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canno-shiのすこしみらいを考える

現在と過去を通じて少しだけ未来を考えるためのブログです。予測ではないですが、ありたい未来を考えていく気持ちです。

東京に足りないのは人間味というよりも人情味だと思う。

肩が触れ合うほど密着するのに、心の距離は遠ざかるばかりです。


はてさて、私は岩手で生まれて、大学時代は京都で過ごしたのですが、

間違いなく岩手や京都にいたときの方が、今よりも感受性が豊かだったように思います。


昔は天文部として毎日空を見上げていたのに、今や満月の夜くらいしか星を見ませんし、

草木や鳥のような自然をたまに見かけると、あまりに自分が意識を向けていなかったその事実に驚きます。

大学生の頃は、スズメとお昼ご飯食べてたのにねぇ。


ところで、冒頭の言葉はもちろん、満員電車を経験しての話です。

東京に越してきた当初は、見知らぬ人と肩が触れ合うのにかなりの気恥ずかしさや申し訳なさがありました。

だって、見知らぬ誰かと密着することなんて、普通はないじゃないですか。


それなのに、いつの間にか何も感じなくなり、近頃では誰かにぶつかっても相手を見ることすらしなくなってしまいました。

まさしく、その人は私にとって「誰か」以外の何者でもありません。

心が少しずつ死んでいく気がするのは、あまりにも感傷が過ぎますでしょうか。


とはいえ、これが東京の途方もない良さの裏返しであることは、よくよく理解しています。

人工物に囲まれているからこそ、夏冬も快適ですし遊びに行く場も選び放題です。

人があまりにも多いからこそ、この3年間で本当にたくさんの素敵な人たちに出会ったり、交流を深められたりしました。

あと、何だかんだ言って意外とあったかいんですよね。東京も。


けれども、これらの良さは「自分の感受性」という代償を払って得たのだと思うと、若干寂しい気もします。

というよりも、今の私には、その「感受性」がとても重要なので、こんなことを書きたくなったのだと思います。


人間味と人情味を辞書で引くと、

前者は「温かみ」が強調されるのに対して、

後者は「情の深さ」を意味します。

東京は色んな人を受け入れる温かさはある気がするけど、自分の腹の底を見せる情の深さは感じません。

腹に一物抱えた油断ならない相手、というのが、丸3年住んで掴んだ東京との距離感です。

3年も一緒にいたのに、あんまり近づいてないですね。


街と人との関係は、今後もっと複雑化していくでしょう。

地縁も解体されつつあるなかで、人の移動がもっと速く安くなれば、

色んな土地で生きる選択肢が生まれてくるはずです。


そして、その時にはやっと、東京も胸襟を開いて向き合ってくれるようになる気がするのです。

たぶん、2020年以降くらいには。

「ブラック企業」の入社研修周りで考える、産業の構造とそこに入社していく人々の変化のお話

ブラック企業」という言葉があちこちで聞かれるようになって早数年。
こうした企業の入社研修が非人道的、宗教的にみえることについては、様々なところでその例を見ることができます。
(たとえばNaverまとめなど。http://matome.naver.jp/odai/2137182942411312301

ただ、昔から厳しい研修は行われてきており(ガムテープで受話器を右手に固定されるなど)、
近年になってブラック企業が急増したわけではないと思います。

それどころか、いきなり辞めたりしないように、非常に優しい研修を組んでいる会社も多いと聞きます。

というわけで、本日はこれまでは当然だったことが「ブラック」と呼ばれ、
話題になる理由について、「産業構造の変化」と「個人の自己認識の変化」という2つのテーマから考えてみました。
4月となり環境が変わる方も多いと思いますので、少しでも自分の周囲を見つめなおすきっかけになればと思います。

1.産業構造の変化
みなさんが日常的に感じられていることだと思うのですが、バブル崩壊以降、
「安くモノを作れば売れる」時代から「差別化されたモノやサービスが売れる」時代に変化しました。

前者では、「安い値段」と「標準を満たす品質」が絶対的な価値を持つので、生産工程はより合理的、管理的になります。
予測の精度を上げ、不良品を減らすことがこの時代の勝ちパターンであり、これは労働集約的な営業会社も同様です。

ここでは「企業戦士」、もっと言えば「社畜」という言葉に示されるように、
社員は考えたり、趣味嗜好を持ったりする「ヒト」ではなく、健康で、指示通りに動ける「モノ」としての側面が重視されることとなります。

