三十年戦争には、デカルト自身も参加していました。
この時代、芸術や学問においても「大衆化」という現象が起きていますが、
それはつまり「キリスト教の神の領域にあったものが人の領域に広がった」ということに他なりません。

それまで神の領域にあったものとしては、こうした「美」や「知識」だけでなく、
もちろん「真実」や「絶対性」も含まれていました。
つまり、キリスト教が保証していた「真実絶対のもの」が揺らぎ、あらゆるものごとの前提が崩れていたのが、この時代だったわけです。

ここで、先ほどあげた「なぜデカルトはすべてを疑って、絶対的なものを探さなければならなかったのか?」という問いの答えが見えてきます。
それは、彼個人の特性というだけでなく、あらゆるものの存在の根底が揺らいでいたという時代背景があったのです。

おそらく、彼はこうした自分の思考に自覚的だったでしょう。
ただ、「我思う、ゆえに我在り」という言葉だけからは、こうした背景は伝わってきません。
そして「我思う」の前に、そう思うための「『時代』の中に我が在った」ことは、すっかりかき消されてしまっているのです。
だから、「我思う、ゆえに我在り」という言葉は、少しだけ嘘なのです。

現代において、こうした「時代」に該当するものはどこにでも見出せます。
例えば、各種メディアや広告、技術という分かりやすいものだけでなく、
教育や文字、デザインやコミュニケーション術などなど、
およそ「型」のあるもの全てが、私たちの思考に影響していると言えます。
それは「常識」よりも無自覚的に、私たちとともにあります。

「正しいと思っていることを疑う」というのは、すでに使い古された言葉です。
しかし、「なぜ正しいと思われていることを疑わねばならないのか」という疑問に答えられる人は、ほとんどいないでしょう。
でも、この問いが立てられないと、「正しいことを疑わなければならなくなってしまった理由」について、考えることができないのです。
それはつまり、「自分がやろうとしていることの本当の理由」を知らないことと、まったく同じなのです。

関連して、最後に1つだけ。
多くの人が死の間際に後悔することとして「もっと自分に素直になればよかった」ということを挙げるそうです。
「自分に素直になる」という言葉はいまいちよく分からないのですが、
「ふと浮かんだ考えを疑ったあとで、新しく出てきた考えを認めてあげる」ということであれば、具体的に誰にでもできそうな気がします。