後者については、各種ブランド品やアップル、グーグルの名前を出せば足りるぐらいになってきてしまいました。
もはや「安い値段と標準品質」が差別化要因にならなくなった時代です。

「私たちだけがあなたのことを分かり、真摯に考え、上質な人生を約束します」や
「あなたのことは知らないが、私たちの創る世界を一緒に見たいと思わないか」といった
いろんなタイプのメッセージが出てくるようになったのも、すべては差別化のためといえるでしょう。

こうした時代に求められるのは、世の中に「ちがい」を創り出していく能力です。
そこで求められるのは、試行錯誤やアイデアの源泉となりうる「ヒト」としての価値が高い人間であり、
決して倒れるまで動き回れる「モノ」としての側面ではありません。

最近、理想的な組織を考える際に「失敗を許容する」とか「常識外れの意見も尊重する」といったような意見を耳にしますが、
それは全て「利潤を生む差別化を行うため」の方法論に過ぎず、「安くて標準」を求める企業には馴染まないでしょう。

逆に言うと、アップルやグーグルの社員が快適な環境で自由に振る舞っているように見えるのは、
決してこうした会社が人道的で社員に優しいからではなく、そうした方が利益が生まれやすいという、極めて合理的な理由による、と言えます。

とすれば、「なんで自分の会社はアップルやグーグルのように自由にならないのか」と思っている人は、
まずは自分の会社がどちらの時代かを見つめなおす必要があるということです。

2.個人の自己認識の変化
次に、人々の変化についての話に移りましょう。
個別の話をすると非常にややこしくなってしまうため、おおまかな話のみとなりますが、
私は、今の20代以下の日本人に大きな影響を与えているのは「資本主義の生活への浸透」と「学校の権威の低下」だと考えています。

まず、資本主義が生活に浸透したことで、家族が個人に分解されました。
もちろん、様々な理由があってのことだとは思うのですが、とても単純に考えた場合、
「1家族に1台固定電話を売るより、1人1台携帯電話を売った方が利益になるよね」
という力が働いたことが、20代以下の日本人に大きな影響を与えたと考えています。
そしてそこには当然、「お金があれば誰でも売買できる」という下地があったことも重要です。

さらに、学校の権威の低下により、子ども時代に個人が誰かの下に所属する、ということがなくなりました。
このことにより、自分の外にある規律や価値観を取り込んでいくという成長過程が、著しく損なわれたと考えています。
自分探しの背後に隠れている「自分は自分」ということが素朴に信じられるようになったのは、ここ数十年のことでしかありません。

つまり、お金という手段を出せば、ある程度自由にモノを所有できるようになったことと、
自分が誰か他の人の所有物ではないという考えが広まったことにより、
自分=所有するもの、外部=所有されるもの、という図式を、20代以下の日本人は他の世代に比べて、無意識的に持ちやすいと考えられます。
(恋愛に興味がなくなるとか、欲望がなくなったといわれる一方で、
ソシャゲのカード収集にはお金を使うのも、近い考え方で説明できると思います。)

以上2つのテーマから、「ブラック企業」が研修で行おうとしていることは、

・「ヒトとしての人間の価値」が優位となる時代において、何とか「モノとしての人間の価値」をつくり出すために、
・「他者から所有される」という考えが希薄な若者を所有しようとすることである

と言うことができます。
このように考えれば、「男は黙って会社のために働くこと」という考えがあった時代に比べ、
現代が彼らにとってどれだけやりづらい時代かは、一目瞭然です。

外部から見てどんなに非合理的だとか、疑問に思える内容であったとしても、
彼らは彼らなりに、時代の流れの中で事業を存続させることに必死なのだと言えるでしょう。

だからと言ってブラック的な会社を擁護する気はまったくありません。
時代に応じて変化していくことは必要不可欠ですし、淘汰されることも自然です。
とはいえ、すべての個人が「差別化の時代」に適応していくこともまた難しく、
全部の会社が「脱ブラック化」したら、それはそれで大変な社会になるな……という思いも、
一定数以上の方と共感できるのではないかと信じています。

――――――――――――――――――――――――――

今回の記事の構想は、岩井克人氏と「資本主義から市民主義へ」で述べられている「商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義への変化」や
「人間はヒトとモノの両方の性質を持つ」といった内容を参考にしています。
非常に面白い本でしたので、興味がおありの方はぜひ読んでみてください。

「絶対に◯◯するための3つの方法」みたいなタイトルにとっくに飽きてる人たちと話してみたいこと

世の中のこと
あなたと、あなたの周りの人たちの想像力は健全に保たれていますか?という話。

情報がこれだけ溢れて、個人の目に映る時間がどんどん短くなるWeb上で、キャッチーなタイトルやコピーが増えるのは当然のことだと思います。
ましてや、それを作る人たちはユーザーの「思い」をなんとか掴もうと努力したり、それをコンセプトやプロトタイプに落とし込んで実現したりするために、様々な努力や学習を重ねています。
自分が担当する記事や広告を、多くの人に見てもらいたい。それは当然の仕事であり、欲求でもあります。

問題は、そのようにユーザーフレンドリーなタイトルや商品が世の中に溢れれば溢れるほど、多数のユーザーの想像力が使用される機会は減り、結果的にますます「自分たちが欲しいものを考えられなくなる」ということです。

つまり、優秀な人々がよりユーザーのためを思ってが仕事をし、会社が利益を上げ、革新的な商品やサービスが出回ると、享受する側の想像力がどんどん弱くなっていくというスパイラルに陥るのです。
なぜなら、自分たちが一番欲しいものは、市場によっていつの間にか与えられてしまうからです。

表題に掲げたようなタイトルが流行っているとするならば、流行に乗るとは最先端を行くことではなく、「みんながやっている(見ている)」という免罪符を得て自分の行動に外部の保証を付け加えようとする行為になってしまいます。
外部の保証で行動するということは、個人的な思考力や想像力を捨て去ることと同じです。

そこに残るのは、孤立は怖い=みんなと一緒なら安心、という周囲の目を気にした感情だけです。

想像力を高めるということは、辛い現実に直面することでもあります。
高い希望を持てば、絶望する回数が増えるのと同じことです。
自分で扱える範囲の希望を大切にして、幸せに生きることは何ら批難されるべきことではありません。

ただし、世の中は確実に変化していきます。
そしてそれは、ほぼ間違いなく、今の安定を願う人にとって脅威となる形で起こります。
そうした世の中を、自分なりに想像すること。
その中で自分がどんな風に、誰と関わって、何をしたながら生きているかを想像すること。
その力は、何気なくfacebookTwitterをスクロールしているまさにその時に、強まったり弱まったりするのです。

情報を鵜呑みにしないだけでなく、目で追うだけで終わらせないこと。
引っかかったことがあれば、1日に数回、そのことについて考えてみること。
こうした行動の積み重ねが、健全な想像力を育む糧となるのです。

あなたと、あなたの周りの人たちの想像力は、健全ですか?

発達し続けるテクノロジーに、個人としてどう向き合うべきか?

昨年バズった「10年後になくなる仕事」の記事(下記リンク参照)や、30年後の世界から2015年を見つめるNHKのNEXT WORLDなど、ご覧になった方も多いと思います。
これらの記事や番組では、テクノロジーの発達により仕事や日常生活など、あらゆる場面がこれまで以上に変化することがどんどん示されています。
衝撃的なのは、その変化が未来予測ではなく、現実として生じつつあるということです。

オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」702業種を徹底調査してわかった | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

現状、この変化は一方通行であり、速度が鈍くなることはあれど、テクノロジーが無くなる方向に進むことはないでしょう。

テクノロジーが変われば、環境が変わります。
当然、環境が変わればその中で生きる人間も変わらざるを得ません。
そこには大きな混乱や、苦痛や、絶望が伴うでしょう。
例えば、ラダイト運動を起こした熟練工や、ペリー来航に戸惑ったかつての日本人のように。

往々にして、人は環境が変わる際に「政治を変えるべき!」「制度を変えるべき!」と言いがちです。
しかし、訪れることが確実な変化ならば、「自分が変わるべき!」という意識を持った方がいいのではないかと思っています。
自分の仕事や大切にしているものが、急に無価値になるその時に、慌てないためにも。

というわけで今回は、テクノロジーがもたらすもっとも大きな変化、つまり「死の克服」という現象を考えてみたいと思います。
記憶の完全なバックアップを取れたり、自分そっくりのアンドロイドを作れたり、機械で弱った身体を補強したりできるようになることは、とっても良いことのはず。
ですが、どこかしら不安を感じはしないでしょうか?
その理由を明らかにしつつ、「では、どうすればいいのか?」についても、少しだけ考えてみたいと思います。

その前に、「死」というものを定義したいと思います。ここの捉え方が、1番重要ですので、「何を言っているんだコイツは」と思っても、ぜひしばし、お付き合いください。

突然ですが、私は現在の「人間の死」には3つの種類があると思っています。 
(しばし、お付き合いください!)

1つ目は、肉体的な死です。
いわゆる「死」と言われているもので、老衰や事故死などを含みます。
法律的に「死」と言われるものは、主にここに分類されますし、他の生物の死もこうしたものがほとんどでしょう。

2つ目と3つ目は、同一直線上の両端にあるものです。
前者が「個人的な死」で、後者が「社会的な死」です。
歴史のある時点で生み出されたと考えられるこれらの死は、対比しながら考えると分かりやすいかもしれません。

まず、人は「誰かと一緒にいたい」と思うときもあれば、「一人でいたい」と考えることもあるでしょう。
この欲求を「同化の欲求」と「孤立化の欲求」と名付けます。

ここで、わかりやすさのために順番を入れ替えますが、「孤立化」を極限まで進めていくと「社会との無関係」という状態が発生します。
つまり、「他社と一切関わりを持たずに生きている」という状態です。
厳密には違いますが、戦死したと思われていたにもかかわらず、無人島で生きていた日本兵の方などを想像するとわかりやすいかもしれません。
たまたま発見されたから「生きていた」ものの、永遠に見つからなければ間違いなく「死んでいる」と思われていたでしょう。
他者とのあらゆる関係性が失われてしまうこと。これが「社会的な死」です。
主観的には「生きて」いますが、それが報われるのは、社会的なつながりを回復したときだけです。

一方、「同化」を極限まで進めていくと、「集団への埋没」ということが発生します。
つまり、「自分ととある集団が、境界がわからないくらい一緒になってしまう」ということです。
少しわかりづらいかもしれないのですが、もしその人が本当に「自分と集団の境界がわからない」と感じているならば、「個性」というものはなくなり、その人を動かしているものは「外部の規律」だといえます。
なぜなら、その思想や行為が集団と完全に一致するということは、個人としての思想や行為が存在しないことと等しいからです。
自己という存在を完全に失うこと。これが「個人的な死」です。
永遠に洗脳され、ないしは発狂している状態、と考えてもいいかもしれません。

先ほど私は「人は『誰かと一緒にいたい』と思うときもあれば、『一人でいたい』と考えることもある」と言いました。
これは、本来的には「『個人的な死」から逃れるために集団から離れたくて『孤立化の欲求』が生じ、『社会的な死』から逃れるために集団と交わりたくて『同化の欲求』が生じる」ということ。
つまり、両方の「死」から逃れるために矛盾した行動を取らざるを得ないという、まさにその中から生じる現象なのです。
(もしこの世界に自分1人しかいなかった場合、そもそも自己という存在を認識することができません。したがって、「個人的な死」もあくまで集団との関係性の中で生じることとなります。)

ここまでで、2つの死が「同一直線上の両端にある」という意味がご理解いただけたのではないかと思います。

さて、この3つの死を定義したことによって、「テクノロジーによる『死の克服』に不安を覚えるのはなぜか?」という問いの回答は、かなりスッキリしました。

それは、「現在発達しているテクノロジーでは『肉体的な死』は克服できるけれども、同時に『個人的な死』と『社会的な死』の問題をより強めるものであるから」という回答です。
「肉体的な死」の部分は分かりやすいと思いますので、後半の文章について、もう少し詳しく見てみましょう。

まず、「個人的な死」についてです。
テクノロジーの発達により、これまで以上に「個性とは何か?」という問題が目の前に突きつけられてしまいます。
「このかけがえのない、たった1つの存在としての自分」という前提は、まったく同じ記憶を持ち反応パターンを示す人工知能を、姿形を再現したアンドロイドに組み込むことで簡単に崩れ去ります。
このとき、自分の独自性というものはなくなり、自己という存在の確かさを支えるものは消え去ってしまいます。
こうして、「個人的な死」はとても身近な存在になります。

一方、「社会的な死」については、問題はもっと深刻です。
現在ですら、生きようと思えば他社とほとんど関わらずに生きることが可能です。
ましてや、身の回りの世話をほぼ全てやってくれる機械ができ、仕事もなくなり、生きていくのに困らなくなれば、機械だけと関わっていれば、不満のない日々を送ることができるでしょう。
しかしこれは、上記の定義から言って、まちがいなく「社会的な死」を迎えた人間の姿です。
余談ですが、私には、動物に限らずぬいぐるみや小さな機械にすら感情を見出し関係性を作り出せてしまうということそのものが、人間の「社会的な死」への抗いにあるように感じられます。

さて、これまで見てきたように、テクノロジーの発達は1つの問題を解決しますが、同時に2つの問題を深刻にしてしまうことがわかりました。
しかし、この流れは止まりそうにない。では、個人は何を変えるべきなのか?

それは、「自己の喪失」と「関係性の喪失」を反転させたもの。
すなわち「集団と関わり合いながら、個性を確立し、社会性を身につけていく」というものになります。
自己啓発本やビジネス書などでさんざん扱われているテーマですが、「そうすれば上手くいく」ではなく、「そうしないと(定義上)死んでしまう」という意味で、その必要性はより切実になっていると言えるでしょう。

こればかりは、ツールとしてのテクノロジーがどれだけ進歩しようとも、それを使用する人間が発達しない限り、決して解消できない問題です。
なぜなら、「個性」や「社会性」はもともと存在するものではなく、生きて生活しながら自分で編み上げていくものだからです。
(効率的に上記を達成する方法は幾つか考えられますので、それはまたの機会に書きたいと思います。)

最後に、今回のテーマとは外れますが、現在の「自殺」は、この「個人的な死」と「社会的な死」の両方を経験してしまうこと(正確には、片方の死が既にあって、もう片方がそこに加わること)で生じるのではないか、と思っています。
逆に言えば、「個性が確立されている」「安心できる社会的関係がある」が担保できていれば、「自殺」は減らせるのではないか……と思いつつ、その具体的施策に苦心されている方々には、本当に頭が下がる思いです。

世の中の環境が変わったのだから、そろそろ「勉強ができる人」と「頭がいい人」をきちんと定義すべきだと思う。

1月も終わりに近づき、2月には大学入試の二次試験、3月には新卒採用のプレエントリー本格化、4月には新入社員の入社と、学生に関するイベントが目白押しになっています。 


近年、「いい大学に入っていい会社に入る」「高学歴は仕事ができる」といった学歴信仰はだいぶ崩れてきたように思います。
しかし、今でも学生は少しでも勉強ができるようになって高い偏差値の大学に入りたいし、企業の新卒採用担当者は学歴の高い優秀な学生を集めたい、という心情自体は広く残っていると感じます。

個人的には、こうした信仰や心情が早く消え去って、学生と企業の目線が近づいてほしいと考えています。

そこで今回は、その心情の根っこにあると考えられる「『勉強ができる人』と『頭がいい人』は、なんとなく違うことはわかるけど具体的にはわからないよね」というものについて、考えてみたいと思います。

結論から言うと、「勉強ができるための力」と「頭がいいための力」(日本語がおかしいですが、「頭がよくなるための力」とも異なるため、このまま進めさせてください。)は、まったく別のものです。

前者は「体系化された智恵から導かれた知識を身につけて、問いに対して適切に取り出す力」です。
一方後者は「身につけた知識を現実に即した形で体系化して、場に応じて適切に取り出す力」です。
(ここで「場」という言葉には、自分を取り巻く歴史や環境の全てを指す、かなり幅広い意味を持たせています。)

分かりやすく考えるために、突然ですがここに1つの図書館を登場させましょう。
それは、古めかしいコンクリート造りの図書館です。

館内には新しいものから古典と言われるものまで本がきっちりと並べられており、スタッフは来館者の求めに応じて、きちんと本を渡すことができます。

得意な要求は「数学の歴史について書かれた本がほしい」といったものです。100人に対して100回、適切な対応を取ることができます。
対して、苦手な要求は「数学についての面白い本がほしい」や「自分に合う本の探し方を教えてほしい」というものです。
「面白い」や「個人の趣味嗜好に合う」といった要求は、スタッフの能力を超えてしまっているのです。

これが「勉強ができる人」の比喩であることは、すぐにお分かりかと思います。 
では、果たしてこの図書館は、まったく来館者の要求に答えられないダメな図書館でしょうか?
もちろん、元々はそうではなかったのです。
現に、今でも一定の要求に対しては、きちんと対応ができます。

実は、来館者があれやこれやと勝手なことを言うようになったために、これまでの対応策では対処できなくなったというのが、この図書館の真実です。

これは、とても重要なポイントです。
「勉強ができる人」がまったくダメだというわけではなく、環境の変化により、一部の領域において、この力が通用しなくなってきたという方が適切なのです。
そしてその一部の領域こそが、多くの「勉強ができる人」が行く、いわゆるお仕事の道なのでさ。

では、一体なぜ、この力は通用しなくなってきたのでしょうか。
今一度、それぞれの定義を見てみましょう。

「勉強ができる力」とは
「体系化された智恵から導かれた知識を身につけて、問いに対して適切に取り出す力」です。
一方「頭がいいための力」とは
「身につけた知識を現実に即した形で体系化して、場に応じて適切に取り出す力」です。

ここで異なっているのは、

知識と体系化の方向性
現実を考慮しているか否か
目線を向けているのは問いか、場か

という3点です。
3つに分かれてはいますが、出てくる結論は1つです。
つまり、「その場にいる人間関係や利害関係を考慮しながら、現実に即した形で、自ら得た知識や経験を活用し体系化するサイクルを回すことで、頭がいい人になる」ということなのです。

「勉強ができる人」がやってしまう、もっとも悲惨なことは、「面白さ」や「個別の趣味嗜好」を理解しようと思って、古今東西ありとあらゆる面白いものや個人の趣味嗜好について調べ、それを知識として貯えることで、目的を達成したと思うことです。

感情や人の心理というものは、常に現実や場と結びついており、例外を生じさせます。その度に情報をアップデートしたとしても、いつまで経っても「勉強」は終わらず、新しい物事に対応できるようにはなりません。

そしてこの「新しい物事に対応する」という事象こそが、「頭がいい人」が多く求められるようになった、直接的な原因なのです。
この「体系化する力」は「コンセプチュアルスキル(概念化能力)」とも近いものですが、ただ全体構造を把握するだけではなく、いかに現実に紐づいているかが重要だという点は、もっと強調されて良いと思います。
そしてまた、巷で言われる「コミュニケーション力が重要」という理由も、ここから導くことが可能ではないでしょうか。

それでは、どうずれば知識は正しく体系化できるのか?
この問いに対する答えは、私はまだ持っていません。
今のところ言えるのは、該当分野に関する豊富な知識と経験、世の中の流れに関する理解、そして、人間についての深い洞察がなければこのことは達成できないという、世の中でありふれた内容になってしまいます。

これではつまらないので、最後に余談を1つ。
天才と言われる人に変な方が多いのも、同じ原因から導けるかもしれません。
つまり、変わり者であることが人間関係や利害関係のコストを下げ、実践と体系化のサイクルを高速化する戦略になっているという仮説です。
原因と結果はあべこべかもしれませんが、それなりに有効な視点かもしれません。

いいね!が壊す個人の世界〜facebookからおもしろいことは生まれません〜

ネット文化
facebook(以下FB)を1、2年使っていて、やっと納得できたことがあります。
それは、ここはあまり多くを期待してはいけない、公の場なのだということです。

FBは、ゆるいつながりを生成・維持するには、本当に素晴らしい場です。
仕事を始めてから、本当に多くの方と友達になり、つながりをさらに深めるきっかけになっています。

ただ、そこにおもしろさ、エンターテイメント性を求めると、途端に味気なく、まったく魅力的でない場になるのです。
なぜなら、FB自体に、おもしろさを打ち消す仕組みーそいつの名こそ、いいね!ーがあるからです。

今日は、どうしていいね!がおもしろさを打ち消すのだろう?というお話です。
(ここで言うおもしろさとは、個人に帰属する独自性や意外性の高い体験や考えが含まれていること、とお考えください。)

いいね!が多くつく投稿には、いくつかのカテゴリーがあるのは、皆様もお気づきだと思います。
ここでは便宜上、それを下記の3つに分けてみました。

1.写真(食べ物、子ども、動物、集団、風景など)
2.前向きに終わる後ろ向き発言(今は苦しいけど、この経験も大事にして幸せになるよ的なもの)
3.ライフイベント(恋愛、結婚、(前向きな)転職など)
※記事の転載などは、その人自身から出た表現とは区別するため、上記のカテゴリーから除いています。

大前提として、人は他者からの反応がなければ、生きている実感が持てない生き物です。
無視、つまり徹底的な無反応がもっともひどい存在の否定であることを思えば、理解いただけるかと思います。
(もちろん、暴力等もひどい仕打ちであることには変わりありませんが、存在自体を否定しきれてはいません。)

逆に言えば、他者からの反応は、生きている実感を得る一般的な手段です。
いいね!が増えると何だか幸せな気持ちになって、あの人にもこの人にも認めてもらえているような気がするのは、まさにこの理由によります。

当然、生きている実感はないよりはあった方が良いものです。
と言うことは、いいね!もないよりはあった方が良いと考えられます。
だから、いいね!は、あった方がいいのです。


……ところが、これはあくまで、個人単位で見たときの話です。
これを集団で見たときには、想像される通り1〜3のカテゴリーのものばかりが目につくようになります。
それでは、同じような投稿が溢れるから、おもしろみに欠けてしまうのでしょうか?
実は、問題の本質はそこではありません。

その本質とは、投稿者がいいね!を求めると、必然的に見た人が嫌な気持ちにならない、お利口さんの投稿をしてしまうことにあるのです。
今一度、1〜3を見てください。
基本的に、誰も傷つく人がいない表現であることが理解できるかと思います。
誰かへの誹謗中傷、同情するのも困難な悲惨な事件や妬んでも妬みきれない幸運は、そこには現れてきません。
それこそが、誰にでもある個人的で大切な経験であるにも関わらず、です。

ここで、いいね!の意味は逆転してしまいます。
自分の表現したいことそのものではなく、見た人を不快にしないための投稿ですから、基本的にはその反応が悪いものであるはずがありません。
しかしそのために、「あなたを認めているよ」というプラスのメッセージだったはずのいいね!が、ここでは「見てはいるよ」というナチュラルな意味合いとなります。
すると、いいね!が無いということが「見てない」から「見たけど何も感じなかった=無視」まで、あらゆるマイナスのメッセージを持ち始めるのです。

つまり、いいね!の持つ意味合いが、「あなたの気配りは間違っていないよ」という免罪符にまで変わり果ててしまうのです。

こうして、個人的な気持ちを個人的に出せるSNSという幻想は破れ、多くの人が、誰かの目を気にしながら投稿を続けるという事態が発生するのです。
当然、みんなのために気配りしながら投稿される諸々のものに、おもしろいものが含まれているはずもありません。
それは誰も傷つけないもの。
つまり、心に残らないものだからです。

もちろん、FBの投稿の中には、おもしろいものもあります。
しかしそれは、その人が意志を持って、恐らく批判も受け取る覚悟でそのことに取り組んでいて表現しているからであって、FBの仕組み自体が生み出したおもしろさではないのです。
(最近、あえて少し極端なスタンスを取った投稿に共感が集まるのは、FBの仕組みを活用した例と言えるでしょう。個人的には、あまり好きではありませんが。)

本日の結論は、上記のようなFBの特徴を踏まえてうまく付き合っていきましょう、ということです。
世の中にはFB疲れなる、FBをすることで逆に疲弊してしまう人たちがいると聞きます。
それは、FBが公の場であれば当然のことです。
リアルでもネットでも誰かに気を遣い続ける生活は、個人、その人自身を、どこか遠くに追いやってしまうのです。

それでは、私的な感情や考え、誰もがもっとも大切な存在とすべき自分自身は、どこでなら満たされることができるのか?

問いは、まだまだ続いていきます。

※追記
TwitterInstagramとは何が違うのか?という質問をいただいたので、少し文章を増やしてみます。
ただ、これらはじっくりと使ったことがないため、偏見が含まれている可能性もあります。予めご了承いただければ幸いです。

まず、FBとTwitterInstagramでは、その場の持つ意味合いが異なるため、当然にいいね!やfavoriteの意味合いもまた異なると考えられます。

そもそもInstagramは写真ですから、他者を傷つけうるものではないため、確執を生むこともありません。
また、写真は芸術の分野に属するという理解もあり、そもそもすべての人が良いと思うことを、前提としていないため、いいね!がない=たまたま好みに合わなかった、という理由付けが可能です。

Twitterに至っては、匿名性がある程度担保されていることと、多数の人の言葉が同時に目に入ってくることによりfavのハードルが上がるため、favがつかない=無視されている、という意識が浮かびにくいものと思われます。
そもそも、生活の一挙一動を呟くなかで、全てに反応がもらえるとは期待してもいないでしょう。
期待がなければ失望もないということで、Twitterのfavはまだ、プラスの意味合いを持ち続けていると言えるでしょう。

ただし、最近はハッシュタグ文化が起こったため、表現方法は同じなのに話題になる人、ならない人が分かるようになってきました。
そこに対して、反応を求めて表現をしている人は、もしかしたら気遣いをしているのかもしれません。

このように見てみると、FBのいいね!による問題は、誰にとっても口当たりの良いものを提出した結果、そこに反応がなければ自分自身にその責任を求めざるを得ないという、まさにその内にあると考えることも可能かもしれませんね。



クソコラグランプリに見え隠れする日本の病理

世の中のこと

突然ですが、ISIS(イラン、シリア、イスラム国)の件に対するネットの反応って見ましたか?

その中で、「クソコラグランプリ」っていう画像が拡散されているのを知っていますか?

もしご覧になっていれば、あの画像って、面白かったですか?


個人的にはあんまり秀逸なのは無いな、と思ったのですが、もともとこの手のネタが好きということもあり、「こんな画像をつくるなんて不謹慎!ひどすぎる!」という100%の抵抗感までは抱きませんでした。


でも、それ以上に、久々にかなりの恐怖を覚えました。

日本がテロの対象になるんじゃないか?と思ったからではありません。(これも正直に言うと、ちょっとはあります。)


あまりにも無思慮で、無責任で、無配慮な「大衆」の姿が、それらを病理として抱えた存在として、そこに見え隠れしていたからです。


この「大衆」の姿は、本件に関して、あちらこちらで見ることができます。

「テロは断じて許してはならない!徹底抗戦すべき!」や

「危険を分かってて訪問したその人たちが悪いから殺されても仕方ない」や

「日本は国民を見殺しにする悪逆非道の国家だ!」など、極端な見解や我関せずの態度をとる多くの方に、先ほどの病理が見られます。


無思慮とは、考えないということです。

ある情報に対して、ある感情や思い込み(「ネタにできそう」とか「戦うべき!」とか「どうでもいい」とか「国がひどい!」とか)がまず浮かんで、それをそのまま表現しているということです。


無責任とは、表現には責任が伴うということを知らない、ないしは自覚していないということです。

今の日本では、表現は0円でできますが、タダではありません。各種炎上事件を思い返せば、有名無名問わず、表現の対価を受け取っていることが分かります。それは、その表現を非難する、炎上させる側にも、本来的には発生している対価です。


無配慮とは、他者の視点が欠けているということです。他者とは、自分のフォロワーだけでなく、その外にいる人たちも含みます。

クソコラグランプリも、マンガやアニメなどの創作物で行っている分には、内輪ネタで終わります。あくまで想像の世界の出来事だからです。

ただし、そこに政治や宗教の要素を含んでしまえば(本人は無自覚だったとしても)、必ず現実との交流が発生します。当然、そこを支配し始めるのは現実のルール、「ネタをネタと見抜けない人は」では済まされないルールです。

(余談ですが、想像の世界の出来事でも激怒したり悲しんだりする人がいるのは、その人にとってはそれが現実の世界に等しいからです。)


実際、現在TwitterFacebookで起こっている大多数の表現は、これらの要素を持っていると感じています。

一方で、思慮深いとお見受けする方々は、本件に関してネットではほぼ発言されていません。すぐに、考えなしの同意、反論、逸脱が溢れること。つまり、反応する方々がやりたいことは何らかのやり取りではなく、1つの発言をダシにした自己表現であることが、分かっているからでしょう。


ここまでを踏まえて、表現の自由の問題に行くこともできます。あるいは、ネット上での議論の仕方や、そもそも発言する際の、意見とその人自身の未分化についても飛ぶことも可能です。

個人的には、TwitterFacebookの場としてのつまらなさについて、一度まとめてみたいです。(場としての有用さという観点では、とてつもない恩恵を受けています。)


けれども、本日は1つの結論と仮説を提示して終わることにします。

本日の結論は、振り切った極論もどっちつかずの態度も、いずれも自分で自分のバランスを取る力がないことの裏返しである、ということです。

それは、3つの病理から自然発生的に生まれる態度です。


では、3つの病理の根本とは何か。

それは、他者と思想・信条的につながりたいという欲求が、ネットを見ているだけで自分勝手に簡単に満たせてしまうという、まさにその内にあるという仮説です。


今現在満たされていれば、改善・成長の意欲も湧かず、緩やかに破滅することも受け入れられてしまう。

多かれ少なかれ、様々なレイヤーで確認できる現象も、同じ原因を抱えているのではないかな?と、そんなことを、なんとなく考えています。